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梨花 一枝 春 雨を帯ぶ             ――――白居易「長恨歌」

 花や木の名前をよく知っている人は羨ましい。目に留まる草花の名を次々挙げられると、なんだか地球上のすべての植物を知り尽くしているみたいで、尊敬してしまう。
 東北大学で中国文学を講じておられた志村良治先生は、わたしの知る限り、業界ナンバーワンだった。中国哲学の中嶋隆蔵さんと三人で、仙台の南、船岡城址にお花見に出かけたことがあった。雑草が繁茂しているとしか見えない所に、志村先生は三つ四つと珍しい植物を「発見」されていくのには驚嘆するばかりだった。なにしろ京都の某大先生は、学生を前にツツジを指して、「これが中国で有名な牡丹の花だ、よく覚えておくように」と教えられたという、真偽定かならぬ逸話があるくらいだったから、志村先生の蘊蓄は人智を超えているかに思われた。
 一般に中国の人は物の名に関心が薄いかに思われる。見る花はどれも花huā、食べる魚は何でも魚yúであって、それより先に進まない。もちろん例外はある。台湾大学日文系の主任、朱秋而さんのすごいのは、中国語と日本語の双方で植物名を知っていることだ。朱さんと歩いていると、次から次へ、日本語でも知らないのに中国語の名前まで教えられる。すぐ忘れてしまうけれど。
 孔子は詩(『詩経』)を学ぶ効用を説いて、「多く鳥獣草木の名を識る」ことを挙げている(『論語』陽貨篇)。そういえば中学の時に読んだ荻原井泉水の俳句の入門書にも、まず野山を歩いて植物の名を覚えよとあった。詩を読むうえでは、物名よりもその言葉が帯びている意味のふくらみのほうが大事だとは思うけれど、そのためにも名前はやはり知っておく必要はある。
 ところで志村先生がただの草むらのなかに、名のある植物を見つけられたことは、知識と認知の関係についてはなはだ示唆に富む。知っているからこそ見分けられるのだ。もう四十年以上も前、仙台に赴任したばかりのころ、タラノメを探して青葉山を歩き回ったことがある。一つも見つからないまま日が暮れてきた時、長谷川関[ぜき]と呼ばれていた巨漢の学生にたまたま出会った(当時の大相撲に長谷川というしこ名の関取がいた)。一日の徒労を話すと、長谷川君は即座に「これがタラノメですよ」と教えてくれた。するとなんとタラノメはいくらでもまわりにあるのだ。物の名だけをたよりに追い求めても、目に入らない。ひとたび実物を知ったら、様相は一変する。このことは植物の場合に限らない。ただ向き合っているだけでは茫漠として何も見えない世界、それが書物や経験によって「知」を得ていれば、世界は新しい面持ちに変貌して立ち現れてくるのではないだろうか。
 志村先生から教えられた一つに、白い花は春でもやや遅れて咲くということがある。自分の知見を付け加えると、白い花は芳香が強い。柑橘類の白い花は目立たないけれど、香りでそれと知られる。クチナシの香りも好きだ。リンゴの白い花は伊藤整の初恋の詩にその甘酸っぱい香りがうたわれていた。ナシの花も春にやや遅れて咲く花の一つで、香りは知らないが果樹園の白い花を車窓から見たことはある。

 梨花一枝春帯雨  梨花一枝 春 雨を帯ぶ 

 白居易「長恨歌」のなかでも、この一句はとりわけよく知られている。楊貴妃の美しさをうたったものだが、そう言って済ませてしまうのはもったいない。まず、なぜ梨の花なのか。女性の美を花にたとえることは『詩経』の昔からある。しかし梨の花にたとえる例はあっただろうか。そもそも「美しい花ランキング」というものがあったとすれば、梨の花はノミネートされたかどうかも怪しい。「長恨歌」より前には、梨花は注目されなかったのではないかと思う。
 「ないかと思う」などと推測で記すのは、論文だったら体を成さない。調べようとしたら手段はいくらでもある。『広群芳譜[こうぐんぽうふ]』という清代に作られた重宝な本もあって、個々の植物が出てくる語句が網羅されている。さらに今ではパソコンを使えば梨花の用例はいくらでも画面にあがってくる。しかし電子索引の問題は、有能すぎて何でもかんでもあらゆる用例が「平等」に出てきてしまうことだ。語はもともと平等ではない。文脈のなかに置かれて帯びる意味や軽重の違いがある。読む人々にとっても重く受け止められる語とそうでない語の違いがある。その違いが索引ではわからない。ちょうどふつうの地図では高低差がわからず、ぜんぶがのっぺらぼうになってしまうのと似ている。便利になったからこそ、初めに帰って作品そのものを精緻に読むことがいっそう求められる。
 梨の花は必ずしも美しい花には数えられないだろうと「推測」を記したが、加えてそれは白い花である。白という色は中国では好まれない。紅(あか)はめでたい色とされるが、白は死に結びつく、むしろ不吉な色だ。なぜそんな「梨花」を選んで楊貴妃の姿を比喩するのか。実はこの一句は楊貴妃の死後の場面に出てくるのである。
 百二十句にわたる「長恨歌」ははなはだ巧妙に構成されていて、玄宗が蜀に落ち延びるのを境として前半と後半が鮮やかな対称を成している。内容、情感、表現手法さまざまな面で対比的なのだが、最も鮮明な対比は楊貴妃像であって、前半、歓楽の最中にある彼女はみずから物を言うこともなく、人形さながら、ただ美しいだけで人間味がない。一方、後半、死後の楊貴妃は自分自身の思いを率直に語り、生き生きと動き始める。そして「梨花」の句はこの世を去って仙界に住む楊貴妃の姿なのだ。
 玄宗の命を受けて楊貴妃を捜求する道士は、やっと東海の仙山に楊貴妃を見つける。道士の思いがけない来訪を知った楊貴妃は、心の動揺もあらわに道士の前に姿をあらわす。

 玉容寂寞涙欄干  玉容寂寞として涙瀾干[らんかん]たり
 梨花一枝春帯雨  梨花一枝 春 雨を帯ぶ

 

 玉のかんばせは孤独の寂しさに沈み、涙がしとどに流れる。その姿を「梨花」の句は一句まるごと隠喩を用いてあらわす。ヴェールに包まれたように、春のやわらかな雨にけぶる梨花の一枝、それは涙にくれる楊貴妃であるが、冷たい雨にうたれているのではなく、春の雨であることによって、どこか温かみと明るさを帯びている。たとえ生死を分かち、現世と仙界とに離れたにせよ、道士を通して玄宗との繋がりを得た心の弾みであろうか。ソフトフォーカスで描かれた楊貴妃は、艶麗ではありながらも翳[かげ]りを伴い、前半の楊貴妃に比べて深みを帯びた美しさを含んでいる。仙界の楊貴妃をたとえたこの句は、白居易の詩人としての力量をみごとにあらわしている。

 これも中学生の時に読んだきりなので不確かなのだが、パールバックの小説『大地』に、梨花という名の女性が出てきたと思う。作者は大部の小説に登場する多くの女性たちのなかでも、梨花を最も美しく魅力的な女性として描いていたような気がするが、あるいは少年Kが勝手にそう思い込んだのかも知れない。いずれにせよ、梨花という名前は、「長恨歌」に由来するのだろう。

 清少納言の『枕草子』には、梨の花について記した一段がある。(三四段)

梨の花、よにすさまじきものにて、ちかうもてなさず(世間では全くとりえのない花のように扱って、身近に取り扱わず。『新日本古典文学大系』渡辺実校注)……楊貴妃の、帝の御使[つかひ]にあひて、なきける貌[かほ]ににせて、「梨花一枝春雨をおびたり」などといひたるは、朧気[おぼろけ]ならじと思ふに、猶いみじうめでたきことは、たぐひあらじと覚へたり。

 清少納言は世の人々と同じく梨の花に目を留めることもなかったが、「長恨歌」の句を知るに及んでそれも並びない花と思えてきた、と言う。この記述は物に対する我々の感じ方が詩歌を知ることによって変わること、感性は文学によって作られることを語るものでもある。周囲の事物をどのように受け止めるか、それは個人の知覚よりも、人間の文化のなかで伝えられてきたものだ。文化の流れのなかで、時に突出した詩人は新たな受け止め方を提示する。それによってわたしたちの感じ方も新たな捉え方を教えられ、感性は幅を拡げる。そしてそれがまた文化の伝統のなかに組み込まれ、伝えられてゆく。詩は「多く鳥獣草木の名を識る」に限らず、鳥獣草木に対する感じ方も豊かにしてくれるのである。

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