当館では、『大漢和辞典』を始めとする漢和辞典を発行する大修館書店が、漢字や漢詩・漢文などに関するさまざまな情報を提供していきます。

読み物

連載記事

#2 石川忠久先生と吉川幸次郎先生

松原朗さま

 最初のお手紙をいただき、末尾の日付を見て、心臓がきゅっと鳴ったような驚きを覚えました。3月18日、この日は吉川幸次郎先生の誕生日なのです。それだけではありません。56年前のこの日、すでにそれが先生の誕生日と知っていましたが、今は取り壊された京大文学部旧館、そこに掲示された合格発表に自分の名があるのを確かめてから薄暗い階段を上がると、吉川研究室という札が懸かった部屋がありました。もちろんノックする度胸もなく、しばらくその場にたたずんでいただけでした。先生がその春で退官されることも知っていました。浜松の家に帰り、悔しさを手紙に綴ったらすぐ御返事をいただいたこと、さっそく小読杜会に入れていただいたこと、そんな思い出を綴ったことがあります(「十代の読書 併せて斎藤謙三先生のこと」、『未名』29、2011年3月)。
 このように3月18日がわたしにとって特別な日であることなど、もちろん松原さんはご存じなく、にもかかわらず、たまたまこの日に往復書簡を始めることになったことに、わたしは何か因縁を覚えてしまいます。少なくとも幸先がよさそうだとありがたく思うのです。
 個人的な思い出話が長すぎました。松原さんの手紙のなかにすでにいろいろな問題が含まれていますが、石川忠久先生について多く触れておられますので、そのことから始めましょう。わたしが前書きのように記した吉川幸次郎先生はことに戦後の昭和期、中国古典文学の泰斗として多くの読者を集めました。吉川先生が1980年に亡くなられたあと、その分野で代表的な書き手となられたのが石川先生、やはり多くの著書を書かれ、たくさんの読者を育てられました。
 お二人とも中国古典文学を専門とし、その方面で筆を振るわれたわけですが、ところが両先生の説かれた中国古典文学ははなはだ異質なものだったのではないでしょうか。石川先生は伝統的な漢詩漢文に沿っておられたように思います。吉川先生はむしろそこから脱して、世界のほかの文化圏の文学を読むのと同じような態度で接する、中国古典文学のなかに世界文学一般と変わらぬおもしろさを引き出す、そんな読み方を示されたように思います。つまりお二人にとっての中国古典は対蹠的だったのではないでしょうか。
 たぶんどちらがいいとか悪いとかいう問題ではないと思います。ただ、もしわたしが中学生、高校生の時に吉川先生の本に出会わなかったら、中国の古典に興味をもつことはなかった。これは断言できます。逆に石川先生の本があったからこそ惹かれたという読者もおられるはずです。
 都合のいい言い方をすれば、中国古典文学の二つの側面、それを両先生はそれぞれに解き明かしてくださった。そのおかげで、二つの傾向の読者の双方を惹き付けることになった、ということでしょうか。
 松原さんは両先生の両面についてどのようにお考えでしょう?

2023年3月18日 この日の日付を打ちたくて、大急ぎでしたためました。

川合康三

 追記:以上は松原さんの3月18日という日付に興奮して(?)一気に書いたものですが、冷静になったところでいくらか書き増します。
 漢詩漢文の熱心な読者に思わぬ所で出逢った思い出を松原さんが書いておられました。わたしにも似た経験があります。1982年、一人旅を続けて重慶から船に乗った時のことです。当時は三峡の観光船などなく、定期便には野菜の籠やら生きたままの鶏やら、大きな荷物を担いだ中国の生活者ばかりでした。食堂の少女が、日本の団体客が乗り合わせているので、食事は同じテーブルにしてくれないかと頼みに来ました。中国料理は大勢で食卓を囲んだほうが便利ですから、もちろん喜んで承諾しました。それは青森県の中学校の先生方でした。両岸から山が迫る三峡に船が進むと、舳先でそれを見ていた女性の先生が、「江は碧にして鳥逾[いよ]いよ白く」と杜甫の絶句を声低く口ずさみ始めたのです。漢詩を文化遺産として持つわたしたちは、風景を見ても単なる自然の景勝としてではなく、過去の人々の思いを重ね合わせて受け止めているのだと知りました。
 もう一つ、二〇代のころの話ですが、鈴木虎雄先生の岩波文庫『李長吉歌詩集』を森瀬寿三さんからいただいたことがあります。名古屋の古書店で入手されたというその本には、上下二冊にぎっしり、元の持ち主のコメントが書き込まれていました。森瀬さんによると、新聞記者をしておられた方らしいとのことでした。まさしく全身全霊を籠めて李賀の詩に立ち向かった跡をまのあたりにする思いがいたしました。
 さらにもう一つ、数年前の経験を記します。台湾の大学で週に一度の授業が終わったあと、その日は受講者たちと一緒にそのまま地下鉄に乗って、授業の議論を続けていました。すると座席にいた台湾の老婦人が、「あなたたちの話はとても面白い。ここに坐って、そのまま話を聞かせてほしい」と席を譲ってくれました。
 たまたま経験した三つの出逢い、それは巷間の人々のなかにかくも熱心な中国古典の愛好者がおられるということです。思い出すたびに、職業としてきた自分が恥ずかしくなります。そして、ただ自分一人で楽しんでいるだけではいけないと思い知るのです。

 本題に戻りましょう。松原さんは漢詩漢文は日本の文化なのかという問いを提起されています。しかし一口に「漢詩漢文」と言っても、上に記したように、吉川先生と石川先生の場合でずいぶん懸隔があるのではないか。日本の文化か否かと問い掛けられているのは、どちらのほうなのか。石川先生が書いてこられた伝統的漢詩文、吉川先生が切り開かれた、新しい文学としての中国古典文学、それについての検討から始めなければなりません。
 ただ、一見すると、伝統的、正統的漢詩文は、過去の規範を大切に保持する固定した文化であるかのように思ってしまいますが、実はそれぞれの時代の要請に応じて姿を変えてきた、柔軟で自由な存在だったのかも知れない、というようなことを漠然と考えています。

2023年3月29日

川合康三


(c) Kozo,Kawai 2023

  • facebookでシェア
  • twitterでシェア

おすすめ記事

写真でたどる『大漢和辞典』編纂史

写真でたどる『大漢和辞典』編纂史

写真でたどる『大漢和辞典』編纂史

『漢文教室』クラシックス