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#20 言葉の豊かさに向かって

松原朗さま

 漢詩漢文をめぐるやりとりも1年に及びました。このあたりでひとまず締めくくることにして、次回、松原さんに全体をまとめていただきたいと思います。

 先の#18のなかで、わたしはこれまで続いてきた「文化」に本質的な変化が兆しているのではないかと記しました。長い歴史をもつ人々の営みを根底から覆すような大きな転換が起ころうとしている、かどうかはひとまず措くとして、重厚篤実から軽佻浮薄へと変わりつつあるのは誰もが認めるところでしょう。そういえばかつて「軽薄短小」という言葉で非難されたことがありましたね。それはもう40~50年前のことでしたから、文化はひたすら坂を下り続けてきたことになります。
 「下り続けた」というと、そこには過去を優位とする価値観がこびりついています。中国でおなじみの「尚古思想」です。古[いにしえ]は今より勝る――この強固な考えを打ち壊すのは容易でありませんでした。焚書坑儒を断行した秦の李斯[りし]にしても、伝統文化の破壊を企てた近年の文化大革命にしても、古来の伝統に対する厚い信奉をひっくり返すことはついにできませんでした。そんな頑強な伝統文化が今日揺らぎを生じているとしたら、それをもたらしているのは、コンピューターを中心とする科学技術ではないでしょうか。文化の変質の張本人はそれに違いありません。

 迂遠な話から始めることをお許しください。文化が自立して活動できた時は、人間の歴史のなかにこれまで一度もなかったと思います。学術とか芸術を考えていただけばわかりやすいのですが、常に庇護者によって支えられてなんとか営みを続けてきたのです。庇護者は昔は王侯であり貴族でありました。彼らが学者・芸術家を支えたのは、政治のみならず文化の領域においても支配者たらんとする権力欲、権勢に見合うだけの徳義を備えるという名声――実利とは異なるそのようなものを求めたからでしょう。そのためには学術・芸術が高い価値をもつという信念が行き渡っていることが前提となります。
 王侯・貴族が果たした役割は、のちに大商人に変わりました。社会経済が進むにつれて、さらに文化は経済生活のなかに組み込まれて機能することになりました。今日、文化を担っているのは商業主義です。経済は質より量がものを言います。量に勝る大衆が決定権を握ることになりました。軽薄短小への傾斜は文化の大衆化と結びついているのでしょう。低俗と嘆かれることもありますが、一方では文化が限られた少数の独占者から解放されたことでもあります。質の低下を代償にして、広く人々が享受できるようになったわけです。
 しかしそれでもなお経済力や社会的知名度などによる差異が免れません。それをさらに平準化したのがコンピューターではないでしょうか。インターネットとかSNSとかを通して、人はどこからでも誰であっても発信できるようになった。従来は発言力のある人だけが公衆に向かって発言できました。物言える人と物言えない人とが截然と分かれた格差社会だったのです。しかしインターネットはその格差をあっさり解消してしまいました。そしてそのための弊害が今や大きな問題となっています。以前だったら表に出ないような発言が堂々とまかり通る。「良識」に基づいた発言も、悪意から生まれた発言も、みんな平等。データとしてすべて「平等」であること、これがデジタル化が文化に引き起こす弊害の一つです。
 わたしたちの分野でいうならば、膨大な文献のなかから膨大な用例を一気に検索できる。並べられた用例はみんな同じ顔をしている。かつては「なんとなく」「ぼんやり」軽重とか陰翳とか違いが把握されていたのに、今はすべてが「機械的に平等」なのです。しろうと考えではAIの今後の課題は「ぼんやり」「曖昧」をいかに加味するかではないでしょうか。たとえば以前の補聴器が使いにくかったのはすべての音が「平等」なことだそうです。人間の聴覚は無意識のうちに意味のある音と聞かなくてもいい音とを聞き分けているという話を聞いたことがあります。
 話が逸れてしまいました。「平等」が諸刃の剣であるにしても、インターネットの普及は文化の不公平を一気に打ち破った、それこそ画期的なものです。社会的地位も名声もない、何も持たない人たちが「平等」に声を挙げることができるようになったのです。これはすばらしい転換じゃないでしょうか。
 しかし誰もが発信できるようになった弊害は、公開すべきでない内容が表に出るだけではありません。発信する言葉の貧困さがあらわになってしまうこともあります。若いYouTuberがキャンプの実演をしていました。10分ほどの間、彼が発したのは「やばい」「まじ」、その二語だけでした。恐ろしいまでの語彙の貧困!思うにその貧困に一番悩んだのは、彼自身ではなかったでしょうか。もっとたくさんの言葉を使って、もっと適切な説明をしたい、そう欲していたにちがいありません。発言できる場を得たあと、人は当然発言の中身を濃くしたいと思うはずです。
 「やばい」は特殊な業界用語から一般に広まって、かなりの時間がたったようですが、「まじ」のほうは、わたしの若いころには使われていませんでした。逆に当時よく言われた「ハッスル」なんて今使ったら、通じないか笑われるかのどちらかでしょう(書くだけでも恥ずかしい)。今、わたしなどが10代の人たちのなかに混じったら、まるで外国語を聞いているように、知らない語だらけでしょう。言葉の盛衰はすさまじい。次々生まれる新しい言葉に浸るのは新しい環境に身を置く楽しさがあるかもしれません。でもそれは使い捨てです。使い捨てに疲れたら、壮大な文化遺産である言葉の海へ回帰するのではないでしょうか。
 薄っぺらな使い捨て言葉のなかで生きるか、人々の歴史のなかで醸成された言葉を学ぶか――この選択肢には高低とか上下とか、等級があるわけではありません。あるのは貧富の違いです。貧しい言語生活に終始するか、豊かな言葉の世界を楽しむか。言葉が歴史的な産物である以上、過去の言葉を学ばねばならない。過去の言葉を学ぶには、過去の書籍を読まねばならない。と、「……ねばならない」を連ねたところに問題がありそうです。過去の言葉、過去の典籍に触れるのは義務でも当為でもなく、愉悦であるはずです。中国の古典文学を専攻するわたしたちの仕事は、漢詩漢文を読む楽しさを若い人たちに伝えることでしょう。そのためにはまず自分自身がテクストを読む面白さを体得することが前提になります。ロラン・バルトに『テクストの快楽』と題した本がありましたが、まさしく快楽のなかに没入したい。

 ただ二つのことを補足しておきます。一つは漢詩漢文に通暁すれば、見事な言葉を操ることができるわけではありません。本など読みはしないであろう、ましてや漢詩漢文など見たこともないであろう、と思われる人のなかに、すばらしい言葉を吐いた人がいます。わたしには説明できません。でも何度反芻してもそのたびに涙が出るような言葉をのこした人がいたことを思うと、説明などいらない。わけもなく心が動かされたら、それで十分なのです。言葉って本当に不思議です。
 もう一つは「まじ」「やばい」二語の青年には、たとえ漢詩漢文に習熟しても、漢語を使いまくってほしくはありません。漢詩漢文を読むことは、むずかしい言葉を自在に駆使するためではないのです。加藤周一が書いていたと思うのですが、漢語を多用する人ほど漢籍に疎い人が多いと。「まじ」「やばい」青年が読書を拡げてやがて中国古典にも親しんだら、彼のなかでどんな言語生活が開けていくか、とても楽しみです。 

2024年3月4日

川合康三


(c) Kozo,Kawai 2024

 

 

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