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ミサゴとオスプレイ――『詩経』「関雎」

 連載の最初は、「最初づくし」で始めよう。中国の最初の詩集である『詩経』、『詩経』の最初の詩である「関雎[かんしょ]」、「関雎」の最初の二句、そこから出発。

関関雎鳩 関関[かんかん]たる雎鳩[しょきゅう]
在河之洲 河[かわ]の洲[す]に在[あ]り
カンカンと鳴くミサゴ
河の中洲にいる

 この二句だけ取り上げても、そこに中国古典詩の全体に関わる特徴があれこれ見える。
 「雎鳩」というのは見慣れないが、ミサゴという鳥だという。ならば「関関」はミサゴの鳴き声を漢字で表記した、いわゆる擬音語でしょうね。
 いかにも最古の詩らしい素朴な歌声、であるかに見えるが、実はここにも修辞がこめられている。この二句に続くのは次の二句、あわせて四句で一つの章になる。

杳窕淑女 杳窕[ようちょう]たる淑女[しゅくじょ]は
君子好逑 君子[くんし]の好逑[こうきゅう]
しとやかなお嬢さんは
殿方のよき連れ合い

 鳥をうたった二句から、人間の男女にいきなりジャンプ。初めの二句と次の二句の間には、一見すると何の繋がりもなさそうだが、これが『詩経』に独特の「興[きょう]」という技法であると言われる。「興」は「興[お]こす」の意味、初めに自然界のことを述べ、それによって人間世界のことを「うたいおこす」、それが「興」と呼ばれる。
 『詩経』には「賦」「比」「興」三つの表現方法があると、漢代から説明されている。「賦」はうたう対象をそのまま述べる、「比」はうたう対象を比喩によって述べる、そして「興」は初めに別の事柄を言って、それによって本当に言いたいことをうたい興こす。本当に言いたいことは、ミサゴのつがいではなくて、人間の男女のお似合いのカップルの方。
 「興」が言いたいことをうたい興こすためには、まったくかけ離れた二つの事がどこかで繋がっていなければならない。この詩の場合、河の中洲で仲良く鳴き交わしているミサゴの鳥、その雌雄むつまじいようすが、「淑女」と「君子」の好ましい関係と繋がっている。繋がるというよりは、鳥のカップルと人のカップルとをだぶらせるといった方がいい。和やかに鳴き交わす鳥とむつまやかな男女とが重なり合う。
 「興」という手法は、単に詩の技法というよりも、古代の人々の自然観から生まれたものでしょうね。人々は自然のありさまを見て、自然のなかに人間世界のことを感じ取った。そこには自然と人間とが融け合った、心地のよい安定感が満ちている。話が飛躍するけれど、杜甫の「国破れて山河在り」(「春望」)は、これとは逆に「山河」という自然は常に変わらず存在し続けているのに、「国」という人間世界は破壊されているという、自然と人との乖離を嘆いている。杜甫は人の世も自然と同じように秩序をもつべきだと訴え続けた詩人。人と自然の調和を讃えることは『詩経』から始まっていたのだった。

 ところで仲むつまじい男女と重ね合わせるために用いられた雎鳩(ミサゴ)とは、いったいどんな鳥なのか。昔この詩を最初に読んだ時、チドリのようなかわいらしい小鳥かと勝手に思い描いた。ところがなんとそれは水辺に住む猛禽類だったのだ。例のアメリカの軍用機として悪評高いオスプレイが、この鳥の英語名なのだという。攻撃的な猛禽はいかにも戦闘機の名前にふさわしい。調和をうたう「関雎」の詩とはずいぶんイメージが違ってしまう。

 猛禽を仲のよいつがいに結びつける違和感については、つとに梁・劉勰[りゅうきょう]の『文心雕龍』が説明してくれていた。――比喩というものは多くの要素のなかから共通する一部の要素だけを取り出して二つの物を結びつけるもので、ほかの要素は捨てられる、「雎鳩」は猛禽であるがそれは措き、ここでは貞節な鳥であるという面だけが選び取られているのだ、と劉勰は述べている(「比興篇」)。ならば逆に軍用機オスプレイは、猛禽の方だけ取り出してその名を使ったことになる。
 わたしが「仲むつまじい」と書いてきたことを、劉勰は「貞」という言葉であらわしている。するとそこにもすでに儒家的な捉え方が入っている。ミサゴのつがいは相手を変えない――実際にミサゴが一生添い遂げるものかどうかはともかく、少なくともそのような鳥であると考えられていたようだ。紀元前六世紀ころに編まれた『詩経』、その当初においてはミサゴが「貞節の德」を身につけていたと捉えたわけではないだろう。単に水辺でのどかに和んでいるつがいの鳥と受け止めていたはずだ。それが儒家の解釈を加えられると、貞節という德に変貌する。儒家思想は夫婦の安定した関係をすべての秩序の根幹として重視する。本来は素朴な歌がこのように儒家的な意味付けを施されていく、それが中国の詩の特徴の一つ。
 そしてまた、「雎鳩」という猛禽の、猛禽である部分は語らず、つがいが和合している面だけを捉える、ここにも中国の文学、さらには文化の特質があらわれている。武よりも文を価値とする伝統中国、その最初の詩篇からすでにこのように鳥の和睦、男女の和合、そして世界の調和を心地よいものとしてうたっていたのだった。

 「関雎」の詩はこのあと、そんな女性を手に入れたいと夜も日も思い続け、やがて結ばれる喜びをうたう。恋の成就をうたうめでたい歌なのだから、これは婚礼の祝い歌だったのかも知れない。めでたし、めでたし。

 

(c) Kozo Kawai,2019

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