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#5 文学と国民国家

川合様

 第四信を拝受してから、一カ月近くも過ぎてしまいました。筆無精もここに極まり、誠に失礼いたしました。ここまでは話の糸口を探しているところと思っていたら、にわかに本質に切り込むような展開となり、思わず粛然と襟を正している内に時を過ごしてしまいました。
 先のお手紙では、大事なことがいくつも書かれていました。前便で私は、日本の伝統文化の中にある漢詩文が「訓読」を方法とし、外国文学としての中国文学が「音読」を方法として対立しながら今に至る大事な契機は、中国の風土の体験の有無にあるという見通しを述べました。無論、訓読に拠りつつも漢詩文を中国文学と見るような折衷派があっても良いのですが、話を単純化するためにこう整理しておきます。
 これに対して、川合さんから二つの意見が出されました。一つは、体験は文学の理解を本質的に左右するものではなく、だから、中国体験を漢詩文派と中国文学派に分ける決め手と見ることは難しい。二つに、明治に漢詩文が外国文学としての「中国文学」という新たな枠組みの中に入り、今迄とは異なる意味を与えられるようになる、それを象徴する事件が中国(支那)文学史の登場だったという主張でした。特に後者は、川合さんが『中国の文学史観』(創文社、2002年)の編著者であることを思えば、私は知らぬ間に敵陣のど真ん中に入ってしまったようです。

 どちらも大事な問題です。私にとっては、前者がより気になる問題なのですが、一遍に考えがまとまりそうにないので、まず中国文学史の問題から始めようと思います。西洋の文学は、詩と小説と戯曲の三本柱で成り立つ。このような文学観が明治の日本で市民権を得たとき、中国文学は、伝統的漢詩文だけではなく、小説や戯曲(元曲~明雑劇)を含んだものとして構想される。もちろん枠組みの変化は、領域の増減という単に量的問題に止まらず、何を文学と捉えるかという文学概念の再定義とも関わる本質的な問題を含んでいるはずです。川合著『中国の詩学』第九章「文学史と文学史観」には、「日本の中国文学史ではそもそも文学史が西欧近代を学んで作られたために、西欧近代においては重要なジャンルであった小説・戯曲も、当初から文学史に記述すべき対象と考えられていた」と簡潔に述べられています。川合さんはこのように、中国文学史の登場を、文学領域の再確定、文学概念の再定義という側面で注目されました。
 伝統的漢詩文から中国文学への枠組みの変更、このことの波及効果は覿面だったのかもしれません。明治期の、つまり日本最後の本格的漢詩人となった森槐南[かいなん]は、まだ十代の頃、中国語の戯曲を作っている。彼はその創作活動の当初に、伝統的漢詩文ではなく、戯曲の作者を選ぶことによって己が独自性を宣言しようとした。伝統的な漢詩文から、中国文学への脱皮は、この若き森槐南を巻き込んで確かな足取りとなっていたわけです。

 ここまで考えたところで、川合さんが提起した中国文学史は、もう一つの問題にも関わっているのではないかと思うに至りました。西洋で19世紀の中頃に各国史が現れ、その発展として国別の文学史が著され、さらにその影響の下に、明治の日本でも日本史が書かれ、日本文学史や支那(中国)文学史が書かれるようになる。川合さんが国別文学史の代表例として仏人イポリット・テーヌの『英国文学史』(1863年)を挙げています。このテーヌからほどなくして、三上参次・高津鍬太郎の『日本文学史』(明治23年、1890年)が書かれ、世界で最初の中国文学史とされる古城貞吉の『支那文学史』(1897年)が著される。また文学史の出現と呼応するように、竹越与三郎の日本通史『二千五百年史』(1896年)、また桑原隲蔵[じつぞう]の『中等東洋史』(1998年)が登場している。明治の日本が遮二無二なって西洋近代に追いつこうとしていたとき、日本と中国のそれぞれに通史と文学史が用意されたことになります。
 ここまでぴったり出揃うと、これら通史や文学史の成立を催した背景について考えてみたくなります。西洋に発して日本も巻き込んだこうした各国史、各国文学史の登場は、民族を単位とする国民国家の成立と対応しているのではないか。しかもこうした国民国家の観念をとりわけ熾烈に燃やしたのが、あるいは日本だったかもしれない。
 これは川合さんの本(『中国の詩学』『中国の文学史観』)で教えられたことですが、明治23年、近代日本で初めて書かれた日本の文学史の書名が、『国文学史』ではなく『日本文学史』だったことには、驚きを禁じえませんでした。今日、大学では日本文学科が多くなってきたといっても、伝統的な国文学科の名称もまだしぶとく生き残っています。明治の彼らが自著の書名に、自分が属するという特別な矜恃を含む国文学ではなく、淡々と客観的な日本文学を用いたことは、私の思い過ごしでなければ、世界の国々に伍してゆこうとする明治の人の気概を示すものです。

 もう一つ、当時の書名でいえば米人パーレーの『巴来万国史』も興味深い。この本は、福沢諭吉によって強く推奨されたこともあって、明治のベストセラーとなったようです。明治9年(1876)に牧山耕平の訳が文部省から出版され、そのごも大正初期まで数種の翻訳が、『パーレー万国史』などと少しずつ書名を変えながら繰り返し出版されてます。原書の書名は『Peter Parley’s Universal History, on the Basis of Geography』(1837年)ですが、その「Universal History」(さしずめ普遍史か世界史)を「万国史」と訳しているのです。この「万国史」とうい名称に引っ掛かって『平凡社世界大百科事典第2版』「世界史」の項目を調べて見ると、「(世界史について)日本ではこのほか万国史といういい方があったが,国民国家の列挙という意味が強く今は使用されない」と説明されているのが、今の私には、言い得て妙ということになります。
 国民国家の建設を急ぐ日本は、それまで文化の面でとかく曖昧だった日本と中国の間の境界線を確定するという大手術を必要とした。その結果が日本史と東洋史の分離であり、日本文学と中国文学の分離だったのだと思います。問題は、その結果として何が起こったのかです。
 国民国家の成立は、よく言われるように、フランス革命にあるのでしょう。ナポレオン軍の強さは、フランス人のフランスという国民国家の強さを背景としていました。イギリスも、これに即応して国民国家の態勢を確立します。この二つの国は、(今日ではいろいろ問題があったことが判明していますが)単一民族で構成されていたから、移行は順調に進みました。しかしスラブ民族(チェコ・スロバキア・スロベニア・クロアチア)やマジャール民族(ハンガリー)などを含み込んだ多民族国家ハプスブルク帝国の場合は、そうは行かなかった。フランスが投げ込んだ国民国家という政治的爆弾によって、ハプスブルク帝国は解体されるのです(同じことが、多分、オスマン帝国にも起こっていた)。
 私が言う必要もないことですが、多民族国家は、文化的無政府状態にあったのではなく、それぞれの民族が持ち寄る文化が互いを刺激し合いながら融合する、豊穣な文化を醸成していた。ハプスブルク帝国の音楽から、ウィーンにやって来た北の外国人であるベートーベンやブラームスを追い出す必要はないし、ボヘミアのマーラーや、ハンガリーのリストやドボルザークやバルトークを排除するのも了見が狭すぎる。このような汎民族的文化は可能であり、歴史的にも存在していたわけです。しかし国民国家だけが残った今日のヨーロッパで、チェコの音楽史、ハンガリーの音楽史をはばかりなく書けるようになったとしても、それがどれだけの有効性を持つかには疑問符が付きます。一方、豊穣な汎民族的文化を育んだ土壌だけは、確実に失われました。

 明治の日本が国民国家としての自立を目指して、中国文化との境界画定を急いだ結果、最大の影響を被ったのは漢詩文という文化だったに相違ありません。日本では由来ひとかたまりのものとしてあった漢詩文の文化は、片や中国文学に回収され、残りは「日本漢詩文」という形で日本文学の辺地に置かれることになりました。またその過程で、日本文学の中心は、王朝の女房達の文学を頂点とする和文の文学に独占されることになりました。事の評価は抜きにして、これが事実だと思います。
 一方、日本における「中国文学史」の成立は、その後、「漢詩文」の外側にあった元明清の俗文学も対象に収めながら質量ともに確実に研究を深化させることになります。吉川先生が早年、元曲の研究に没頭したのは、こうした中国文学史という認識の枠組みがあって初めて可能になった一つの事例です。川合さんが提起された明治日本における中国文学史の出現は、なかなかに重大な問題を含んでいることが、ようやく私にも分かってきました。

 最後はとりとめもない感想になりました。失礼いたします。

2023年5月30日

松原朗


(c) Akira,Matsubara 2023

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