当館では、『大漢和辞典』を始めとする漢和辞典を発行する大修館書店が、漢字や漢詩・漢文などに関するさまざまな情報を提供していきます。

読み物

連載記事

#6 東洋と西洋の角逐

松原朗さま

 話がむずかしく、込み入ってきましたので、ここまでのやりとりを簡潔に整理してみます。話題の中心は漢文学と中国文学。松原さんは長い歴史をもつ漢文学とは別に中国文学が生まれた契機は、日本人が留学して実際の中国を体験したことにあったと言われました(#3)。それに対して、わたしは明治に入って西欧近代の概念が流入したことが中国文学という見方を生んだのではないかと述べました(#4)。中国文学史への言及は、西欧に刺激されて生まれた典型的な例として挙げたに過ぎません。が、話題は中国文学史、さらにそのもととなった西欧諸国の文学史へと拡がってゆきました。松原さんはヨーロッパの歴史を詳しく振り返って述べておられますが(#5)、わたしは西欧の歴史に暗いので、ぼんやりした感想だけでお許しください。彼の地では近代国家が成立するまでに、民族も領土も入り交じった長い攻防があったように思います。それに対して、中国・朝鮮・日本はさほどの混淆はなかったのではないでしょうか。加えて西欧では淵源である古代ギリシア・古代ローマは先に消滅したのに対して、東アジアでは20世紀初頭まで一貫して中国が文化の上で中心であり続けました。東西を一概に語るのはむずかしそうです。
 とはいえ、松原さんが西欧と比較するなかで提起されたのは、日本は国民国家としての自立を急いだことが中国文化との境界画定を促したのではないか、という新たな問題です。これはとても斬新で、わたしなど思いも寄らなかった考えです。なるほど西欧並みの近代国家を目指す日本は、そのために過去の伝統中国と差異化することが求められたのでしょう。松原さんのご意見を言い換えれば、日本のなかに根付いていた東洋的なるものを排除し、日本を西洋に組み入れようとしたということでしょうか。
 ただ、初期の中国文学史のなかには、中国の伝統文化を日本から切り離そうとするどころか、逆に日本と中国を東洋という一体として捉え、西欧一辺倒の時流のなかで東洋の復権を目指そうとする意図が目立つように思います。序文で語られる中国文学史執筆の動機のほとんどは、我々東洋人には長い伝統文化があるのに、今や西洋に席巻されている、それゆえ中国の伝統を見直そうとして文学史を編む、といったことでした。明治に入ってお手本を中国から西洋に転換した結果、東洋文化がしだいに忘れられていく、そんな危機感、さらには伝統を守らねばという使命感が、中国文学史執筆を駆り立てているように見えました。
 もう一つ、契機と考えられるのは1894年の日清戦争です。この時の戦勝はそれまでの中国に対する長い尊崇の歴史をひっくり返す大きな転換点だったとよく指摘されます。西洋への傾斜と同時に、世の中で中国に対する軽視が起こり、そんな風潮が漢学を学んできた人々に東洋復権の主張を促したとも考えられます。
 話が横道に逸れてしまいますが、中国を中心とする東洋の意義を見直そうと、「ほとんど」の中国文学史が唱えているなかにあって一つだけ例外があったように記憶しています。それは藤田豊八の『支那文学史』(東京専門学校蔵版、1895 年?~1897年?)です。そこには劣勢の東洋を盛り立てようという意図ではなく、世界の文学の一つとして中国の文学を捉えようという、東西を等し並みに見る態度が窺われました。藤田だけが異色でした。上海に開設された羅振玉の東文学舎へ移ったのは文学史執筆よりあとのことでしょうが、そこの生徒のなかから王国維を見つけ、彼の能力を開花させた藤田豊八は明治の先学としてもっと知られるべき、視野の広い人物ではないかと思っています。
 西洋の流入によって東洋と西洋の角逐が起こった、これはおそらく美術界など様々な分野で同様な問題があったことでしょうが、個人の内部で東洋と西洋に挟まれて苦しみ続けた一人として夏目漱石が挙げられます。「草枕」のなかで主人公の画家の口を通して、しきりに西洋嫌いを標榜していますね。英国留学のあとです。しかし西洋に反発するあまり、陶淵明や王維を持ち上げるのは、日本人の偏った漢詩嗜好をもたらすことにもなったように思うのですが、それについてはまた後日の話題としましょう。森鷗外の場合は懊悩は表面に見えないかのようですが、若い時期の翻訳から始まった文業が晩年にはまるで史書みたいな「創作」に移行したことを思えば、西洋から東洋へという方向性は認められそうです。「普請中」「かのように」などに窺われるように、鷗外も当時の日本に対して決して満足していなかったのでしょう。東洋と西洋の問題はつい先頃まで日本の知識人を悩ませ続けてきたと思うのですが、昨今はもはや話題にもされません。易々と「グローバル化」して東西の壁(?)をなくしてしまったのでしょうか。自然科学ではもちろんとっくの昔に東も西もない、同一の言語・論理・方法が共有されていますが、諸分野のなかで人文学では最後まで越えがたい障壁であり続け、障壁であり続けるところにこそ人文学の意義もあるのではないでしょうか。
 脇道に迷い込んでしまいましたが、話を戻すと、松原さんのお手紙は、日本は「近代化」のために伝統中国を切り離した、そのために漢文学は隅に追いやられた、さらに言葉を加えれば、そこに「近代化」された中国文学が生み出されたということですね。
 そのお考えはとてもよく理解できるのですが、しかしもしそうだとすると、そこに奇妙なねじれが生ずることに気づきます。上に記しましたように、当時の中国文学史のほとんどは東洋の復権を動機としたのに、その結果は伝統に回帰するどころか、反対に漢文学と袂を分かって、近代の文学として中国の文学を提起することになってしまいました。つまり中国の伝統を持ち上げようとした中国文学史が、かえって伝統的な漢文学を過去の遺物に追いやることになった。
 この矛盾をすぱっと解決する説明は松原さんにお願いしたいのですが、わたしとしては歴史のなかに時々生じる不思議な矛盾としておもしろく受けとめたいと思います。つまり当人たちの意図と反する結果をもたらすのだけれども、そのことが歴史の変化、展開を引き起こすことにもなるという現象と受けとめられないでしょうか。個人の人生のみならず、人々の歴史にも、思いもよらない紆余曲折が生じて、勝手に道をこしらえていくことがあるかのようです。

 松原さんのお手紙にはもう一つ大きな問題に膨らみそうな事がさりげなく混じっていました。「国文学」か「日本文学」かの問題です。これは単なる呼称にとどまらず、対象に対する態度、捉え方をあらわす大きな違いを含んでいます。近年の大学では「日本文学」が主流であり、伝統のある大学に「国文学」の名称がのこっているようです。中国の場合、北京大学や清華大学など、やはり歴史のある大学ではかって「国文系」と称していた時期があったようですが、今日ではみな「中国語言文学系」、略して「中文系」となっているようです。台湾でも概して「中文系」なのですが、わたしの知る限り、ただ一つ例外があって、台湾師範大学では今でも「国文系」という名前を守っているはずです。これは師範大学の学風がどちらかといえば伝統的、保守的であることと結びついているように思います。もっとも近年は大学間の差異はさほど目立たなくなりました。それはまた学風というものが薄れてきたことでもあります。
 自国の文学を諸外国とは一線を画して特別なものとして尊重するか、それとも他と同列に置いて平等に見るか。「漢文学」「中国文学」の違いは、「漢文学」は「国文学」に、「中国文学」は「日本文学」に対応することでしょう。時代の趨勢は「国文学」から「日本文学」へ移ってきているようです。わたし個人としては、それぞれの文化圏のなかで成立している文学の一つとして日本の文学、ないし中国の文学を捉える「日本文学」「中国文学」という呼称が今日ではふさわしいと考えます。ただしかし、やはり自国の文学、自国の言語は重点を置くべきであって、規模とか人員とか予算とかにおいて、諸外国と等し並みに扱うのは納得しかねます。日本では「国文学=日本文学」をもっと拡大し重視すべきではないでしょうか。また話がずれてしまいましたね。

2023年6月22日

川合康三


(c) Kozo,Kawai 2023

  • facebookでシェア
  • twitterでシェア

おすすめ記事

写真でたどる『大漢和辞典』編纂史

漢文世界のいきものたち

体感!痛感?中国文化