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#4 漢文学と中国文学

松原朗さま

 第三信、読みました。たくさんの内容がつまっていて、それに対する意見をどこから書いたらよいのか、戸惑ってしまいます。松原さんのお考えに違和感を覚える箇所もいくつかありました。反論と言ったら失礼かも知れませんが、しかし「お説ごもっとも!」「御意!御意!」を二人で繰り返していたら、こんにゃく問答を続ける意味はありません。考えに違いがあるからこそ対話が始まるはずです。

 異論を唱えたくなった一つは、吉川先生が中国に留学され、中国の風土を体感したことが,外国文学として捉える吉川先生の立場を作り上げたというご指摘です。言い換えれば、中国体験の有無が「漢詩・漢文派」との違いを生み出したということでしょうか。
 私はもともと経験を重視する立場に与しません。「中国は広大だよ、行ってみなけりゃわからない」、自分は中国経験が豊富である、そうでない人には中国の文学は理解できない――かつて渡航が困難だった時代には、こう語って周囲を煙に巻く人が時々いたものです。確かに中国は広大なのでしょうが、しかしたとえば広大無辺際の風景が詩に取り上げられるのは意外に短期間に限られていて、盛唐に目立つように思います。中国=広大、雄大と思い込むのは、日本での『唐詩選』偏重と関わりがあるかも知れません。よく指摘されるように、擬古派の産物である『唐詩選』は盛唐詩を多く採ってますから。『唐詩選』を通した中国文学受容がもたらした問題については、いずれ語り合うことになるでしょう。
 一般論として、経験がなければ理解できないとは必ずしも言えない。カントは行ったこともないロンドンの市街を知悉していた、といったたぐいの話はいくらでもあるでしょう。経験が豊かであることは、そのまま認識が深いことに繋がらない。人の感性や認識は、実体験と必ずしも関わらない――そう考えた方が人間の可能性に希望が出てくるように思います。
 私の考えでは、中国の古典文学を世界の文学の一つとして捉えるようになったのは、中国の国土を見たからではなく、明治に入って西欧の文化を学び始めたことが最初の契機となったように思います。京都帝国大学に中国学の講座を設ける際、激しい議論を経てやっと中国哲学・中国史学・中国文学それぞれの講座が生まれたと聞いたことがあります。もともと中国に哲学・史学・文学の区分はなかったわけですが、西欧の人文学の区分に従って哲・史・文が独立しました。伝統を守るより、新しい時代を先取りしようとしたわけです。「漢詩漢文」を西洋近代の概念である「文学」として捉えようとする試みはここに始まったと言えるでしょう。話がふくらみますが、20世紀の日本における中国学研究が高いレベルに達し得たのは、漢学受容の長い蓄積の上に新たに流入した西欧近代の知が結びついた結果であったということができます。「中国的学」と「西欧的知」の幸福な結合です。その一番明快な例は、「中国文学史」の誕生です。西欧の近代に至って生まれた近代国家、近代歴史学、そこから文化のジャンルごとの、そして国ごとの歴史が書かれ始めます。仏人イポリット・テーヌの『英国文学史』のたぐいです。その書名自体が「英国(近代国家))」+「文学(文化のジャンル)」+「史(近代の史学)」という成り立ちを明示しています。西欧に生まれた国別文学史を学んで若い国文学者が日本文学史を執筆し(1890年代前半)、日本文学史から刺激を受けて世界で最も早い中国文学史が日本で生まれた(1890年代後半)、という流れは明白にたどることができます。ギネスブックではないので、世界一云々はどうでもいいことですが、日本で中国文学史が生まれた必然性は追跡可能と思います(自分の書いたものを引用するのは、知的怠慢にほかなりませんが、文学史の誕生については『中国の詩学』第九章、文学史と文学史観に述べました)。
 要するに中国古典文学を文学として捉えるのは、近代の産物だということです。だとすれば、日本の文化のなかにおいて漢詩漢文を見ることは、近代以前の伝統的な見方を踏襲していることになります。念のために言えば、吉川先生は漢詩漢文を日本の文化として捉えることに反対したり否定したりしているわけでは決してありません。継承されてきた伝統に加えて新しい意味を付与しようとした、というべきでしょう。ですから本来は対立するものではないはずなのですが、いつの間にか対立の構図が生まれたのは不幸なことです。

 外国文学として接するのでしたら、当該の言語で読むのが当然のことです。明治のころ、英語に返り点をつけて読んでいた時期があると聞いたことがありますが、おかしいですよね。だのに漢詩漢文に返り点をつけて訓読することは、奇妙に思わないどころか、ごく当然のこととして今も続けている。それは日本語が漢字を使ったり、漢語が多く入っていたりするので、中国語は他の「外国語」と違うからでしょう。ただし文言(文語)に限られます。白話(口語)を訓読したら、かえってわからなくなってしまいます。江戸期に明の白話小説が日本でもよく読まれ、翻案されたりしましたが、それは『三言[さんげん]』『二拍[にはく]』などは文言と白話の中間に位置する性格をもっていたからだと思います。清に入ってたとえば『紅楼夢』などのように、さらに白話に近付くと、幸田露伴が訓読したものがありますが、読んでもわからない。
 過去の日本人が工夫を重ねて作りだした訓読という読み方は、すばらしい発明と思います。というのは、たとえばフランスの詩を読む場合、私のようにフランス語ができないと、「秋の日のヴィオロンのためいきの」(「落葉」)という日本語で読むほかありません。その日本語はいくら名訳であろうと、 “Les sanglots longs des violons de l’automne ”という原文とは似ても似つかないものです。ところが訓読という魔術を使えば、中国語を知らなくたって「国破れて山河在り」と半分(半分かどうかはともかく)原文に直接触れることができるのです。詩とは何を語っているかという内容よりも、言葉そのものにほかならないとするならば、原文に触ることができる訓読は、先人が遺してくれた貴重な文化遺産というべきでしょう。
 もっとも、そこからまた問題が生じます。訓読は一応原文の手触りを味わうことができると同時に、原文の意味もなんとかわかってしまう。そのため漢詩は日本語に訳することなく、訓読だけで読まれてきました。訓読で読めない西欧の文学の場合、翻訳者の苦労が日本語を磨き上げ、日本語を豊かにすることに貢献したことは、亀井俊介・沓掛良彦『名詩名訳ものがたり』(岩波書店、二〇〇五)に縷々説かれています。漢詩の場合、佐藤春夫、井伏鱒二といった作家の個性豊かな翻訳がありはしますが、一部に過ぎません。一般には訓読で読むのが普通です。したがって翻訳というものが、中国の詩については発達しませんでした。
 しかし漢詩の翻訳が未熟のままであるということより、もっと大きな問題があります。訓読を通して読まれた詩と外国文学として外国語によって読まれた詩と、両者は果たして同じであろうかということです。自分でも予想もしなかった大問題に逢着してしまいました。これこそが何年もかけて考え、論じ合うべき問題に違いありません。一見すると、訓読では本質に到達できないという解答がちらちら顔を見せているみたいですが、それは安直な断定というべきです。訓読で読んでいた江戸の漢学者たちは、今日わたしなどが下手な中国語で読むよりも遥かに高いレベルに達していたはずです。問題は読みのレベルではなく、訓読で読むか音読で読むか、あるいは伝統的漢詩文として捉えるか近代的文学として捉えるか、両者が到達した所に「質」としての差異はないだろうか、ということです。私にはとても即座に答えられません。問いを投げるだけで、今回は閉じることにいたします。

2023年5月2日

川合康三


(c) Kozo,Kawai 2023

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