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#17 漢詩文を読むとはどういう行為か

川合様

 川合さんが仰るように「中国から学んだテーマ・モチーフを日本は研ぎ澄ませてまるで日本の文化そのものであるかのように仕立て直してしまう」のは、その通りのことだと思います。こうして日本は、独自の文化を持つ国となった。
 川合さんが挙げた西行の「月見ばと契りおきてしふるさとのひともやこよひ袖ぬらすらむ」の時間感覚は、読み返してみて見事なものと感じました。二人は過去に「月を見たならばお互いのことを思い出しましょう」と未来の約束していた、今は「月が上った」、ふる里に居るあなたは月を見ながらきっと「涙を流していることだろう」と、時間が過去・未来・現在を行き来するのです。
 中国詩にも複雑な時間構成を持つものが無いではありません。同じく月を取り上げた王昌齢の「魏二を送る」が参考になりそうです。

酔いて江楼に別るれば橘柚香[かんば]し
江風 雨を引き 舟に入りて涼し
君を憶うとき 遥かに瀟湘[しょうしょう]の月に在りて
愁いて聴かん 清猿の夢裏に長きを

 ――やがて私は、君との別れを切なく思い出す時が来るだろう。その時君は、遥か遠く清らかな瀟湘の流れの上に差し出た月に照らされて、猿の甲高い悲しげな鳴き声を(私を思いながら)夢うつつに聴いているに違いないのだ。――
 別れは今。ところが作者は未来のある時点を設定し、そこを起点に、現在の切ない君との別れを追憶するというスタンスを取る。さらには未来のその時点で、君はきっと旅先の瀟湘で月下のもと悲しい猿の鳴き声を聴いているだろうと思量する。別れにある現在⇒未来⇒追憶の中の現在⇒未来の別後の光景、というふうに時間の中を複雑に往還する。この詩が王昌齢の詩の中でもとりわけ味わい深いものとなっている秘密は、こうした入り組んだ時間構成にあるのだと思います(松浦友久『詩語の諸相』研文出版)。しかし思えば、西行は、それをたった三十一文字のなかで見事やってのけたわけです。中国文学の中で遠く離れた人同士を結ぶよすがであった月は、日本の文学に持ち込まれ、さらに洗練される。和歌の文学は、普段私たちが考えているよりもずっと深いところまで達していたようです。
 前回ふれたように、大伴旅人が王羲之の「蘭亭集」の顰[ひそみ]みに倣って梅花の宴を催し、このあたりがモデルとなって、特定の花を愛でる文化が生まれることになる。中国の春の花は、梅・桃・李・梨・躑躅[つつじ]、また牡丹などが有名どころですが、特定の花を偏愛する文化は生まれなかったように思います。ところが梅花の宴の歌群は、はっきりと梅を名指しする文学であり、やがて日本人はこの方向を「桜」の一点に収斂させることで、王朝の文学に始まり、今に伝わる日本に独自の花見の文化を創り上げたわけです。

 ところで川合さんはここまで踏み込んでいませんが、付け加えることがあるとすれば、日本の文化は、大部分とは言わないまでも、相当部分が中国文化の吸収の上に成り立っているということでしょうか。しかしこう言ってしまうと、賛否様々な意見が出て来て紛糾しそうです。だから予め一つのことだけは確認しておきたいのですが、これまで日本は中国の文化に敬意を表しながらも、そのコピーを目指してはいなかったらしい。
 かれこれ二十年ほど前に、私の大学に北京大学副学長の何芳川氏が来訪され学生の前で講演して戴いたことがあります。北京大ほど大きな大学になると、副学長が複数いて、何氏は国際交流を担当していたとのこと。だからたくさんの国を知っていたわけです。その時に北京から連れてきた通訳が丸井憲氏(北京大学中文系文学博士、『杜詩双声畳韻研究』研文出版の著者)で、後日丸井氏から伝え聞いたところでは、何氏は、日本に来るたびに外国を感じるのだと言っていたそうです。この発言は、一方の当事者である中国人から発せられた点で、まことに意味深長です。
 自前の文化を持つことは「民族」の見果てぬ夢かもしれません。例えば互いに個性を競い合うフランスやイギリスですが、各所に古代ローマの大きな円形劇場の遺跡があるのを見たりすると、両者とも大枠としては古いローマ文明の分枝であり、その地域的偏差だと思わずにおれません。当事者には難しいことであっても、私たちは部外者なので、そのことが自然と見えるわけです。私は、そのようなごく自然な事実から目を逸らさずに、考えを出発させることができればと思います。つまり大事なことは、「種」となる文明があったことを認めた上で、それをどの様に受け入れ、消化し、自分にふさわしく身に付けたかを見ることだと思います。先の西行の和歌は、はっきりとそのような日本らしさを見せるものに他なりません。

 東には太平洋が控える日本の場合、文化は西側の大陸から伝わって来るのが基本でした。南海ルートによる稲作伝播にしても発源は大陸の南部。一方、西洋の影響が生じるのは安土桃山時代以降のことです。これは決定的な地理的条件となります。日本が接した先進文化は、その地理的条件に縛られて、西側の大陸にあったものだったわけです。西アジア発の青銅器や鉄器まで話を広げないとしても、インドの仏教も、中国の文字も紙も儒教も律令制度も、およそその後の日本に大きな影響を与えた文化の大部分が、中国でプールされ熟成されて伝わってきたのは仕方のないことです。この枠組みを乗り越えるために、大陸文化が大挙して伝わる前の縄文時代に日本の文化の淵源を求めたりすることにどれだけ有効性があるのか、はなはだ疑問に思ってしまいます。私には、純粋な日本とか日本文化とかを想定すること自体に、どうしても無理があるように思えるのです。

 かつて欧州の人は、神とは何かを問うことによって、自己(人間)を考えた。この論法を日本に当てはめれば、かつて日本人は、中国とは何かを問うことによって、自己(日本人)を考えた。荻生徂徠の中国心酔も、その見えない学問的弟子筋にある本居宣長の漢意排斥も、均しくその枠組みの中にあるのではないか。中国の存在は、その位に大きかったのだと思います。そう考えなければ、徂徠や宣長といった日本を代表する思想家たちの思想的苦闘の意味が見えなくなりますし、またそうした苦闘の中で私たちが日本人として自覚を深めてきた経緯まで見えなくなってしまいます(無論、日本人が中国を問うとき、中国とちぐはぐな自己を感じていることが前提となるのですが)。

 この辺に来ると、川合さんとの間に、少しだけ意見の違いがあるように思えてきます。明治の開国以来、また敗戦後のアメリカ中心主義的な風潮の中で、私たちは中国の呪縛から殆ど自由になりました。川合さんの「わたしたちが世界を把握する基礎的な枠組みとして中国文化はわたしたちの根底にあり、漢詩漢文を通してそれを学ぶことができる、それは確かなのですが、それだけがすべてではないし、それに縛り付けることはできない」という主張は、今はその通りなのです。そこでは中国文化も、中国の古典文学も、あまたある選択肢の一つとして、自由に選べるものとなりました。しかしその過程の中で、日本を考える大事な契機を、私たちは無きものにしてきたようにも思うのです。
 「漢詩文は伝統文化であるから学ばなければならない」という四角四面の主張は、安易に同調すべきものではありません。そうした押しつけがましさは、漢文嫌いを作るだけです。そうではなく、私たちが真に自由になるために、つまり他人の考えに由らず、自分の考えに由って振舞おうとする時に、我が身を振り返ることが肝要となります。徂徠が讃え宣長が嫌ったという漢意の正体を、つまり中国文化と日本との距離感を、要するに日本人とは何であるかを、今だからこそ私たちは考える時期に至っているように思うのです。

2024年1月15日

松原 朗


(c) Akira,Matsubara 2024

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