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#16 文字の力・文化の力

松原朗さま

 #15「風景は文化か」を拝読し、深く共感いたしました。わたしたちの前に広がっている外の世界、それは以前からそこに存在していたものではなく、わたしたち自身が感覚と認識の働きに由って「風景」として捉えたもの――そのように考える共通の基盤に立つことができたと思います。「風景」は人の歴史のなかで形成され、継承されてきたものですから、「文化」にほかなりません。継承は固定したものではなく、新たな受容と変容を繰り返しながら続きます。松原さんが挙げておられる「梅」、ウメという日本語が実はméiという中国語から生まれているように、うめは本来「外来語」にほかならないのですが、にもかかわらず「梅と鶯」の組み合わせが日本にしか見られないという興味深いご指摘が示すように、「梅」は日本に入ってくると「うめ」に変容し、新しい意味を獲得していったのでしょう。
 梅のようにもともと中国から入ってきて、それが日本で独自の展開をしていくという文化事象はほかにもたくさん見られるように思います。以前に書いたことですが――自分の書いたことを繰り返すのは高齢者の悪癖、しかしかつて言われたことがあります、「あなたはさらっと書き流すのでみんな読み過ごしてしまう、言いたいことは何度でも書くがいい」。その忠告を思い出し、臆面もなく繰り返すことにします――月の光が遍在することをもとに別の地の人を想う、別の時の人を想う、という型は中国で生まれましたが、それが日本にわたってくると、西行の「月見ばと契りおきてしふるさとのひともやこよひ袖ぬらすらむ」のように、過去・現在・未来が錯綜する複雑極まりない歌に変貌してしまいます(『中国の恋のうた』岩波書店、二〇一一年)。つまり中国から学んだテーマ・モチーフを日本は研ぎ澄ませてまるで日本の文化そのものであるかのように仕立て直してしまうのです。
 自分の引用を離れて本題に戻りましょう。#15「風景は文化か」の内容は、わたしたちの本来のテーマである漢詩漢文を学ぶことの意義についても、大きな示唆を与えてくれます。漢詩漢文の学習は漢字文化圏に共通する言語を習得する、あっさり言えば漢文を読めるようになる、あるいはまた漢字・漢語を重要な構成要素とする日本語そのものの読む力・書く力をレベルアップする、そうした言葉に直接関わる意義のほかに、わたしたちがまわりの世界に触れる時の受け止め方を教えてくれる、そしてまた豊かにしてくれるという、これもまた文化にとって、人間にとってはなはだ重要な意義をもつことを実例をもって示してくださいました。
 もちろん外界を捉える文化的装置は、漢詩漢文に限ったことではありません。子供が日々の暮らしのなかでまわりの大人たちから知らず知らずのうちに吸収するものも大きな部分を占めるでしょう。生活から学ぶのとは別に、本を通して知る先人の知覚のありかた、そのなかでも中国の伝統文化は大きな意味を持っています。日本人は歴史の始まりから中国を範として学んできたからです。たとえ日本において「梅」から「うめ」に変容しようと、やはり中国の文化は本源にあった無視できない母体であり、それを日本人は主に漢詩漢文を通して吸収してきました。たとえ同じようにウメの花に向かい合っていても、自分ひとりが素手でウメに接するのと、「梅」にせよ「うめ」にせよ、文化の蓄積を通して捉えるのとでは、ずいぶん違いがあるのではないでしょうか。
 と書いてきて、以前、山本和義先生からうかがった話を思い出しました。山本先生は今年天寿を全うして長逝されましたが、わたしが二十代後半の時、小川環樹先生の読蘇会に名古屋から京都まで毎回足を運ばれ、わたしが仙台に移ったあとは書翰の往復を続けていました。先生のお手紙のなかに、テレビでご覧になったという話が書かれていたことがあります。――学校へ通う機会がなかったおばあちゃんが、年を取ってからやっと読み書きを習得した。文字を覚えたらその時はじめて夕日の美しさがわかった、という話です。そのあと、わたしは円地文子の『菊慈童』という小説を読んでいたら、やはりテレビで見た話として同じことが書き込まれていました。円地文子にも強い印象を与えたようです。
 おばあちゃんはそれまでの人生のなかで何度も何度も夕日を見たことでしょう。「ゆうひ」という言葉も使っていたでしょう。にもかかわらず、「夕日」という文字を知ったことで、「夕日」にまつわる人間の文化の蓄積を一気に受け止めたのでしょうか。としたら文字は単に記録のための道具ではなく、人間の歴史や文化の重みを背負ったものになります。文字に表記されたことは、何を指すか伝達する記号であることを超えて、そこに美しさも伴うことにもなりました。これは「夕日」という一語にすぎませんが、もし「落日 心は猶お壮」(杜甫「江漢」)とか「夕陽 無限に好し」(李商隠「楽遊」)などの詩句を想起したら、夕日はさらに人々の様々な思いを込めたものとして深く受け止められることでしょう。漢詩漢文を通して、わたしたちは周囲の外物をより濃厚に味わうことができるのです。
 ただここで一度足を止めてみなければなりません。読み書きを身に着ける前のおばあちゃんは、感性・知性の貧しい生活をしていたかというと、決してそうではなかったということです。そもそも世界のなかにどれほどの言語があるのか知りませんが、そのなかで文字をもつ言語はごくわずかにすぎません。他人事ではありません。わが日本語だって、もともと文字はなかったのです。文字をもたない人たちは、文字の文化とは別の、わたしたちが失ってしまった様々な能力を鋭敏に発揮して、わたしたちとは異なる世界を豊かに感知していたに違いありません。彼らが世界を把握する卓越した力に比べたら、文字なんてきっとお粗末なものでしょう。わたしはそういう人たちに畏敬と羨望を覚えます。蘇軾の詩に「人生 字を識るは 憂患の始まり」という句があります(「石蒼舒の酔墨堂」)。これは文字を操って官となった自分を、文字に縁のない庶民と対比したものですが、拡げれば人間にとって文字を識ることは決して幸福とは限らない、それによって喪失するものも多いのではないか、という大きな問い掛けにもつながります。その向こうには「文字禍」という忌まわしいものも控えています。そうではあるのですが、しかし生物としてのさまざまな能力をすでに失ってしまったわたしたちは、文字の文化のなかで生きていくほかありません。文字の文化のなかでより豊かに生きていくすべを探るほかありません。
 日本語や日本文化がどのようにして作り上げられたかは容易ならざる問題でしょうが、漢字・漢語、そして中国文化は明確にたどることのできる淵源の一つであることは確かです。それゆえに日本語・日本文化のなかで生きるわたしたちにとって漢詩漢文を学ぶことはわたしたち自身を知るものでもあります。
 ただしかし、それはいわば「基礎学力」として重要であるということを付け加えておきたいと思います。わたしたちが世界を把握する基礎的な枠組みとして中国文化はわたしたちの根底にあり、漢詩漢文を通してそれを学ぶことができる、それは確かなのですが、それだけがすべてではないし、それに縛り付けることはできない。わたしが危惧する、ないし嫌悪するのは、漢詩漢文が往々にして伴うところの押し付けがましさなのです。上から決めつけるような権威主義なのです。高齢者のわたしだって辟易するのですから、若い人が反感をいだく、少なくとも興味を持たないのも当然ではないかしらん。もっと柔軟に自由に読んでいったら、中国の古典のなかからも今のわたしたちを魅了するものがいっぱい溢れ出てくるのではないでしょうか。
 

2023年12月27日

川合康三


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