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#21 私たちは何処に行くのか

川合様

 この往復書簡も早いもので、もう一年にもなってしまいました。「漢詩漢文こんにゃく問答」とは川合さんの命名でした。議論が積み上がらずに、脇道にそれて行くかもしれないことを予見してのことですが、こうなった結果についてはもっぱら私に責任があるように思います。ところで川合さんが#18で触れられた、これまで続いてきた文化が根底から変化にさらされている点について、ご返事しようと思いながら間に合いませんでした。この点について、少しだけ考えてみたいと思います。

 生成AIを代表する形でChatGPTが社会の話題になり始めたのは、2023年の年初だったかと思います。私のいる大学では3月の教授会で、それをいかに教育の中に位置づけるべきかで熱い議論がありました。それだけの衝撃力を持っていたわけです。
 昨年の夏休み、実に45年振りに高校の同級で、今は歌人となっている友人の大学研究室を訪ねました。早期定年を選び、この研究室も今年いっぱいで片付けるというので様子を見に行ったのです。うだるように暑いその日の夕方に新宿で歌人仲間の会議が予定されていて、喫緊の議題は、投稿歌にAIに作らせたものが混ざり込んだ時、如何に対処するかという切実な悩みだとのことでした。同人に対してAIによる偽造品を疑い始めるのは、殆ど結社に対する自損行為になりはしないかと、考えさせられたものです。
 そして今年1月の芥川賞では、九段理江氏が『東京都同情塔』で受賞したのですが、執筆にはChatGPTを活用したことを公言しています。AIの言葉をそのまま使って書いた部分は少なく、主に取材と意見聴取を目的にAIを活用したとのことですが、それにしても純文学の創作世界に生成AIが入ってきたのです。
 これはショックな話です。人工知能(AI)研究の権威、カナダ・トロント大のジェフリー・ヒントン名誉教授(76歳)が朝日新聞の取材に応じた記事(朝日新聞Digital、2023年12月24日)には、「AIが代替しにくい技能として、科学者や小説家などの『創造的で習得が難しい技能』や、配管工など物理的な作業を伴う仕事」が挙げられていたにもかかわらず、その強固な一線が崩れつつあるのですから。つまり、人間にだけ許された聖域は、もはや存在しなくなるのではないかということです。

 それ以前から私は「シンギュラリティ」なるものがどんなに遅くとも2050年までには到来するという噂に関心がありました。それがChatGPTの出現によって10年以上早まったかもしれないとのこと、つまり早ければ2030年頃となります。
 シンギュラリティとは、あくまでも私の理解ですが、特定の機能ではなく、知能の全般にわたって、いずれは喜怒哀楽や善悪美醜に対する感情も含め、さらには自己保存の意志も併せ持って、AIがヒトに並ぶということです。むろん強力な反論がないでもありません。もう何年も前のことですが、たまたま某出版社の編集の方と研究室で雑談する機会がありました。御仁力説して曰く、死という最後を区切られた人間は、正しくそのことによって、AIが逆立ちしても到達できないことを成し遂げるのだ。有限の生は、無限に向かって羽ばたくための跳躍台にもなる。確かにそうかもしれません。マーラーがスケッチしか残さなかった第10交響曲の終楽章、音楽学者クックによるその補筆版を聴くと、まるで死に対する恐れすら乗り越えてしまったような生への甘美な執着が、妙なる恐るべき響きをもって奏でられていきます。そのときつくづくと思うのです。「華は愛着[あいじゃく]に散る」(『正法眼蔵』現成[げんじょう]公案)。こんなことを思わせる作品は滅多にありません。
 しかしながらマーラーにとっても「マーラー」となることが至難の技だったように、人は、誰もが「マーラー」になれるわけではない。大体は、たいしたことも考えずに衰えてゆくのです。きっと辞世の句も、AIに作ってもらった方が余程気の利いたものができる。AIの発展と、シンギュラリティ到来の先にあるものは、人類が今迄出合ったこともないような、端倪[たんげい]すべからざる世界です。
 私が勤務する大学に、コンピュータの草創期から活躍された先生がおられました。雑談の中で、素人の質問をしました。生命には、水と炭素が不可欠とされていますが、炭素ではなくシリコンになった可能性はないのですか? 先生のお答えは、確かにシリコンは地球に遍在する物質なので、その可能性を全く排除することはできません。でも私の聞きたかったことは別にありました。聖書によれば、神は6日かけて世界を創り、7日目に休まれた。万能の神をもってしても、世界を瞬時に創ることはできなかった。高等生命を創ることも容易ではなかった。だから初めはバクテリアのような単細胞生物を創り、次に多細胞生物を創り、雌雄による有性生殖を導入し、それからも色々と段階を踏みながら人類が登場する。しかしこれが神の計画する終着点ではないかもしれない。人類に至るまでの生命の歩みは総じて踏み台にすぎず、次の高等生命を産むために用意された準備段階なのかもしれない。
 決してそんなことはないと、誰が私のために言ってくれるでしょうか。私は、この妄想とどう折り合いを付けるべきか、思案しているところです。

 さて「言葉の豊かさ」について、鄙見を述べたいと思います。川合さんの仰ることに、おおむね異論はありません。文学や芸術も含めた文化は、誰がそれを支えるかという視点では、三段階に分かれるように思います。ひとまず近代の成熟が早かった欧米を基準に考えれば、19世紀までは王公貴族や商業資本家がパトロンとなっていた。19世紀後半を代表する歌劇作家ワグナーが、バイエルン国王ルートヴィヒ2世の篤い支持を得ていたことは分かりやすい例となります。文化は、商品ではなく、権力者の徳性を飾る威信材として機能していた。
 ところが二度の世界大戦を経る頃になると、文化が商品となって、消費されるようになる。その背景には、拡声とか録音とか撮影という複製技術の進歩があり、大量の複製品が大衆に向かって供給されるようになる。いわゆる文化の俗悪化は、このなかで進行する。しかし文化は大衆化しても、商業資本は「売れるアーティスト」を選別する必要があるので、表の文化の発信者(アーティスト)は依然として少数者(スター)に限定されていた。
 ここに風穴を開けたのがコンピュータとインターネット技術の進展であり、ブログやSNSによって、誰もが文化の発信者となることが可能となった。しかし多くの場合、表現者となるための鍛錬が足りないために、しばしば表現は稚拙となる。その最たる現象が川合さんの仰る「言葉の貧困」となります。
 しかしこれが終わりとは思えないのです。きっとその内、いくつかの曖昧な言葉を投げ込むと、それを繋ぎ合わせて立派な文章を仕立ててくれるようなAIが登場することでしょう。特別注文を付けると、鷗外風の文章、太宰風の文章のように文体まで書き分けてくれるかもしれない。

 私が前から不思議に思っていることがあります。ゲームは、まるでやったことがないのですが、その場面の一部がふと目に入ることがあります。バトルシーンでは、なぜか、中世の森から出てきたような若武者が決まったように剣[つるぎ]を振りかざしている。合理性の極致である実際の戦闘行為において、これは考えられないことです。(頼山陽が絶句の起承転結を説明する時に用いたという俗謡「京都三条糸屋の娘、姉は十六妹は十四。諸国大名は弓矢で殺す、糸屋の娘は眼で殺す」において、合戦の要として挙げられるのは飛び道具の弓矢であり、事実、戦国時代には刀剣に対する弓矢の優位は確立していたと何かで読んだことがあります)
 ここには、人間を考える上での大きなヒントがあるように思います。人間は、直接的な身体性に対する本能的な郷愁を持っていて、それが生活の中で希薄化するに従って、いよいよ大きく膨らむのではないでしょうか。陶芸が一部の人たちを強く惹き付けるのも、手の指の感覚をもって粘土をこねるという、人類が土器を造ることによって文明を手に入れたその原点に繫がろうとする願望があるからだと解釈したくなります。水と炭素から構成された生命は、どうしても生身の体への執着を捨てられないということです。
 同じことを、思考における「身体性」として措定できるように思います。自分は何処から来たのか、自分の居場所は何処なのかと、人間は問い続けています。そのときに、現代の高名な「識者」が巧みに語る言葉が、どのぐらい心に響くものでしょうか。始原の濃密な空気の中からしたたり落ちる一滴のしずくを、きっと人間は口に含みたいと願っているのです。それがどんなものなのかを、私たちは持てる五感のすべてを動員して知ろうと待ち構えている。私たちの中には、一人の例外とてなく、そんな渇望がひそんでいるのだと思います。
 生成AIがいよいよ威力を増すことがもはや必定となった現在においてこそ、私たちにおける古典は、いっそう重い意味を持つことになると考えております。

2024年3月18日

松原 朗


(c) Akira,Matsubara 2024

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