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#18 文化の伝播と漢詩漢文

松原朗さま

 #17、拝読いたしました。貴翰のなかほどまで読み進むと、「この辺になると、川合さんとの間に少しだけ意見の違いがあるように思えてきます」とありますが、ならば「この辺」に至る前には「意見の違い」はないかのようです(笑)。実はのっけから違和感を覚えてあたふたしていたのですが、漢詩漢文に関わる範囲に絞って少しだけ言わせてください。
 中国の春の花の「有名どころ」として列挙されたなかに「梨」も入れておられますが、梨の花は一般にもてはやされた花ではなくて、白居易「長恨歌」の「梨花一枝 春 雨を帯ぶ」以後に初めて注目されるようになったこと、これまで繰り返し書いてきました。宮廷で玄宗の寵愛を一身に浴びていた時ではなく、死後の楊貴妃をたとえたのが「梨花」なのです。ただに美しいのではなく、暗さ・悲しさ・寂しさを帯びた、従来には描かれなかった美しさというべきでしょう。
 ツツジもここに並べてよいものかどうか。杜鵑[とけん]と表記すれば、蜀の望帝[ぼうてい]の化身と言われるホトトギスと重なるので、不吉さも伴います。
 それはともかく、「特定の花を偏愛する文化は生まれなかったように思います」は、誤解を招きやすいのでは?たとえば牡丹でしたら、町中が熱狂した時期がありましたね(「洛陽牡丹記」)。特定の花への偏愛がなかったというよりも、時代ごとに偏愛する花が変わるのが、桜一辺倒の日本との違いでしょう。時代によって好まれる花が変わるだけではありません。同じ花でも違う捉え方をされることがあります。春を代表する桃李について、「桃李 言[ものい]わず、下に自[おのずか]ら蹊[みち]を成す」(『史記』)と持ち上げたかと思うと、一方で桃李は派手で軽薄な花と貶められることもある。また桃花源の桃に俗臭はない、といった具合で一筋縄ではいきません。
 どの花が好まれるか、どのように意味づけられるか、それが時代や見方の違いによってさまざまであるのは当然であって、むしろ日本人の桜愛好が時代を超えて一貫しているほうが特殊で不思議な現象なのかも知れません。桜を振りかざして大和心を押しつけられた時代が遠ざかっても、やはり今でも特別な花であり続けています。
 松原さんは中国文化とヨーロッパ文化を比べておられますが、ギリシア・ローマの古典がのちの欧州にどのように広がり、受け継がれていったか、中国の場合とはずいぶん違うように思われます。というのは、ヨーロッパでは古代ギリシア・ローマが滅びたあとに、その文化がそれぞれの国に受け継がれていったのですが、中国では周辺の国々と同時に中国も存在し続けたのですから。でも東西の比較は話が拡散してしまいますし、わたしの知識も乏しいので、これ以上踏み込まないことにします。
 それよりも漢詩漢文に直接関わる、しかもはなはだ重要な問題につながりそうなのは、松原さんの「これまで日本は中国の文化に敬意を表しながらもそのコピーを目指してはいなかったらしい」という箇所です。わたしとしては、コピーを目指したか目指さなかったかよりも、先人の中国文化受容を「コピー」という言葉で捉えるのは当を得ないと考えます。

 その問題に入る前に、松原さんの書き方に倣って、身近な体験から始めましょう。浜松の市街地に佐鳴湖[さなるこ]という小さな湖があります。松原さんの遠い先生に当たる津田左右吉のエッセイにも出てきたように記憶します。一周わずか6キロですが、なかなかに変化に富んでいて退屈しません。ある時、ふと気づくと、佐鳴湖から流れ出す川に架かった橋に「帰帆橋」という名前がついていました。すぐ想起したのは、近江八景の一つ、「矢橋[やばせ]の帰帆」です。昔は矢橋から大津まで舟があったのですね。しかし天候に左右される水路よりも、瀬田の唐橋を経由する陸路のほうがかえって速いというのが、「急がば回れ」の出所だそうです。話が逸れて失礼しました。近江八景はご承知のとおり瀟湘[しょうしょう]八景に倣ったもので、「矢橋帰帆」も「遠浦帰帆」に由来するものです。そしてなんと佐鳴湖の湖畔にも「佐鳴八景」なるものを列記した石碑がありました。瀟湘八景は近江八景を生み、さらには佐鳴八景まで古人は数えていたのです。ほかにも金沢八景とか、日本中のあちこちに「○○八景」があることでしょう。
 「文化は上流から下流へと流れる」、そのことを最近わたしは「川の流れのように」と題して短い文章に記したことがありました(『日中友好新聞』2023年4月15日号、「漢語の散歩道」909回)。上流の、すなわち先行する文化に対して、下流の人々は敬虔な憧れをいだいたのではないでしょうか。彼らが真摯に吸収しようとした態度に対して、「コピー」という言葉は使えません。安易な物まねではなく、文化を取り込もう、自分たちの文化を豊かにしよう、そんないじらしいほどに切実な願いだったはずです。
 漢詩漢文の場合も当時の「上流」文化である中国への憧れがあったことでしょう。ただ、ほかの文化受容とちょっと違うかなと思うのは、漢詩漢文は単に上流文化だったわけではなく、漢字文化圏の全体を一つの文化圏として包み込む共通の文化という意識があったのではないでしょうか。一方的に上から下へ、ではなく、漢文学の伝統を共有する文化共同体、それに自分たちも平等に加わりたい、そんな思いがあったのではないか。それは中国の古典語、すなわち漢文や漢詩という文言(書き言葉)があったからこそ可能だったわけです。ちょうど西欧におけるラテン語のように、「国」を越えて共有される言葉があったから、共通の文化圏が成立できたのでしょう。繰り返していえば、中国という上流を日本という下流がマネしたわけではなく、中国・朝鮮・ベトナム・日本をくくる共通文化圏の仲間入りを意図したのではないでしょうか。
 漢詩漢文の場合は、共通文化圏への参入という思いがあったにせよ、共通文化圏が「先進」であり「上流」であったことは否めません。文化が常に上流から下流へ流れるものとすると、そこには政治とか経済とかほかの要素も伴わざるをえない。簡単にいってしまえば、文化は権力でもあることになります。だから多くの先住民の文化は押しつぶされてしまった。古代人の行動力は我々の想像力を遥かに超えたもので、柳田国男・折口信夫が明らかにしたように、南の海を乗り越えて多くの人々が日本に渡来してきました。彼らの痕跡は我々のDNAのなかにのこるだけなのでしょうか。そして中国の文化もまた西欧の文化に席巻されてしまっています。でもこれが人間の文化というものの宿命なのかもしれません。

 そのことより、わたしは従来にはなかった現象が近年起こり始めているのではないか、それを畏れています。畏れているというより、理解を超えた事態に当惑しているというべきでしょうか。というのは、「上流から下流へ流れる」はずであった文化が、そうとも言えなくなっているかに思われるからです。上流・下流という、いわば文化を秩序づけてきた上下関係がなくなって、わたしたちの世代から見たら、何の意味も価値もなさそうな「文化」が突如として世界中に拡がる。10年前、アメリカの大学にいた時、その地の学生が「壁ドン」ということを教えてくれました。日本で流行したばかりのそれを、日本語を知らない教室の学生はみな知っていて、初めて聞くのはわたし一人。この「文化の伝播」は従来の上流から下流への流れを完全に無化するものです。インターネットは文化というものの本質を変えてしまうのだろうか。これは危惧すべき事態か、権威を伴う文化の崩壊として喜ぶべきか、わたしにはわかりません。ただ漢詩漢文の意味についても、こうした変容のなかで考えないといけないとは思います。 

2024年1月31日

川合康三


(c) Kozo,Kawai 2024

 

 

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