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#8 体で読む・頭で読む

松原朗さま

 おたより、拝読いたしました。漢文学・中国文学の違いの問題から、松原さんの筆先はさらに進んで、日本近代の文化や思想の歴史的展開に触れる高みに達したかのようです。松原さんのお考えをわたしなりに整理してみると、長く中国に学んできた日本は、明治に至って二つの方向が生じる。一つは中国から離れて日本の独自性を求める方向、もう一つは中国・日本を東洋として一括する方向、この二つうちの後者はさらに日本を東洋の中心に据えようとする方向を生み出した――論旨を単純化しすぎたかも知れませんが、これは日本近代史の重要な問題につながるように思われます。重要すぎて、ちょっと怖くなってしまう。明治から昭和に至る日本全体の動きをたどる考察は、わたしたちよりもさらにふさわしい方々にゆだねたほうがよさそうです。
 というわけで、身の丈に合うべく話題を転換、松原さんが提起されている「声に出して読む」、「暗誦する」ことを考えてみましょう。「声に出して読む」「暗誦する」、これは要するに身体、また身体に関わる感覚でもって古典に接するということになります。それに対峙するのは、頭で考えながら読む、テクストを分析しながら読む、ということになるでしょうか。

 身体による接受を考える前に、ちょっと寄り道させてください。先月、広島大学の佐藤大志さんが「“カフェ”でおしゃべりしませんか」と誘ってくださいました。「カフェ」とは比喩だろうと思って広島に出かけてみたら、それはほんとうのカフェで、緑に囲まれた広いキャンパス、そのなかのガラス張りの明るい“カフェ”が会場でした。気ままに椅子を並べ、コーヒーをいただきながら、国語教育を専攻されている院生・学部生、そして先生方と歓談することができました。わたしとは専門がずれるのですが、しかし佐藤さんの薫陶よろしきを得たためか、みなさん、中国古典にも理解が行き届いていて、話が弾みました。
 そのなかの質問の一つ。
――古典の意義は中学生に対してどのように話せば理解してもらえるのでしょう?
 「それは無理です」と、とっさに応えてしまいました。中学生に古典の意義を説き明かすよりも、まず古典の詩句・語句を覚えてもらうこと。若い脳細胞にしみ込んだ言葉は、その時は完全に理解できなくても脳裡にのこり、生涯にわたって財産になる、というようなことをお話しました。話題はそこからさらに暗誦が戦後教育では悪いことであるかのようにみなされている、しかしとにかくたくさん覚えるべきだ、と広がり、盛り上がりました。中国・台湾の人たちは古典の詩句を実によく覚えていて、いつもわたしたちを驚嘆させます。中国に限らず西洋でも、おそらく古典というのはまず暗誦することだったのだと思います。それが知の財産というものです。戦後の学校教育のなかでは、「暗記物」はよくないという思い込みが強すぎるのではないでしょうか。わたしたちは少なくとも古典に関してはまずフレーズをそのまま覚えることにもっと熱心になるべきでしょう。五十年も昔の話、李商隠の修士論文を提出したあとのコンパの席で、小川環樹先生からいきなり「君は李商隠の詩をどのくらい覚えている?」と尋ねられたことを思い出します。今振り返ってみれば、先生は「何やかんやと論ずる前に、まず原文を覚えることだよ」とおっしゃりたかったのではなかったか。小川先生の言葉はこの年齢になってたびたび思い起こし、今になって意味がわかるということがよくあるのですが、理解するのがあまりに遅すぎるのが、ぼんくら学生の悲しいところです。そういえば小川先生ご自身も仙台で病床にあった時、杜甫の律詩を一首ずつ覚えていったことを、いつもの物静かで気品ある文章で書いておられました。
 このように古典にとって「覚える」ことは切り離せないのでしょうが、しかし二十代のわたしは作品の犀利な分析を求めてもがいていました。当時流行していた構造主義のテクスト分析に心を躍らせ、中国古典に関する言説はなんて幼稚でつまらないものかと思っていたのです。それまでの「文学研究」がテクスト周辺の事柄にしか関心を向けなくて、作品の文学性には触れようともしない、それに不満をいだきました。言葉はどのように「詩」になるのか、文学は何によって文学たりうるのか――それを明らかにすることはわたしたちの究極の課題であり、且つ永遠に解決不可能な問いなのでしょうが、にもかかわらず、その問いに立ち向かうことこそ、胸躍る歓びなのではないでしょうか。作品を通して「詩とは何か」を考えることは、古典を「体で読む」接し方とは異なる、もう一つの態度です。「頭で読む」とでも言ったらいいでしょうか。
 「体で読む」ことは古典作品を体感する、感覚で味わうことです。音楽を聴いたり絵画を見たりする時、わたしたちは何を考えるということもなく、ただそのなかに浸ります。時には陶酔します。それは芸術に接した時の原初的な、そして最も心のときめく経験です。だのに少なくともわたしの場合、文学の場合はつい考えようとしてしまう。作品の秘密を自分で解き明かしたいと思ってしまう。このような「邪心」はたぶんわたしに限りません。研究者としては、「いいなあ」と感嘆しているだけでは「仕事にならない」からです。一種の職業病ですね。
 中学生の時、李白の詩句に触れて、不思議な感覚に襲われたことがありました。なにか自分が現実に存在している感じが消えて、いきなり別の世界に吸い込まれたような、しかしとても気持ちのいい時間でした。それが何の詩だったかも覚えていませんし、その時の感覚を再現することもできないのですが、作品に身体が直接反応した恍惚感――もしかしたらわたしは中学生の時のその経験をもう一度味わいたくて、中国の詩を読み続けているのかも知れません。

 ここまでわたしは「体で読む」ことと「頭で読む」ことを二項対立のように捉えてきました。両者は確かに対蹠的であり、それぞれに長所・短所があります。「体で読む」ことは作品に対する原初の接し方であり、受容の根幹を成すもの。しかしそこから脱して作品に知的操作を加えたくなるのも必然というものでしょう。「頭で読む」ことは作品の生成を可能な限り明らかにしようとするのですが、それにかまけると作品が本来もっていた、言葉を超えた力を忘れてしまう。このように「体で読む」「頭で読む」は互いに背馳するかのように見えます。しかし考えてみれば、どちらかの立場に立てば一方を捨てなければならないという関係ではなさそうです。両者は両立可能なのです。体で味わったり頭で考えたり、作品に対して貪欲であってもいいのではないでしょうか。
 実は対立する関係にはない、といえば、わたしたちがずっとその周りをぐるぐる回ってきた「漢文学」と「中国文学」もそうではないかしら。たとえば「国破れて山河在り」を、わたしたちは漢文学のなかにおいて捉えることもできるし、中国文学として捉えることもできる。日本の文化に根付いた漢文学は、同時に外国文学の一つでもある。わたしたちは漢文学・中国文学、二重の財産に恵まれている、と考えるのは欲張りでしょうか。
 とはいえ、対立は回避できるにしても、「漢文学」「中国文学」の差異はのこり続けます。その差異はどこに文学性を認めるかの違いにあると思います。この場合も、両者の文学性に違いはありながら、どちらの文学性もわたしたちは享受できるわけです。結局、「漢文学」「中国文学」の違いはどこに文学性を見るかの違いに帰着するのではないか、というのが酷暑に犯された脳細胞がたどりついた今日の結論です。

2023年8月14日

川合康三


(c) Kozo,Kawai 2023

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