漢詩漢文こんにゃく問答
#15 風景は文化か
川合様
お便り拝読しました。私は、ほんの話の切っ掛けの積もりで「千里鶯啼きて緑 紅に映ず」を出してみました。その程度の気楽な積もりでいたところ、このような日中の文学を巡る大議論に発展してしまうとは、思いも寄りませんでした。
川合さんが前便で披露してくださったこの詩の読み方は魅力的で、全体として深く教えられるものでした。例えば、色彩について「中国の詩は鮮明な対比を好み、日本の短歌は柳と桜が混然一体となった映像を好む」という指摘などは、目から鱗が落ちる思いです。
もう一つ「日本人の細かく分節された季節感」についてのご指摘も面白い。同じ春のなかにも、徐々に移り変わってゆく季節の推移を見るという日本人には独特の季節感がある。このように明快に説明されると納得するばかりです。
中国も一年の気候を分節する「二十四節気」や「七十二候」があり、中国文学に繊細な季節感が欠如しているわけでもないのですが、それでも日中の季節感には微妙な違いがある。中国のそれはグラデーションなく一段一段と上り下りする変化、日本では無段階的に進む変化として感得されているのかもしれません。川合さんが「文学の風土」に言及していることは、多分、このこととの関わりからでしょうか。
中国文化の「まほろば」は海から遠く隔たった内陸の洛陽一帯にあって、長安にしても北京にしても、華北の風土はだいたい洛陽と同じようなものでしょう。こうした大陸性気候では、寒くて長い冬から、俄かに春がやってくる。私たちが三月、四月、五月とゆっくり進む春の姿をつぶさに追うことが出来るのは、実は世界の中では稀な事態なのかもしれません。文学の背後にある風土について、私たちの伝統文学は京都を基準とし、その京都はある程度まで日本の風土を代表できているために、その意味を余り考えることなく済んでいます。しかし中国文学に対してはそうは行かない。しかもその中国の風土は、華北と華中と華南ではわけが違う。川合さんはこうした私たちの死角に注意を向けているのだと思います(松浦友久氏に論文「中国古典詩における「春秋」と「夏冬」」、同『中国詩歌概論』大修館書店があり、そこに春秋の季節が文学で偏重される理由が懇切に述べられていました)。
ここで川合さんの「千里鶯啼きて緑 紅に映ず」の新解釈について、私の感想を述べさせていただきます。
川合さんは、「春のうちのいつ頃の時期かが気になってしまう」と述べておられますが、この詩のおよその時期はわかります。「鶯」は古くは多く「倉庚[そうこう]」「黄鳥」などと呼ばれています。『詩経』豳風[ひんぷう]の「七月」の詩に「春日すなわち陽[あたたか]く、鳴く倉庚有り。女[むすめ]は懿筐[いきょう・竹かご]を執[と]り、彼の微行(小道)に遵いて、爰[ここ]に柔桑を求む」。これは蚕を飼うのに忙しい春も半ばの時節です。『礼記』の「月令[がつりょう]」に「仲春の月に倉庚鳴く」とあるのが、これを裏付けています。また春に花が「紅」となれば、ほぼ確実に桃の花です。これも仲春(旧暦二月)の季節感と合致します。
この詩が仲春二月を念頭に置いた作となると、川合さんの「鶯の一声が一気に全体を春に変えてしまった」という解釈は、春そのものの突然の到来ではなく、春の深まりに、あるとき俄かに覚醒したという意味となり、客観的な事態の進行と意識との齟齬を鮮やかに言い当てる解釈となります。そこに聞こえた鶯の一声が、意識下にあったもの全てを一瞬にさらけ出した。――川合説は、杜牧の詩がこうした大胆な解釈を迎え入れるほどに大きな構えを持っていたことを示唆したわけで、とても興味深いものです。
川合さんは、この「一句は、自分の感覚にすっと入ってくる即物的な春ではなく」と述べられています。即物的な景色か、観念的に再構築されたものか、その点については、特に詩の後半が数百年も前の南朝の光景へとタイムスリップするので、大いに川合説に左袒したく思います。一方「千里鶯啼きて緑 紅に映ず」は、私には違和感なく「自分の感覚にすっと入ってくる」景色なので、この点を考えてみたくなりました。
一面の緑のなかに鶯が鳴く、その緑は、人里を囲むような山の緑だと思います。そのような人里近い緑の山は、どこにでもあるわけではない。それなのに日本人の心は、鶯の囀りを緑の山と一体のものとして捉えるように出来ている。そのような「認識の枠組み」が文化であり、目に入る景観は、この枠組みにそって補正され、心地よい風景として受け入れられるわけです。私がこの句を素直に受け入れられると考えたのは、私たち日本人のなかに、それを可能とする「認識の枠組み」が備わっていると見るからです。
日本で春の鶯の囀りを楽しむことは『万葉集』の昔まで遡れますが、しかしこれとて文化として形成されたもののように思われます。
大伴旅人が太宰府の長官だった天平2年1月13日に官舎に部下達を招いて梅の宴を開き、ここで王羲之の蘭亭集序を模して作った漢文の「序」(いわば梅花集序)をかぶせて、参加者の歌を「梅の花三十二首、幷て序」(『万葉集』巻五)として編集しています。そもそも梅は中国から齎された花であり、土地柄も大陸への窓口太宰府だったことと相俟って、この梅の宴にはむせ返るような唐風趣味が立ち籠めていたことでしょう。――興味深いのは、その中の7首が、鶯を取り合わせて詠じていることです。例えば、小典山氏若麻呂[しょうてんさんじのわかまろ]の「0827_ 春されば木末[こぬれ]隠りて鶯ぞ鳴きて去ぬなる梅が下枝[しづえ]に」(春になると梅の梢に姿が隠れて、鶯は下枝の方に鳴きながら飛び移ったようだ)など。
日本の文化に鶯が定着する当初、その場には中国文化の刺激が濃密に交錯していたらしい。もし大伴旅人が、王羲之の蘭亭の宴の向こうを張ってこの梅花の宴を開かなかったならば、『万葉集』の鶯の歌は確実に貧弱になるし、そもそも「春の鶯」がその後の日本文化の一部として定着できたかどうかさえも不安になります。私たちが春の山里に鳴き交わす鶯を素直に受け入れることが出来る背景には、遡ればこの天平2年の出来事があったというが私の見立てです。
そしてもう一点、気になって調べてみたのですが、中国の鶯(倉庚・黄鳥)は桑の木と共に詠まれることが常識であり(前掲『詩経』「七月」など)、梅の花との組合せで詠まれる前例がまるで見つからない。日本では当たり前となる「梅に鶯」の取合わせは、実に、日本で成立したものらしいのです。こうして「梅に鶯」は、中国の文化ではなく、かといって日本に固有の文化だったわけでもなく、王羲之の蘭亭の集いを模して開かれた、中国渡来の梅花を賞でる宴の中で、つまり天平の日本を舞台にした日中文化交渉の坩堝[るつぼ]の中で作られたハイブリッド文化と言うことになります。
文化とはかくも歴史的な産物であると改めて思うのですが、そのことを気付かせてくれるのが、古典文学となります。古典とは、新しい解釈を迎え入れて今に蘇りながら、その一方で民族の記憶の彼方に忘れられたことを思い出させるよすがであることを、川合さんのお便りを読みながら確認できたような気がします。古典を読むのは、冒険的な行為なのですね。
2023年12月8日
松原 朗
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