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#9 またまた古典の暗誦について

川合様

 お便り読みました。古典を「体で読む」「頭で読む」という二つの面に分けて整理するのは、古典読解についての無用な行き違いを避けるためにも良いアイディアだと思いました。川合さんの場合は、両者と対立的に考えるだけではなく、互いに補完の関係にあると見なすことによって、いっそう深みのある議論の筋道が示されたように思います。
 この魅力的なテーマに入る前に、古典の暗誦についてもう少しだけ思い出話をさせてください。初めて台湾に行ったのは、随分遅くなってからです。
 1994年度の一年間を、大学から研究休暇をもらって北京大学で過ごしました。私は若い頃の留学経験がないので、何度かの短い旅行や学会出張を除けば、これが初めての中国生活でした。北京の至る所に、まだ胡同[フウトン]とよばれる明清以来の古い路地がのこり、それがいよいよ取り壊されようとしている時期でした。
 中国から帰ってみると、台湾には一度も行っていないことが気になりはじめ、1997年の夏だったと思いますが、台湾に行きました。初めての場所なので、気楽さ優先で、台北素泊まり2泊3日のパックを基本に、確か2日延泊する形にしました。ホテルだけが決まっていて、そこまでは旅行社が送迎してくれるというものです。台北の中正国際空港までワゴン車で家族四人を迎えに来てもらったのですが、その日本語のできるガイドは、当時、60代の後半だったように思います。市内のホテルまで30分以上かかりましたが、そのガイドは何かの拍子に(私が古典文学をやっていることを気取られたか)『おくのほそ道』の暗誦を始めて、それがホテルに着くまで綿々と続きました。その間、10分ではきかなかったと思います。国民学校の先生が、これは立派な古典なので君たちはちゃんと憶えおくようにと仰ったらしいのです。この「佳話」を、私は授業の中で、それこそ何度となく学生たちに話して聞かせることになりました。

 川合さんは、細部を詮索せずに、言葉を響きとしてそのまま身体に滲み込ませるような読み方、つまり暗誦を到達点とするような読み方を「体で読む」と名づけられました。これに対して、作品表現の工夫を丹念に分析するような読み方は「頭で読む」ことになります。一見正反対に見えますが、この二つとも、個人の読書の世界に属しているという点では、共通した土台の上にあります。だからこそ、この二つを個人の中で如何に組合せるかが問われることになるわけです。
 この川合さんが提起された二つの読み方は、相手が古典文学の場合、とても大事な観点になると思います。ここで文学一般ではなく、古典文学と言ってみたのは、古典文学が韻文と散文とにかかわらず、読み上げたときの響きの効果、つまり朗誦性を重視して作られているからです。
 漢詩が韻を踏み、近体の律詩や絶句になると一字一字の平仄に踏み込んで音律を吟味したのは、その分かりやすい例です。また散文も、唐以前から栄えた貴族的美文である駢文が四字句・六字句を多く用いるために「四六文」と呼ばれるように、そこでは音数律への配慮が徹底していました。韓愈や柳宗元らの達意の古文も、駢文で工夫されたこうした様々な技巧を吸収したもので、単純な駢文否定ではなかったわけです。なぜ古典文学が朗誦性を重んじたのか、色々と理由はあるでしょうが、根本的には、紙に書かれて読まれる前に、まずは大勢の前で読み上げて披露されることが原則だったからでしょう。こうした傾向は、中国に限らず、日本も含めて、おそらく世界の古典文学に共通したものだったのではないかと思います。
 古典文学が読み上げて披露されたのは、昔は紙が高価で、印刷技術も未成熟だったから仕方のないことでした。しかし私は別の大事な理由もあったように思います。古典文学は、規範的な教養と美的価値観を共有する人々の、ある意味では排他的なサークルの中で作られたものだったに違いありません。「作品が読み上げて披露される場」、たとえば王朝歌人の歌合わせや、江戸漢詩人の詩会は、そこに顔を出すことで自分がサークルの成員であること示す資格認証の場となっていた。だからこそ作品は、披露の場を想定して、声に出して読み上げるように作られることになった。古典文学は声に出して読むにふさわしいことには、こうした背景もあるように思います。

 ところで古典文学の朗誦、またその先にある暗誦には、こうした読みの方法とは次元を異にする、いわば「社会的役割」ともいうべきものがあるように思います。暗誦という行為が、社会の中で役割を持つというのは、古典が古典である理由と関係しているように思います。
 古典を『広辞苑』で調べてみると「昔、書かれた書物。昔、書かれ、今も読み継がれる書物。転じて、いつの世にも読まれるべき、価値・評価の高い書物」となります。要するに、①昔、書かれた、②今でも読む価値のある書物、という二つの条件を満たすものです。しかしこの当たり前の説明には、知らぬ間に、今様の解釈が入り込んでいるのではないかと思うのです。
 英語のclassic、独語のklassischが本来どういう意味を持つのかはわからないのですが、漢字で「古典」と書いたとき、輪郭はかなり明確です。「典」は『大漢和辞典』には、①五帝の書。②ふみ。書籍。〔説文解字〕に「典は大冊(重要な書物)なり」。〔書経〕の「五子之歌」に「典有り、則有り」。その孔安国の伝(注)に「典は経籍なり」。③のり。つね。法。常法。〔爾雅〕の「釈詁」に「典は常なり」。同じく〔爾雅〕の「釈言」に「典は経なり」。④みち。をしえ。――などと書かれています。
 つまり「典」とは規範であり、あるべき姿を提示するものとなります。このような「古典」は、『広辞苑』が言う「いつの世にも読まれるべき、価値・評価の高い書物」という綺麗事で済むものではなく、もっとごっつくて威圧的なもの、言い方を変えれば、人格を作る鋳型という意味になるのかもしれません。
 そこで思い至るのが、台湾人の少年に「これは立派な古典なので君たちはちゃんと憶えおくように」と諭して『おくのほそ道』を暗誦させた国民学校の日本人教師のことです。「これは立派な古典なので」と言ったとき、『広辞苑』的な「古典」とは別様のニュアンスがあるように思います。私の思い違いでなければ、『おくのほそ道』を読むことで立派な人間になれる、何が美で何が真なのか分かる人間になるという願いをこめていたように思うのです。教戒は『論語』や『孟子』のような思想書の専売特許ではなく、古典文学も人格陶冶の教材となり、美的感性の涵養に活用されていた。古典は、大和言葉の古典だけではなく伝統的漢詩文も含めてのことですが、教育という社会制度の中で、暗誦という形を取って教授され、人々の体に刷り込ませていたのではないでしょうか。そう言えば、先頃亡くなった台湾の李登輝前総統は『おくのほそ道』の愛読者で、来日の短い時間のなかで、念願かなって『おくのほそ道』の一部を歩いたことが大きな話題となりました。李登輝を教えた日本人教師も、『おくのほそ道』を同じように語っていたのかもしれません。
 このような古典教育のあり方は、日本だけのものではなく、中国でも、きっと世界の何処でも行われて来たものではないかと思います。またその結果として、古典は、古くて価値のある書物であること以上の社会的意義を担わされてきたように思います。
 古典の暗誦という話題に触発されて、横道に大きく逸れてしまいました。恐縮です。

2023年8月29日

松原 朗


(c) Akira,Matsubara 2023

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