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#7 日本伝統の漢詩文と中国文学

川合様

 猛暑が襲来しています。お元気にお過ごしでしょうか。私は前期末に向けた支度にかまけてしまい、ご返事が遅れてしまいました。こんなことではいけません。
 さて、きっと誰もが高校で杜甫の「春望」(国破れて山河在り)や李白の「静夜思」(牀前月光を看る)を習ったことがあると思います。これを日本文化の中の漢詩文と受け止めるか、それとも外国文学としての中国文学と見るのか、この違いは高校の漢文授業の現場を巻き込んで、将来にもわたる議論の種になるでしょう。もう十数年前のことになりますが、ある市民対象の漢文講座の1回を、辺塞詩をテーマに担当したことがありました。熱心な高校の漢文の先生が応対してくださったのですが、話が終わって控え室でお茶をいただいたときに、もう少し時間があったら中国語で朗読していただくと良かったのですが、というご意見をいただきました。高校現場でも、漢文を外国文学として捉える人が増えていたのかもしれません。

 その本題に進む前に、宿題となっている明治時代に出現した中国文学史の意味について、私なりの考えを整理しておきたいと思います。中国文学史の出現には、二つの意味がある。一つは、西欧流の文学概念(小説+戯曲+詩)が導入されて、伝統漢詩文に、小説(『水滸伝』や『三国志演義』など)や戯曲(元雑劇など)が付け加えられた全体が中国文学と見る枠組みが提示されたこと。もう一つは、伝統漢詩文が、日本の文化から切り離されて中国固有の文学とされる道を開いたこと。
 後者については、19世紀以降の西欧に始まった国民国家の観念が影響しているはずです。国家には、国境があるように、文化にも境界がある。19世紀以降、国ごとの文学史が出現したのは、文化の境界を確定する作業だったのだと思います。その流れの中で明治の日本では、伝統的な漢詩文がそのような所属不明の文化となったというのが、前便(#5)で私の見立てでした。
 川合さんはこれに対して、明治期に書かれた中国文学史には、中国文学を日本の文学から切り離す意図はなく、中国古典文学の復権を志す中で、日中の文学を一体として捉える立場が大勢だったという、お考えを述べられました。しかし、その活動が却って中国古典文学を日本文学から追いやる、「ねじれ」が起きてしまったと。
 私なりに整理してみました。川合さんが「東洋主義」とよんだ日中の文化一体の感覚は、すでに江戸時代にもあったものか、それとも明治時代の新概念だったのかが気になります。中国文化を日本とは別個の外国のものと見ることと、日中の文化を一体と見ること(東洋主義)は、一見すると、正反対のものです。しかし、あくまでも私の観測なのですが、この種の旗幟鮮明な主張というものは、現実の中で日中が区別されてゆく事態の中で初めて出現するものだと思います。つまり、西欧文化が日本に大挙して流入するなかで中国文化が社会から押し退けられてゆく、このような明治~大正の状況がその大前提にあった。二つの正反対の主張は、この一つの状況に根ざしたもの、同根の関係にあるのではないか。
 この間の数十年に何が起こったのか。もはや江戸時代の無意識のうちに中国文化と共にあるような「一体の感覚」がなくなり、日本と中国を対等に見る、さらにその先には、日本を東洋の盟主と位置づける枠組みへと意識の変化が兆していたようにも思います。或いはこの東洋主義は、やがて地政学的思考を孕みながらアジア主義へと展開してゆくのかもしれません。こうした流れは、近代日本の文化史を考える上で大きなトピックとなるでしょうが、さしあたっては脇に置いておきます。
 川合さんがお考えになった中国文学史を巡る歴史のねじれは、このような文脈で理解できるのではないかと思うのですが、如何でしょう。

 そこでいよいよ本題の、「日本伝統の漢詩文」と「中国文学」です。この二つは、中国文学を正統的漢詩漢文に限れば内容は同じものですが、これをどのように眺めるかで大きな違いとなります。
 私はこの両者を分けるものとして、第一に、中国風土の体験を考えてみました(前便#3)。この場合の風土は万里の長城や黄河や長江といった自然風土もさることながら、中国語を話す中国人という社会風土がよりいっそう重要だと考えています。この風土的洗礼を受けた者が、中国文学派に転じやすい。第二に、訓読の口調それ自体に魅せられた者は、概して伝統漢詩文派となりやすい。第三に、私自身がその一歩手前でしたが、中国語が上手くいかなかったり、中国現地の生活に馴染めなかったりした者も伝統漢詩文派になることが多い。こんな消極的な理由も、時には大事な理由になるものです。風土体験については、川合さんとの間に色々議論がありそうなので、いずれかの時期まで取って置くとして、ここでは訓読の口調に簡単に触れてみたいと思います。
 私は、今の大学に職を得る前に高校の漢文の教壇に立ったことがあり、今でも日本語学科に出張っていって国語科教職課程に必要な漢文の授業を担当することがあります。最近になって学生に忘れずに言うことなのですが、漢文ができるようになりたいなら、漢文を好きになるのがよい。返点や句法ばかりに気を取られずに、気に入った漢文を声を出して読み、憶えるほどに繰り返し読みかえすことが大事だ。つまり漢文訓読の口調に慣れ、その口調が心地よくなることが要諦であると。多少長い文章なら、その中に「豈に……せんや」の反語とか、「……の~する所と為る」の受身とか、「……をして~せしむ」の使役とかが含まれているものです。句法として取り出すのではなく、文脈の中で口調として憶えることが、句法を理解する捷径となる。また何よりも、漢文を敬遠する一番の理由が、漢文口調に疎遠なためと思われるので、その根本に手を着けるのが本筋だと思うわけです。
 こう前置きして授業を始めるのですが、学生たちは、私が句法の説明を板書する段になると、急に目覚めたようにノートを取り始める。高校の漢文で、句法が大事だと教えられたことがよほど身に滲みているのでしょう(しかしそれよりも、私の説明が学生に届かなかったことに反省が必要なのですが)。
 一般論として、古典教育における音読や諳誦の重要性を感じています。これと反対の立場が文法や訳解至上主義となります。授業で、何かのタイミングで和歌を学生に読み上げてもらうことがあります。するとかろうじて五七五七七のリズムで切って読むのですが、一向に気持ちがこもっていない。初めは、照れくさくてわざと気のない読み方をしているのかと思いましたが、話はそれほど単純ではなさそうです。要するに、和歌の口調が身に馴染んでいないのです。こんな読み方をして、それでも人麻呂や西行が好きになるような人がいるものでしょうか。
 もう一つ、多分私が小学生、まだ漢詩というものが世の中にあると聞いたこともなかった頃のことです。テレビの川中島の合戦の再現ドラマの中で、例の頼山陽の「鞭声粛々」の漢詩が朗読されました。この異様な日本語の響きが耳から離れず、それが何だったのか随分思いあぐねたものです。私の漢文訓読体験の原点は、ここにあったような気がします。
 漢文訓読というと、読解の方法と位置づけられることが多く、その結果、訓読でどれだけ原文の真意に迫れるのかとか、訓読が優れた便法であったため、欧米の詩に対するような翻訳の努力が、漢詩に向けられなかったという議論が生まれます。しかし訓読についてはもう一つ、訓読の口調そのものを取り上げる視点が必要だと思います。訓読の口調が、日本人の語感に何を付け加えたのかは論ずるに値するテーマです(萩原朔太郎は最後の詩集「氷島」になって訓読調を採用した)。それは例えば、七五調が日本人の語感に何を齎したのかを論ずるのと同じレベルの、重要な問題になり得ると思います。訓読の問題は、実に多岐にわたるように思います。またそれほどに深く日本の文化に食い入っているように思います。
 いよいよ散漫になりました。ここで失礼いたします。

2023年7月28日

松原 朗


(c) Akira,Matsubara 2023

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