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#3 訓読と直読、伝統的な文化理解と風土の体感

川合様

 ご返事をいただいてから、しばらく時間がたってしまいました。今日は4月10日、私の勤めている大学では5日に武道館での入学式が済み、明日から授業開始です。授業が始まってしまうと、新学年ということもあってしばらく気もそぞろになりそうです。このタイミングを逃すわけにいかないと思い、返事を書き始めました。
 私も川合さんから「3月18日」の思いがけない意味をうかがって、ある種、感慨無量なのです。実は私が漢詩を読みたい、杜甫を読もうと思い立ったそもそもの原点も吉川先生にありました。新潮文庫から『杜甫ノート』が出ていた。岩波新書には『新唐詩選』正・続があった。それらは高校の間に繰り返し読んだものです。『杜甫ノート』が面白かった。なかでも「九日」と題された「九日藍田が崔氏の荘」という七律を分析論評した文章は魅力的で、いま読み返してみても思わず引き込まれます。少し長いし、専門的ではあるけれど、こうした魅力的な文章が高校の国語の教科書に載ったら、間違えなく漢詩文の愛好者が増えるだろうと妄想を逞しくしてしまいます。こんなわけで、川合さんの3月18日の驚きは、私の中にもこだまを返したわけです。

 川合さんは、石川先生が漢詩文を日本の文化と見る立場にあるのと比べながら、吉川先生は、中国文学を外国文学として向かい合おうとしたとお考えになっています。先の「九日」のエッセイでも、杜甫の詩の中国語の発音をローマ字で示して、杜甫が詩をどのように響かせようとしていたのかを説明しており、高校生の私は、それを実際に発音してみようと試みたものです。こうした仕組みを通して、杜甫の詩は中国文学だと、吉川先生は気付かせようとしたのです。また詩の第八句で「玉山」(長安東南の美玉を産する山)が高く聳えるのを説明するとき、「そうして、その背後には、華北の秋に特有な、蔚藍[うつらん]の天空が、高高とひろがっていたに相違ない」と述べるのを読んで、私は、見たこともない蔚藍の天空の中に向かって背伸びする玉山の姿を、一生懸命思い浮かべたものでした。風土と一体となった文学を提示された日には、杜甫は中国文学でしかありません。このような詩の味わい方は、漢詩文を日本の伝統の中で読むところではまるで不可能なものです。吉川先生は戦後の日本をおおうことになる新しい風気の中で、わが国における中国古典文学の読み方そのものを刷新しようと考えたのかもしれません(それが古い株を掘り出して新しい株を種えることだったのか、それとも同じ根を大事に残すための接ぎ木だったのか、そこが実は知りたいところなのですが)。

 吉川先生にそのような転換が可能だったのは、戦前の北京への留学があり、そこで中国語の世界に浸り、中国の風土に親しんだからだと思います。その体験を通じて、日本の伝統的な漢詩文の読み方に本質的な違和感を覚えたのでしょう。日本流の読み方とは、むろん「漢文訓読」のことですが、その漢文訓読とは、読解の方法でありながら、本来外国の文学であったものを巧妙に日本の文学に移し替える文化理解の枠組みでもありました。その枠組みが精妙でおそろしく出来のよいものだったので、もたらした影響も奥深くまで及んでいた。だから吉川先生は中国古典文学の正体に接近するために、漢文訓読をいったんは棚上げして、中国語による直読を重視しようとした。

 こんなことを言っても今の若い人には信じてもらえないのですが、戦後長らく、私が大学生になってもしばらくの間は、日本と中国の接点なんかないにも等しかった。黄河や泰山の写真を見ようにも手立てがなく、名取洋之助という戦前に活躍した写真家のモノクロの写真を見るのが関の山だった。その背景には、共産中国の成立から文化大革命に至る中国の実質的な鎖国状態があったわけで、お金をどんなに積んだところで観光旅行なんかあり得なかった。留学などは夢の又夢だった。それが1972年の田中角栄による日中国交回復後まで続いたわけです。この交流断絶の約30年が、日本文化としての漢詩文派と、中国古典文学派を分けることになったのだと思います。

 川合さんの師匠である吉川先生は、むろん後者の代表格です。私の師匠だった松浦友久先生は、終戦時に10歳なので戦前の留学組とはわけが違うのですが、吉川先生と一緒に北京に留学し徹底した中国語直読主義者となった倉石武四郎の私塾に通って、中国語と中国語音韻学などを学んでおり、中国の実際を知らない分だけ、いっそう徹底した直読主義者でした。大学院のゼミの時間に、「××大学では訓読中心でやっているらしいよ。そんな大学が、ここに来て増えているのはどうしたものかね」などと嘆息ともつかぬ発言をされていたことを思い出します。それは1985年前後だった。その後、松浦先生にもある種の訓読回帰があったようですが、それは今後の話題に取って置きます。

 こうした中国語直読主義(音読主義)があれば、おのずと反発する立場も現れます。最たるは、原田種成[たねしげ]先生だったかもしれません。その主張は、漢文は訓読してこそ味も意味もあるという極点まで突き進む。中国語直読主義は、漢文訓読を断罪することで、漢文訓読とともにあった日本における漢詩文の読書と実作の長い伝統を否定するような響きを帯びるので、これは見過ごせないとなるわけです。私は、原田先生の主張にまったく違和感を持ちません。随分と偏激なところがありますが、そこには日本とその伝統文化に対する紛れもない愛着があり、こういう信念の人が日本からいなくなっては困ると思います。加えてこれは大声で言うことではないのですが、中国語教育の普及拡大を中国宣伝の手段と考える人たちも過去には確かに存在していて、このことが中国語音読主義に対する反発の隠れた要因になった可能性もあります。
 石川忠久先生は、それに比べれば穏健だったと思います。このことで直接お考えをうかがったことはありませんが、訓読を大事にしながらも、先生は中国語にも堪能であり、中国語直読を否定される立場にはなかったはずです。石川先生には『陶淵明とその時代』(研文出版)という独創性を披瀝した立派な研究書があって、石川先生は中国古典文学の間違いなく第一線の研究者だった。しかし石川先生はその道に思いを断って、日本における漢詩文の伝統の護持、中等教育における漢文教育の確保にご自身の使命を見出だしたのだと思います。石川先生が、お若い頃から漢詩を作っていたことも背景にあったのかもしれません。石川先生と東大でほぼ同期に愛知大学の中嶋敏夫先生がいて、私は同道して1985年に中国で開かれた李白学会に出たことがあるのですが、その折、忠久から漢詩を作る集まりに誘われたが、手習いは初めの指導者が大事だから止めておくよと断った、と笑いながら仰っていたことを思い出します。それはともかくとして、人間には自己限定を引き受けなければならないこともある、石川先生はその一つの形だと思っております。

 ここでようやく川合さんの、お前は日本に伝統の漢詩文派か中国文学派かというお尋ねに戻ります。様子見はなしということならば、私は、中国文学派です。山西省の臨汾[りんぷん]市、その東20キロばかりにある堯陵を、車の幅ほどもない狭い土路を辿って見に行ったときが忘れられません。黄土台地に特有のゆったりと起伏する丘の稜線、ところどころに待ち構える切り立った泥の断崖。その真っ黄色の断崖の底に澄んだ水をためた池には、鮮やかな蓮の花が咲いていました。これが古代中国の文化を育んだ風土であり、杜甫の詩をその中に置くと、如何にもしっくりくるのです。しかしそれにもかかわらず、私を杜甫と出会わせたのは、日本に固有の漢詩文の伝統だった。この逆説をどう理解してよいか分からない、というのが今の偽らぬ思いです。

2023年4月10日

松原朗


(c) Akira,Matsubara 2023

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