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第二部 『大漢和辞典』完結へ向けて Ⅱ 『大漢和辞典 縮写版』全十三巻(A5判)の刊行―1964(昭和39)年~1968(昭和43)年

■著者、諸橋轍次の素願

 諸橋轍次は、第一巻(昭和30年11月刊)の「序」のなかで次のように書いている。

 ただ何分にも微力の身であるから、成果の上には幾多の不足もあらう、欠点もあらう、それらについては江湖有識の諸君子の教生を仰ぎ得れば幸甚である。更に後来、五十年百年、継続して本辞書に手入れする適当の学者が出て、完全なる漢和辞典を大成してくれる事ともなれば、独り私の望外の喜びであるのみならず、これこそ東洋文化宣揚のため学界の一大慶事であると思ふ。私は切にその事を希望して已まない。

 さらに、索引巻を除く本体全十二巻が完結した四年後の昭和34年12月、第十二巻の「跋」において、「第一巻の凡例に詳述した編纂上の義例は略々(ほぼ)之を実行したが、なほ力の及ばぬ所が多かつた。」として、

  • 音韻については文字総数の関係上、『広韻』よりは『集韻』を主とし、『説文解字』については多く『段注本』および『通訓定声』によった。
  • 主力を注いだ語彙の蒐集については、宋元以来の詞曲・小説、仏教語、日本の漢詩文集などからの語彙が数に於いても説明に於いても不十分であった。
  • 語句の解釈は、なお意に満たない点が少なくない。『新撰字鏡』など古辞書の中から採るべき和訓も多かった。

 ……等々、数項を列挙した上で最後に次のように結んでいる。

個々の項目については、更に誤謬もあり誤植もあらう。固より制約ある人間の事業に十全は期しがたいと自ら恕する点も無いではないが、従来本書の編纂に好意と鞭撻とを寄せられた江湖の諸彦並に読者に対しては相済まぬとの念さへ起こつて来る。此は完刊を見た今日の我が偽らざる心境である。……残生の凡ては此の書の補訂に捧げよう。

 第一巻刊行以降、轍次のもとに寄せられた読者からの誤植の指摘や記述内容に関する問い合わせが念頭にあったのであろう、「読者に対しては相済まぬ」とは著者としての偽らざる気持ちであったに違いない。『大漢和辞典』の修訂増補は、轍次の素願でもあった。

■戦後の国語改革と大漢和辞典

 戦後の国語改革は漢字制限・漢字整理(実際には昭和17年6月に答申された「標準漢字表」の再審議)から始まった。終戦の日から約四ヶ月後の轍次の日記に次のような記述がある。

(昭和20年12月24日)国語審議会あり。米軍より国民学校に於ける漢字数を一千五百以内にせよとの指令出でたれば、其の選択を為さんが為也。

 米軍よりの指令とは、GHQ(連合国軍総司令部)からの指令を指すが、日記の記述から遡ること一ヶ月前、11月27日に開かれた第八回国語審議会総会での議題は「標準漢字表再検討に関する件」であり、轍次はその検討委員の一人であった。白内障に苦しんでいたころである。席上、挨拶に立った大村清一文部次官は、「漢字が複雑かつ無統制に使用されているために、文化の進展に大なる妨げとなっている。」と述べて文字改革の必要性を強調し、審議会会長だった南弘枢密顧問官(1869-1946)も、もともと学習困難という観点から漢字の簡素化には積極的だったこともあって「標準漢字表」の再審議には意欲的であった。元東京高等師範学校教授で審議会幹事長だった保科孝一(1872-1955)も、「連合軍司令部から文部当局に対し教科書の漢字数を1,500字ぐらいにせよとの申入れがあった由だが、その申入れにしぶしぶ応ずるのではなく、独自の立場から1,200字ぐらいにしたい。」と言ったという(野村敏夫『国語政策の戦後史』2006)。これらの発言は、戦後の国語改革はGHQの命令によるものではなく、あくまでも日本側が自主的に行ったものであると強調しているようにも聞こえる。事実、GHQに勧告されるまでもなく、漢字廃止論・ローマ字論・かな文字論などのいわゆる国字改良論は、[余滴3 漢字制限・廃止論の中で]でも触れたように、幕末の前島密による徳川慶喜への建白以来、日本にとっては長年の懸案であった。

「標準漢字表」(昭和17年6月に国語審議会が文部大臣に答申したもの)

 「標準漢字表」には、全体を常用漢字(日常生活に関係が深く使用度の高い1,134字)、準常用漢字(常用漢字より使用度が低い1,320字)、特別漢字(帝国憲法・歴代天皇の追号などの文字で前記以外の74字)の三種に分けた計2,528字が含まれる。検討委員会はほぼ毎週開かれ、昭和21年4月には常用漢字1,295字の一応の決定をみたものの、それに伴う音訓の整理・仮名遣いの規定などもあって、「当用漢字表」1,850字として答申されるまでにはさらに半年を要した。「当用漢字音訓表」、「当用漢字別表(教育漢字881字)」が発表されたのはさらに二年後の1948(昭和23)年である。
 のちに轍次は、当時、百家争鳴の感があった国語改革に対し、議論は好まないとした上で漢字制限・漢字整理には柔軟な考えであることを大略次のように述べている(『漢字漢語談義』所収 1961)。

  1. 漢字は廃すべきものではない。また廃されるものでもない。
  2. 小学・中学で教える漢字の数は大体二千字程度、即ち当用漢字・人名漢字程度でよい。
  3. 漢字の画数の多いものは、別にその略体を許容文字として教える。
  4. 漢語をあらわす場合、複雑な文字の代わりに画の少ない(同音の)他の文字で代用することは注意を要する。「註文」を「注文」に、「編輯」を「編集」にする程度ならよいが、「罪悪を追究する」のと「罪悪を追及する」のでは全く別義になる。

 漢和辞典に限らず、常に一定の規範性を求められるものが「辞典」だとすれば、戦後『大漢和辞典』の編纂が再開されるにあたり、新しい国語政策を踏まえたものにすべきだという意見が出たのは当然のことである。しかし、『大漢和辞典』全体の骨組みは戦前にすでに出来上がっており、戦後の編纂作業は、その戦火を免れた校正刷りを新たな原稿として再開された。戦後の再スタートは、あくまでも戦前刊行された巻一の延長線上にあったのである。結果として、「出版人の根性を示す偉大な出版物」(鈴木敏夫『出版』)は、「漢字がすくなくとも量的には後退してゆくであろう明日を前にし、まだ漢字に対するゆたかな貯蓄のあるうちに、その総決算をしておくことは、ぜひ必要である。」(小西甚一)と今日的意義が評価される一方で、今日の研究成果が取り入れられていない「まさに明治大正いらいの旧漢学の集大成」(藤堂明保)とする声が聞かれたのも事実であった。

■大漢和を補完するもの

 全巻完結と同時に、轍次と一平との間で引き続き『大漢和辞典』を補完する漢和辞典を系統的に揃えることで各方面からの要望に応えていくという合意がなされた。具体的には、浩瀚な『大漢和辞典』を一般向けに内容を精選した中漢和辞典と、その時々の国語政策を反映させて中学・高校生の学習や広く社会人の言語生活に役立つ小漢和辞典を発行することである。
 『大漢和辞典』が完結した1960(昭和35)年5月、先ず小型の学習用漢和辞典の編纂が諸橋轍次・渡辺末吾・鎌田正・米山寅太郎を中心として開始された。
 1963(昭和38)年2月、小型の学習用漢和は『新漢和辞典』という書名で刊行された。判型は他社のものより一回り大きいB6変型判(天地172ミリ×左右120ミリ)で、その大きさから「弁当箱」の愛称で親しまれた。親字数八千、熟語数五万。総ページは1,120ページ。今では当たり前のことになっているが、当時の漢和辞典の多くが「音訓索引」を巻末に付していたのを、『新漢和辞典』では巻首に置いたのも特長の一つだった。定価は780円だったが、これは他社の学習漢和辞典に比べて200円ほど高かった。それでも『新漢和辞典』は、「大漢和から生まれた学習漢和」「大漢和辞典のスクール版」というキャッチフレーズが功を奏し、予想に反して多くの学校で推薦・採用された。「諸橋轍次」の名前と「大漢和辞典」という書名は、今や誰もが知るところとなっていた。『新漢和辞典』は、その後幾度となく新組改訂を繰り返し、現行の『新漢語林』へと引き継がれている。

『新漢和辞典』(昭和38年刊)

 

 引き続き中漢和辞典の編纂作業が開始されたが、それが『広漢和辞典』全四巻(諸橋・鎌田・米山共著、親字数約二万・熟語数約十二万)として結実したのは、実に二十年後の1982(昭和57)年のことである。

■「縮写版」の刊行

 大修館書店にとって1955(昭和30)年という年は、秋の第一巻刊行に向けての正念場の年であったが、同時に社の経営が苦境に立たされる幕開けの年ともなった。ポスト大漢和のもとに教科を広げた中学・高校の検定教科書の採択部数は大幅に予想を下回り、単行本の新企画も結果は芳しくなく、1960(昭和35)年に全13巻が完結したときには厳しい資金繰りが経営を圧迫していた。
 そのような状況のなかで、新たな『大漢和辞典』の刊行計画が立てられた。一時的なこととはいえ、完結記念の予約募集の結果がよかったことと、『新漢和辞典』が予想外の売れ行きをみせたことも後押しとなったが、新たな刊行計画では、判型をそれまでのB5判からA5判に縮小することで定価を抑え、より幅広く読者に提供しようというものであった。「縮写版」刊行の成否は、経営再建の鍵ともなった。
 当時、大修館書店の経営の中心にいたのは、のちに二代目社長となる井上堅(1905-1976)だった。昭和30年4月、税務・金融に明るい人材の必要性を感じた一平は、大蔵省出身の相談役水田直昌の紹介で会計検査院出身の井上堅を取締役として迎え入れたのだった。社礎固めのためとはいえ、すでに三人の息子を会社に入れている一平にとっては大きな決断であった。
 『大漢和辞典』が完結すると、一平は「自分のやるべき仕事は終わった」という気持ちと、あとは息子たちに任すという考えもあって週の半分は神奈川県葉山の自宅で過ごすことが多かった。その葉山に、「縮写版」を出すことに決め手を欠いていた井上は一平を訪ねて助言を求めた。「こういう形で出すことにより買いやすい値段にできるが、大漢和辞典をこのような形にしても売れるだろうか」と言う井上に対して、一平は「本は内容ですよ。大漢和辞典を欲しい人はたくさんいるはずです」と言った。この言葉は、やがて証明されることになる。
 「縮写版」を出すに当たって、せめて誤字・誤植は訂正したいと思った轍次は、鎌田正・米山寅太郎の両名にその訂正作業を依嘱、鎌田・米山は、主に親字(見出し字)の字義を全般にわたって見直した。その作業は四年間続いた。
 1965(昭和40)年11月3日、轍次に文化勲章が授与されたことで、期せずして「縮写版」は文化勲章受章記念出版となり、翌1966(昭和41)年5月から隔月に配本、1968(昭和43)年5月をもって全13巻の刊行が完了した。
 各巻4,800円、セット価62,400円(特価55,900円)の「縮写版」は、文化勲章受章が大きな話題となったこともあるが、マスプロ・マスセールによって生じた当時の百科事典ブーム・全集ブームの波に乗ったことも大きかったようである。加えて、一時は全国に大小百社を越すと言われた割賦販売専門会社による月販(月賦販売)ルートによって、それまでの購買層だった公立図書館や大学研究室、その他一部の研究者だけでなく、一般読書家や学生にとっても入手し易くなったことも大きかった。「縮写版」は、経営再建の直接的原動力となった。
 1968(昭和43)年、大修館書店は創業五十周年を迎えた。それを機に、一平は引退を決意する。その三年後の1971(昭和46)年8月29日、一平は83年の生涯を閉じた。社葬では、轍次が《友人代表》として弔辞を述べた。

『大漢和辞典 縮写版』全13巻(昭和41~43年刊)

 
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