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#12 古典のなかに可能性を探る

松原朗さま

 街路のスタイルには二通りあるようです。一つはローマのように中心から放射状に道が延びる。もう一つは長安のように碁盤のかたちに道が区切られる。日本でいえば、前者は渋谷、後者は京都がそれぞれの典型といえるでしょう。放射状に広がる町にはいつも当惑します。一つ隣のストリートであることは承知のうえで、あとですぐ移れるからと進んでいるうちに、とんでもない方向に行ってしまうのです。松原さんとのやりとりも、初めはさほど違いはないと思っていたのが、往復書簡を続けているうちにずいぶん離れてきたような気がします。もちろん同一の道を手をつないで歩む(?!)より、差異に気づくことこそ対話がもたらしてくれる果実なのですが、遠すぎるとキャッチボールしようにもボールが届きません。どこに差異があるのか、それを明らかにしておきたいと思います。

 松原さんは古典を普遍的で確固とした存在として捉えているように見受けられます。明言はされていないものの、古典に対する尊崇の念のなかから、そんな気がする。おそらくそれは松原さんに限らず、一般に人々は「古典とは揺るぐことのない、永遠に不変の存在」、「時代によって変わるなんてありえない」、と思っているのではないかしら。そう思わせるところが、古典が権威あるかに見えるゆえんであり、同時にまた敢えて言ってしまえば、嫌われるゆえんでもあります。
 わたしはそこに二つの問題があるように思います。漢詩漢文が古典に属することは誰もが認めるところでしょうから、漢詩漢文を例にとって具体的に考えてみましょう。一つは漢詩漢文の典籍すべてが永遠に古典として君臨するわけではなくて、そのうちの何が代表的な古典なのかは時代によって異なるということ。もう一つは漢詩漢文を古典とみなすにしても、どんな面に注目するか、そこにも時代による違いがあるということ。もしそうだとすれば、古典といえども意外に柔軟なことになります。
 漢詩漢文のなかで、とりわけどんな書物が古典として注目されるか、そこに時代の変化が見られる例として、とてもわかりやすい例を挙げれば、かつて皇国史観が世を蔽っていた時代、文天祥の「正気の歌」などがもてはやされました。今となってはそれを暗誦できる人もまれでしょう。いかなる作品を古典の代表とみなすか、それも時代の風潮から免れないことがわかります。
 次に漢詩漢文のどのような面が取り上げられるか、そこにも時代の変化が見られます。#11を読むと、松原さんは合理性・実用性を目のかたきにしておられるようですが(笑)、以前わたしは或る研究者の『論語』に関する本のなかに、孔子の合理性をしきりに讃えているのを読んだことがあります。おそらくそれは合理主義が人類の進歩の到達点であるかに思われていた時代に書かれたものだったのでしょう。門外漢のわたしは軽率に口にすべきではありませんが、わたし自身は孔子は人間には認識できない領域があることを知っていたように思います。そこがほかの儒者、たとえば何もかも明白で、一片の翳りもない孟子との差異です。わたしは孔子がそうした陰翳を帯びるところが好きです。もっとも、儒家はかくも早い時期に合理的思考、そしてまた近代以降のヒューマニズムにも通じる思想をもっていた点で、あとあとまで神秘思想がはびこる世界史のなかにあっては、例外的な早熟さを示していることは確かです。ただその合理的思考が時に行き過ぎてしまう。
 孔子を合理主義者として論じた研究者を、わたしは批判しているのではありません。古典の摂取も時代によって変わることを示す好例として挙げただけのことです。ひるがえって思えば、わたしたち自身のテクスト読解や解釈も、これが到達点ということでは決してなく、これからも続く時間軸のなかで現代に位置するに過ぎません。上に記したようにわたしが孔子は人間には不可知の領域があることを知っていたと考えるのも、今という時代から生まれた発想なのでしょう。時代の恩恵と同時に、時代の制約も受けているわけです。しかしそれは嘆くに及ばない。なぜならわたしたちは今の時代で可能なことを可能な範囲で成して、次の世代に渡せばそれで十分なのですから。

 いつの時代でも人は時代の刻印を免れない。古典に対しても時代の制約のなかで向き合うほかない。このことは古典のほうに視点を転じて見るならば、古典はそれぞれの時代に応じて異なる面を見せるということにもなります。それは古典とみなされる書物が秘めている柔軟性、可能性でもある。さらに進んで、古典は時代ごとの要求に応じる豊饒さを含んでいてこそ古典なのだ、ともいえるのではないでしょうか。古典をこのように捉えれば、干からびたかに見えた古典は、限りなく汲み出すことのできる瑞々しい存在に変身することでしょう。
 するとわたしたちのすべきことも明らかになってきます。すなわち古典のなかの、これまで開いたことのない扉を開き、暗く閉ざされたままだった部屋に新たな光を注ぎ込むこと。そうして今の、さらに明日のわたしたちが必要とする知をこの世に導き入れる……こう書いてくると、言葉が浮いて来てしまいますから、当面は何が問題なのか、実態に即して考えてみましょう。
 わたし個人が問題と考えるのは、古典の新しい面を切り拓くどころか、同じ題材が同じ切り口で繰り返されてばかりいることです。今の時代の要求に応えるどころか、陳腐な面しか見せてくれません。いや、古典を責めることはできない。豊かな可能性を蔵しているはずの古典を旧態依然のままでしか見ない「人」に問題があるのです。
 なぜこのような事態がはびこるのでしょうか。それは古典について書く人、それを本にする人、その本を読む人、三者の間の悪循環がもたらした結果ではないかと思います。漢詩漢文を読む人には中国の古典とはこのようなものであるという思い込みがあり、出版社は読み手の求めに合う本を出版しようとし、書き手はそれに応じたものを書く。書き手がそのようなものを書くから、読み手の興味もおのずとその方向に固定され、似たようなものを求める、と循環する。知的生産も市場原理に支配されている今日、本は売れゆきによって決められる。こうした実情の結果、固定観念を打ち破るような中国古典は世に出にくくなってしまうのではないでしょうか。
 「書く人」の課題は、古典のなかの従来注目されることのなかった面を掘り起こし、その意義を明らかにすることだと思います。「従来注目されることのなかった面」と記して、「新しい面」と言うのを避けたのは、新しいものは往々にしてうさんくささが付きまとうからです。ことにネットが普及して以来、新しいものは目まぐるしいほどに入れ代わり立ち代わり登場しては消えていきます。わたしは新しいものに対して懐疑的にならざるをえません。

 このように書いてくると、自分が矛盾をかかえていることに気づきます。古典を新たによみがえらせようと唱えつつ、一方では新しいものは信用できないと言う。この撞着は「新しいもの」の中身に問題があるようです。「新しいもの」、言い換えれば「今」が、古いもの、「古」より価値付けられたのは、近代以降、ことに科学技術が人々の生活に次々と利便をもたらしてくれてからのことでしょう。それまでの長い時代、ことに中国では伝統が一貫して持続し、古が今より重んじられる時代が続きました。例外は秦の始皇帝と文化大革命、大規模に「古」を否定したのは、その二つの時期くらいしかなかったように思います。新しいものがもてはやされる現代とはいえ、新しければいいという時代も去って、価値のある新しさと単に古いものに変わっただけの新しさとを峻別すべき時が来ているように思います。古典のなかに埋もれていた、「価値ある新しさ」をわたしたちは発見していかねばなりません。ではその「価値」とは何か。普遍的な価値の存在にもすがれないわたしは惑うばかりです。

2023年10月16日

川合康三


(c) Kozo,Kawai 2023

 

 

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