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#19 日本の文化形成に寄与した「漢文訓読」

川合様

 お便り拝読しました。色々とご意見を戴くことができて、嬉しく思います。
 躑躅(ツツジ)や梨花は、必ずしも中国で春を代表する花となりえないだろうというご指摘については、躑躅がやや特殊な位置づけにあることを理解いたしました。しかし梨花には十分にその資格があると思うので、少しだけ補足いたします。例えば『唐詩選』にも採られた丘為の「左掖の梨花」には「冷艶 全く雪に欺[まさ]り、余香 乍[たちま]ち衣に入る」という名句があります。この「冷艶」の語など、中国の美学史に新しい美の範疇を付け加えた一つの事件です。また岑参[しんじん]の有名な辺塞詩「白雪歌、武判官の京に帰るを送る」には「北風 地を捲きて白草折れ、胡天 八月 即ち飛雪す。忽然として一夜 春風来たり、千樹 万樹 梨花開く」と、枝に雪を積もらせた木々を梨花を咲かせたと描いた、まことに印象的な詩句があります。梨花は、白居易の「長恨歌」が作られる前に、すでに唐詩になくてはならない春の花となっていたというのが私の理解となります。

 それはともかくとして、日本がどの様に中国文化を受容したのか、このことは、改めて川合さんのご意見を伺いたく思う重要な問題です。そこでまず、私の前便にあった不明瞭な表現について簡単に補足説明しておきます。日本は中国の文化に敬意を表しながらもコピーを目指してはいなかったらしいと私が述べたことについて、先人の真摯な努力を「コピー」という安易な物まねと捉えられかねない言葉で括るのは適当ではないとのご指摘がありました、その点についてです。
 人間の文化が、なりたいものの「まね」から出発するのはごく自然なことです。その行為を中国では「学」(取り込む)とか「習」(定着させる)と言ったのですが、それを劉勰[りゅうきょう]という文学理論家が一般化して「形似」と称したこともありました。私たちが言う「まなぶ」は、古語が「まねぶ」だったことは周知のことです。ただこれらの言葉は用いられる時、それぞれの文化的な色合いが附帯してしまいます。「まね」という行為自体を、何も足さず、何も引かずに言い表そうと思って、そこで日本語としては空っぽな「コピー」という言葉を用いることにしたのです。

 文化の形成には先進文化の「まね」が不可欠ですが、貫徹できない場合もあります。遠すぎたり、伝手がなかったり、消化吸収にコストがかかりすぎたりと、これらは消極的な理由ですが、日本の場合はこの中国からの距離を逆手にとって、固有文化の育成に成功したように思います。中国文化の換骨奪胎が可能になった切っ掛けは、「字訓」の発明にあると思います。字訓は、一面では漢字の意味(いわば日本語訳)ですが、しかのみならず、その漢字自体をそのように「よむ」という特性を持っています。このことが大事な意味を持ちます。「cat」の意味はネコですが、これをネコとは読まない。しかし漢字の「猫」はネコと読むのです。このような「字訓」を日本人が発明したことの意味は大きい。
 日本人はこの「字訓」を梃子として漢文訓読という方法を編み出し、外国の文章であるはずの漢文を、外国を意識する必要もなく丸ごと日本語に置き換えることを可能にしました。つまり日本人は、外国である中国との間に一線を画しながら、中国文化を導入する方法を手に入れたことになります。

 川合さんは、中国の古典文化の普遍性に説き及んでおられます。日本が素直に中国文化を取り入れることができたのは、仰る通り周辺地域に「漢字文化圏」としての一体感があったために違いありません。あるいは日本においてこそ、その意識は最も熾烈だったかもしれません。荻生徂徠の中国心酔も、個別的中国に傾倒したのではなく、中国古典文化を共通文化、というよりもさらにその上にある人類の普遍文化と見て心酔したのだと思います。徂徠に先立つ伊藤仁斎の場合はもっと明快で、『論語』を「最上至極宇宙第一の書」と称したことなど、とても個別的中国を念頭に置いて発せられたものとは思えません。そのような仁斎や徂徠の認識の一部は今日の日本にも伝えられていて、現状、漢字を日常的に使っているのは、中国・台湾を除けば日本だけです。日本人は、漢字を個別的中国に帰属するものと考えておらず、自分が使うのは自然なことだと思っているので、日本の民族感情に抵触することがないわけです。

 今から半世紀ぐらい前、日中国交回復に伴って中国語が普通の外国語となり、人々の往来もさかんになり、いわば壁のない地続きの交流が可能になった頃に時々耳にした憶えがあるのが、漢文を読んでも本当の中国のことなど分かるはずもないといった揶揄とも警告ともつかぬ発言でした。『論語』の世界など実際の中国にはない、過去の漢学者たちは、中国に理想の幻影を思い描いていただけだ。
 こうした発言は、いたずらに挑発的な語気をそぎ落としてみれば、十分傾聴に値します。中国の現にある風土と社会、それに中国人の生活感情を理解する必要がある。そのためには、自由に操れる中国語も有るに越したことはない。この往復書簡の初めの頃に文学の理解にはそれを生んだ風土の体験が必要だと述べたことがありますが(川合さんには別のご意見がありました)、その点で私には、この主張にはうなずけるものがあるのです。

 しかしそのことを認めた上で、別の考え方も成り立つように思います。かつて遣隋使や遣唐使の頃に、中国文化が日本に向かって滔滔と流れ込むことになりました。このような交流がその後の日本に継続していたとすれば、そのときは、中国古典は中国語で読むことがおのずと標準となったでしょう。事実、律令制度の官制には音博士が設けられて、正しい中国語の発音を官吏たちに教える建て前になっていたのです。この音博士、平安時代の中期以降は名目化したらしいのですが、もし大陸文化がその後も日本を風靡していたならば、教養人士には中国語の読み書きが期待されて、結果として、中国語の背後にある話者と、彼らが住む社会のあり方がいつも気掛かりなものとなったに違いありません。これでは、自分のことに専念したい立場からすれば不要なノイズの混入は避けがたいことになります。
 40年ほど前、私はピュアオーディオのマニアでした。ゆっくりと回る砲金13kgのターンテーブルにLPを置いてそろそろと針を落とす、この儀式があると、聞こえてくる音楽も違ってきます。CDにはこれがないから、聞き流してしまうようで物足りなかった。当時CDプレーヤはまだ発展途上で、色々工夫が凝らされたその一つが、配線の一部に光回線を挿入して、アナログ信号に混入するデジタルノイズを遮断するというものでした。これはそのまま、漢文訓読が日本の文化に果たした役割の比喩になるのではないかと思っています。漢文訓読は中国と日本の間にあって、地続きの交流を適度に遮断する役割を果たしていた。論語も杜甫も、漢文訓読の中では中国語から切断され、いわば日本と日本語の枠の中で理解可能のものとなった。このことは実際の中国を知ろうとする意欲を幾分か減殺することと引き替えに、不要なノイズの混入を拒ぎ、中国文化の精粋を吸収することに専念できる環境を用意したことになります。

 さらに漢文訓読は、期せずしてもう一つの役割も果たしたように思います。中国古典は訓読されることで日本語の中で完結したものとなり、遅れて成熟してくる日本語による文学に栄養を提供することになる。みずからが漢詩の名手でもあった嵯峨天皇の勅撰にかかる漢詩集『凌雲集』の成書が814年、最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が905年、この百年の間に進行していたのが漢詩文の中に高度に熟成された美感を、和歌の日本語の中に移植する作業であり、その受け渡しを容易ならしめたのが漢文訓読ということになります。そしてこの二つがやがて同じ土俵に上ることになる、その象徴的な例となるのが『和漢朗詠集』です。詰まるところ、漢文訓読という手法が、日本において和歌を、漢詩と同格の一級文学の地位まで引き上げる手助けをしたのです。
 もし漢文訓読なかりせば、漢詩はもっぱら中国語で読まれるものとなり、日本語の文学と互いに交わることも、また互いに刺激しあうことも困難になったことでしょう。両者はいわば永遠に交わることのない二本のレールの上を走り続け、且つ日本語による文学は、いつまでも二級文学の地位に止め置かれる可能性すらあった。こうして漢文訓読は、中国古典を私たちに理解容易な日本語の中に引き寄せただけではなく、他方、日本語文学の地位を引き上げることによって、日本の文化の成熟に前向きの役割を果たしたというのが私の見立てです。漢文訓読がこの両面の功能を有したとすれば、これがために日本人の中国理解が若干妨げられたことぐらいは大目に見てもよいことだと思います。
 日本は中国の文化に敬意を表しながらもコピーを目指してはいなかったらしいと私が述べたのは、この意味を含めてのことです。

2024年2月12日

松原 朗


(c) Akira,Matsubara 2024

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