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#13 古典とは「乗り越える」べく向き合うもの

川合様

 お便り拝読しました。川合さんは、古典の可変性に着目されました。これは興味深い視点だと思います。川合さんは、このように歴史の中に存在した古典の可変性、あるいは古典解釈の可変性を見据えた上で、創意ある古典の読み方の必要性を提唱されました。これに鼓舞されて、私なりの古典の読み方を申し述べたくなりました。ただその前に一言、無自覚で無意識の古典の継承も捨てたものではないのだと、付け加えたく思います。

 なるほど日常茶飯は、特別な身体を作るためのものではないけれども、自分の命を明日に繫ぐための基本です。それと同じように、日頃の生活の中で無意識のうちに繰り返される古典との接触が、文化を継承するための基本となる。つまり、古典に由来する文化が社会の至る所にそこはかとなく漂っていることが大事なのです。
 「千里鶯啼[な]きて緑 紅[くれない]に映ず」(杜牧「江南春絶句」)を知っている人は、必ずしも多くはない。しかしこの一句と出合った時に、日本人の誰しもが、山里をすっかり蔽うような新緑の中に、春の花が赤く咲いて、そこかしこにウグイスが鳴き交わす世界をありありと思い浮かべることができます。この素直な感動の前では、「鶯」が厳密には日本の「ホーホケキョ」と鳴くウグイスとは違う鳥であることや、ましてや作者が杜牧で晩唐の詩人であることなど、刺身のツマほどの意味しかありません。
 この事態は、二つのことを考えさせます。一つは、日本人にはすでに「千里鶯啼きて緑 紅に映ず」の世界を受け入れる文化の素地があったことです。鶯は、『百人一首』にこそ顔を出しませんが、古くは『万葉集』に大伴家持の「4290_春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影に鶯鳴くも」があるように、すでに十首に余る鶯の歌があります。私たちは、春の山野に鳴き交わす鶯を詠じた漢詩の一句を、ごく自然に受け入れる心の素地が出来ているのです。
 他方、漢詩に馴染みもなく、初めてこの句に接した人であっても、きっと懐かしいものに出合ったように思いながら、この一句を丸ごと憶えてしまうに違いありません。新しく接した古典作品でも、文化を共有する場では容易に受け入れ可能なものとなり、他方、新たに受け入れた古典は、自分の中にあった文化をこれまで以上に豊かなものにする。こうした循環が、文化の伝統を再生していくわけです。
 これを自覚なき古典継承の意義とするならば、淡々と繰り返されるかのような学校の古典教育にも、掛け替えのない意義が存していることになります。
 私は今、週1コマの中国文学講義を担当しています。国語科免許状の取得に必要な科目なので、学生の半分近くは教員志望です。内容はごく基本的な中国文学史の概説、代表的作品の講読、それに漢文訓読法の手ほどきで、最後のものは「中国文学講義」という大層な名前に似つかわしくありませんが、教壇に立つかもしれない学生相手にはこれが一番重要になります。
 私より十歳ばかり上の先輩がいて、曰く、漢文訓読は職人芸である、教えるというより伝えるものだ。個別の文脈に即して的確な訓を割り当てる技量が大事であり、それは個別知識の集積として伝えられるということなのでしょう。私は職人芸とは無縁の身なのですが、その意見には無下に退けがたい力があります。私が大学院の修士だった頃、戸田浩曉先生(新釈漢文大系『文心雕龍』著者)に、朱子『楚辞集注』を訓読で読んでいただいたことがあります。その授業で、名詞の「為」を「しわざ」と訓[よ]むことがあると教えられ、いたく合点が行ったものです。以来、この訓を一度は試してみたいと念じながら、今まで機会に恵まれていません。それはともかくとして、漢文訓読が芸であるならば伝承に断絶があってはならず、倦まず弛まず、繫いで行くことに意味があります。またこうした伝承に身を以て関わること自体に、かつて古典がどのように継承されてきたかを知る無言の効用もあるでしょう。

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 古典を読むというとき、私の念頭には杜甫があります。20世紀を代表する杜甫学者だった吉川幸次郎氏は、未完に終わった『杜甫詩注』(予定全20巻、生前刊行4巻)第1巻の「総序」で杜甫の用語について述べ、伝統主義者としては『文選』の用語を、その一面である反俗の詩人としては敢えて俗語や実用散文の用語を活用したことに注目しています。
 杜甫は当時の模範詞華集だった『文選』を愛読し、その用語を自家薬籠中のものとしていました。杜甫は、今の私たちには古典そのものですが、その杜甫も、当時の古典を読むところから自分の文学を出発させていた。はなはだ畏れ多いことですが、私は、その杜甫の古典の読みかたに学びたいと思うのです。
 杜甫が反俗の詩人だったとはつまり、誰もがするようにはしなかった、ということです。だから文学の言葉ではなかった俗語や実用的散文の語も、杜甫は敢えて大胆に用いた。では伝統的な文学の言葉を用いる場合はどうだったのか。ここでもやはり「誰もがするように」はしなかったと予想してみる価値はありそうです。
 南朝の斉に謝朓[しゃちょう]という夭折の天才詩人がいて、李白が敬慕したことは有名です。謝朓が宣城(当時都だった南京の南約百キロ)の長官に赴任した時、北の敬亭山と、東の宛渓[えんけい]の清流を愛して、多くの詩に「青山」・「白水」として詠み込みました。「青山」と「白水」は、それまで文学用語として未熟であり、謝朓の手によって清浄で平穏な世界の象徴へと作り変えられたものです。李白は五三歳で初めて宣城を訪ねた(752)のを皮切りに、以後毎年のようにここを訪れ、「青山」と「白水」を好んで詩に詠うようになります。有名な「青山北郭に横たわり、白水東城を繞[めぐ]る」(「友人を送る」)は、用語の来歴を仔細に辿るならば、ほぼ確実に宣城の光景を念頭に置いた作となります。
 そして杜甫には「新安の吏」という、安史の乱の最中(757)反乱軍から洛陽を死守するために農民たちが根こそぎ徴発される有様を描いた有名な詩があります。その一節「白水暮れに東流し、青山猶ほ哭声あり」、白水は日暮れに東の血戦が繰り広げられる洛陽に向かって流れ、青山にはまだ死者を埋葬する嘆きの声が響く。――
 杜甫が「白水」と「青山」の取り合わせを用いた時、李白の出来たてほやほやの用例を念頭に置いているに相違ありません。杜甫は李白の親友であり、心酔者だったのです。しかしながら謝朓と李白が愛した青山・白水という清浄で平穏な世界の象徴は、何としたことか、杜甫の手の中で無惨な世界の光景へと逆転される。その効果は、古典の先例を踏まえることで、いっそう破滅的な暴力性をあらわにしたのです。杜甫の詩は、このように伝統を敢えて捩じ曲げることで、無類の新しさを示すのです。これが真っ当な伝統継承と言えるものでしょうか。しかし伝統を踏まえなければ決して成し遂げられない世界を創ったのだから、杜甫は如何なる意味においても、正真正銘の伝統主義者だったと言うしかありません。(拙論「「白水」と「青山」―李白と杜甫それぞれの伝統継承」)
 ここに、李白と杜甫の古典の学び方、つまり伝統継承の二つの型を見ることができそうです。李白は、謝朓によって作られたものを素直に発展させる。その素直さは、天衣無縫の大らかな李白の文学を根底から支える何物かと、どこかで繫がっている。これに対して杜甫は、謝朓から李白を経て成熟した伝統を真正面に受け止めながら、自分の内部で溶解し変容させる。それは才知とか滑稽とはまるで意味を異にした、創造の暗闇を思わせる苦心の世界を通り過ぎる中で可能となる変容、つまり古典の根底的再解釈だったように思われます。
 杜甫は、創作者として古典と向かい合った。この事態を、読者である私たちと古典との関係に安易に短絡させることには無理があります。しかし古典が、歴史の中の置物として保存されるのではなく、不断に能動態に在る物として、伝統を再生し、文化の創造に関わるためには、古典の新たな読み直しがどうしても必要になる。そのような場には、きっと新しい熱心な読者が現れ、読者に背中を押されるように出版社も意欲的な企画を打ち出すことでしょう。そのような明るい未来を想像する時、杜甫が伝統に対して示した態度は、今の私たちを大いに鼓舞することになると思うのですが、妄想に過ぎますでしょうか。

2023年11月1日

松原 朗


(c) Akira,Matsubara 2023

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