写真でたどる『大漢和辞典』編纂史
第一部 『大漢和辞典 巻一』刊行と原版焼失まで ――1926(大正15)年~1945(昭和20)年 その3
■中国留学後の諸橋轍次
少し煩瑣になるが、二度目の中国留学から帰国した大正10年~昭和5年までの主な事蹟を、『諸橋轍次先生古稀祝賀記念誌』(1954)所載の年譜から挙げておく(一部、表記を改めた)。それまで東京高等師範学校教諭として附属中学校で教鞭を執るだけだった轍次にとって、二度の中国留学はその後につながる大きな転機となった。鈴木一平から漢和辞典の依頼があった頃の多忙を極めていた状況がわかると思う。家庭においても、妻キン子との間に三男二女を授かっていた。
1921(大正10)年(三十九歳)
8月11日 帰朝。○同月 岩崎男爵より静嘉堂文庫長を委嘱される。
9月27日 東京高等師範学校教授となる。
11月28日 國學院大学講師となる。
1922(大正11)年(四十歳)
2月5日 帝国学士院より帝室制度の歴史的研究の調査委員を委嘱される。
4月30日 第一臨時教員養成所漢文科講師を委嘱される。
1926(大正15)年(四十四歳)
3月24日 教員検定委員臨時委員(内閣)
4月10日 東京高等師範学校漢文科学科主任となる。
4月 大東文化学院教授・駒澤大学講師となる。
1927(昭和2)年(四十五歳)
7月10日 昭和二年度師範学校・中学校・高等女学校
教員講習会講師を委嘱される。(文部省)
9月12日 教員検定委員会臨時委員(内閣)
1928(昭和3)年(四十六歳)
2月23日 中国へ出張を命ぜられる。(文部省)
6月16日 大修館書店主鈴木一平との間に大漢和辞典編纂の約定成る。
9月15日 教員検定委員会臨時委員(内閣)
12月21日 昭和3年度文部省視学委員を命ぜられる。
1929(昭和4)年(四十七歳)
1月11日 『儒学の目的と宋儒[慶暦至慶元百六十年間]の活動』により
東京帝国大学より文学博士の学位を授けられる。
4月1日 東京文理科大学助教授兼東京高等師範学校教授となる。
1930(昭和5)年(四十八歳)
4月12日 東京文理科大学教授となる。
■静嘉堂文庫と諸橋轍次
大正10年8月、二年におよぶ二度目の中国留学から戻った轍次は、その帰朝の挨拶に三菱財閥の第四代社長、岩崎小彌太(1879-1945)のもとを訪ねる。最初の留学のときには嘉納治五郎(当時、東京高等師範学校校長)から資金援助を受けたが、二度目の留学のときにも渋沢栄一(1840-1931)はじめ各方面から援助を受けており、小彌太もその一人であった。轍次にとって小彌太はまったく未知の人であった。友人の土田誠一(後、成蹊大学学長)の紹介で三土忠造(1871-1948)を介してのものであったからである。三土は東京高等師範学校出身の政治家で、高橋是清(1854-1936)のもとで財政を担当、後に大蔵大臣や文部大臣を歴任している。小彌太は轍次に対し、自分の経営する静嘉堂文庫の世話をしてほしいと頼む。
「私は何も知らずに、岩崎男のところへ帰朝の挨拶にゆきましたが、その後一ヵ月ばかりしますと、同男からちょっと宅へ来てくれと言うのです。行ってみますと実は静嘉堂は重野安繹博士がやっておったが、重野さんも亡くなられて人がない。今後は少し近代的の図書館にしたいと思うから、引き受けてくれないか。学校の方はやめてきてくれてもよいがと言うのでした。折角の好意であり、又留学させてもらった恩義もありますが、高等師範の方も続けたい気持ちもしていましたし、それにもう一つ、静嘉堂の仕事は朝から晩までしなくちゃならぬというようなものでもないと思われましたから、学校を本職、静嘉堂を兼職ということで、お引き受けしたのです。」(「回顧 学問の思い出」『東方学』第二十七輯、昭和39年2月)
静嘉堂文庫は、三菱財閥の創始者岩崎彌太郎(1835-1885)の十七歳年下の実弟、岩崎彌之助(1851-1908)によって設立され、彌之助の没後は嗣子小彌太が文庫の拡充発展に努めた。曜変天目茶碗(中国/南宋時代)・源氏物語関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)をはじめとする国宝七点、重要文化財八十三点を含む約二十万冊の古典籍(漢籍十二万冊、和書八万冊)と約六千五百点に及ぶ東洋古美術品を蔵する屈指の図書館及び美術館である。
彌之助は、十九歳のときに兄の彌太郎に呼び寄せられ、大阪にあった重野安繹(しげの やすつぐ1827-1910)の私塾、成達書院で漢学を学んだ後、明治5年、二十二歳でアメリカに一年半留学する。彌太郎は留学中の彌之助に対し、「…折々野行散歩運動シ、一身之健康ヲ第一、其次学問進歩ニ注意致候様肝要ニテ、…花柳街頭無頼之挙動ハ於貴様決テ無之筈ト、於此方モ相信ジ居候ヘバ、…」などと度々弟を気遣う書翰を送っており、その期待の程がうかがわれる(明治5年11月発信『岩崎彌太郎日記』所収)。明治18年、兄彌太郎の死去に伴い、彌之助は三十五歳で第二代三菱社長に就任する。
彌之助にとって旧師にあたる重野安繹は、明治36年発行の『漢和大字典』(三省堂編輯所編纂)に服部宇之吉等とともに監修者として名前を連ねているが、もともとは東京帝国大学教授時代に国史科開設に力を尽くした歴史学者であった。重野は自邸に学者を招いて修史編纂事業を行っていたが、その経済的窮状を聞いた彌之助は、恩師のために事業一切を引き受け、現在の東京都千代田区神田駿河台にあった自邸の側に文庫を構えたのが静嘉堂文庫の始まりとされる。このことは、恩師への援助という一方、当時の欧化政策のもとで固有の古典・文化財の散逸を防ぐという彌之助のかねてからの願いでもあった。重野が行った和漢の典籍蒐集の中でも、明治40年に清国・陸心源の遺書約四万五千冊を一括購入したことは特筆に値する出来事であった。陸心源(1838-1894)は、清国四大蔵書家として知られ、特に宋・元時代の稀覯本を多く集めていた。陸心源の遺書を購入した翌年に彌之助が没し、その遺志は嗣子の小彌太に受け継がれた。小彌太は大正5年に三菱第四代社長に就任する。
轍次が文庫長を引き受けた大正10年、静嘉堂文庫は岩崎家高輪別邸内の開東閣に移っていた。非公開だがJR品川駅近くに今もその建物は残っている。そして二年後の大正12年に関東大震災が起きた。9月1日、雑司ヶ谷の自宅に居た轍次は、文庫が心配になって高輪まで出かける。すでに電車は動いておらず、線路を約10キロほど歩いた。文庫の焼失は免れたものの書架はめちゃくちゃに倒れており、整理しかけていた本が散乱していた。その惨状にがっくりと肩を落とした轍次は、さらに10キロの道のりを自宅まで歩いて帰った。
文庫が、現在の世田谷区岡本に移ったのは大震災の翌年大正13年である。小彌太は明治43年に世田谷岡本の地に父彌之助の納骨堂を造るが、その十七回忌にあたる大正13年、納骨堂の近くに現在の文庫を建てて開東閣にあった蔵書を移した。多摩川沿いの高台にある文庫は、当時、交通の利便性という面からみて決して良い場所にあるとは言えなかった。轍次は後に次のように回想している。
「あんな遠いところに移っては、利用者も困るだろうと言いましたが、交通はすぐ便利にもなるものだ。それに町のまんなかにあると、いつどんなことが出来るかもわからんからと言われました。なるほど今度の大戦争が起こってみると、さすがに高い見識であったと敬服したわけであります。」(「回顧 学問の思い出」『東方学』第二十七輯、昭和39年2月)
轍次は、まだ学生だった川瀬一馬(1906-1999)、長沢規矩也(1902-1980)等の協力を得て蔵書の整理・目録の作成などを行った。川瀬・長沢ともに後に書誌学者として大成する。
いずれにしても、静嘉堂文庫長としてその蔵書を活用できる立場になったことは、学位論文作成さらには後の大漢和辞典編纂に際して裨益すること大であった。
■学位取得
学位論文のテーマは、中国・宋代(960-1279)の儒学者(宋儒)たちの学問姿勢を通して儒学の目的を探ろうとしたものであった。
「…いつの時代でも中国には夷狄という外敵はあるが、宋に対する遼・金の地位はそれと違う。ほとんど宋と対等の力をもつ一国として宋に対抗して来たのであるから、その外敵の来襲は国際的な大きなものであって、それだけにまたその圧迫は大きく、ぐずぐずしてはおられない。当年の宋学者は実際問題として学問の力、方法によってこの国難を救うことを考えなければならぬ。つまり宋学はいや応なしに儒学の目的に直面して、世を救う方法を考え、その方向に邁進しなければならぬ地位におかれたのである。そこで私は、どうせ儒学をやるならこの時代の学者の態度を調べたら、自分としては一番興味があり、また自分の修養にも役立ちはせぬかと考えたのである。」(「宋学史研究の思い出」『諸橋轍次著作集 第一巻』月報 1945)
中国留学から帰って論文を書き上げてからというもの、轍次の頭の中は学位のことでいっぱいだったようである。『止軒日暦』をみるとその落ち着かない様子が伝わってくる。
「(昭和三年)二月十九日 朝服部先生宅に、奥様の御見舞旁々学士院の原稿持参にてゆく。辞去の際先生が、君の論文の報告は三月中には草し、且提出すべし云々の御話あり。」
「服部先生」とは、当時、東京帝国大学漢文科の主席教授だった服部宇之吉(1867-1939)(1917年に帝国学士院会員)のこと。轍次は、従兄弟の東京帝国大学教授・政治家でもあった建部遯吾(たけべ とんご)(1871-1945)のすすめで、最初の著作となる『詩経研究』の序文を当時学界を支配していた服部に願い出て、その時はじめて服部に会った。その時の印象を轍次は後に次のように書いている。
「随軒(服部宇之吉の号)は哲学の出身者であり、新進の学者であったが、形だけから見ると、割合に新しい型の人であった。金の指輪などをはめておった姿は、田舎出の私には、実のところ、余りよい印象を与えなかった。とにかく今の序文を願い出ると、一応原稿を見たいから、と言うので、校正刷りを持参した。恐らくは一瞥の後、返されるものと考えていた。然るに、数日の後、序文と共に前の校正刷りを返されたものを見ると、最初の一頁から終わりの頁に至るまで、くまなく精読せられたものとみえて、事こまかに箇条箇条の批評があり、かつ又、文字の誤植をさえ訂正しておったのである。ここに私は又、先輩の後輩に対するまことに注意深い用意のある点に、深く教えられたのである。」(回顧 漢学界の回顧」漢文教室 昭和28~30)
轍次が服部宇之吉のところへ持参した「学士院の原稿」とは、年譜の大正11年の項にある帝国学士院より委嘱された帝室制度の歴史的研究調査のことであろうか。
「(昭和三年)三月十八日 朝服部先生を訪ひ御暇す。予の論文のことは一切宇野教授に依頼せりといふ。而して最後決定は四月末なるべしといふ。少しく不安の気持あり。されど予も已に不惑の齢を超えたり。古人己の学を為さんとせば些事に遑々たる可らざるなり。」
「宇野教授」とは宇野哲人(1875-1974)のことで、東京高等師範学校教授であったが、すぐに東京帝国大学に赴任したために、轍次は一年間だけ教えを受けている。後に東京大学でやはり中国古典学を講ずることになる哲人の嗣子精一(1910-2008)は、昭和の初年頃の記憶として次のように書いている。「丁度高等学校の受験勉強をしてゐた頃だったと思ふが、父の書斎に立派な和綴の数冊あるいは十冊にも上ったかと思ふ大部の論文が置いてあり、それが諸橋先生の学位論文であった。その頃、東大の卒業論文は毎年のことながら、学位論文も何度か見かけることがあったが、漢学関係では先生の論文しか記憶がない。後に大修館から出た『儒学の目的と宋儒の活動』が即ちそれであることは申すまでもない。」(縮写版月報1 昭和41年)
この学位論文は、写真にあるように全九冊から成るもので、現在は諸橋轍次記念館に収められている。また、その論文『儒学の目的と宋儒[慶暦至慶元百六十年間]の活動』は昭和4年10月に大修館書店から出版された。
「(昭和三年)六月一日 夜根本の返事をもたらして、小柳先生を訪ふ。いつ見ても気持よき先生なり。予の論文の話なども出づ。」
「小柳先生」とは小柳司気太のことである。同郷の先輩ということもあって、轍次は小柳のもとを度々訪れている。二度目の中国留学の折には中国で小柳と再会、「共に路中の無事なることを祝す。」「小柳先生と本屋をあさる。」といった記述が日記にみられる。
「(昭和三年)六月三日 夜服部先生を訪れ学士院の仕事の相談をす。その時先生より予の論文につき、補欠委員として塩谷博士を委嘱せられたる旨を話さる。」
「塩谷博士」とは、やはり東京帝国大学教授だった塩谷 温(1878-1962)のこと。
轍次が、日記に「夜分に書肆鈴木某来る。…十万両くらいの予算は何でもなしといふ。…」と記したのは同じ月の16日である。また、9月14日の日記に「夜鈴木一平氏来宅。愈、辞典編纂の契約をとりかわす。……」とあるのは前回引用した通りである。
年譜では、契約書の日付にあわせて「六月十六日」としている。
論文提出から九ヶ月、服部宇之吉から論文審査が通過した旨の手紙が届く。
「(昭和三年)十二月二十一日 九時東京着。タクシーにて家門も過ぎず、学校に至る。検定試験の口述試問あるが為なり。宅より留守中の手紙一包を持参し来る。先ず第一に服部先生の御手紙を開く。十九日の帝国大学文学部の教授会にて、予の論文の審査愈々可決との御通知なり。十年の苦心報いられて嬉し。三時試験終了にて帰宅。きん子に話し、共に御両親様の御写真に報告す。御生存ならばさぞ御喜び下さるべし。服部先生に御礼にゆく。御不在なり。夜、隆典及び勗に話して聞かす。」
「隆典」は長男(明治45年1月9日生まれ)、「勗」は次男(大正3年8月24日生まれ)である。
翌4年1月13日に新聞で論文通過を知った一平は、轍次宅を訪れている。
「一月十三日 論文通過のよし、都新聞・時事新聞に出でたりとて、寺田范三・諸井貫一・鈴木一平の諸君祝賀に来る。」
■鈴木一平、店舗を新築する
1928(昭和3)年3月、一平は四十歳のときに当時の東京市神田区錦町三丁目十番地に事務所及び自宅を新築し移転する。プロローグ1に載せてある写真がそれである。その年の9月に轍次が新店舗に立ち寄ったことが『止軒日暦』に記されている。
「(昭和3年)九月三日 午後一時前より筆を買ひに神田にゆき、其の道すがら大修館書店に立寄り、主人に逢ふ。なかなか立派な建築なり。」
この日轍次が「筆を買ひに神田に」行ったのは、今も神田小川町にある温恭堂のことであろう。そこから錦町の大修館書店まではゆっくり歩いても15分ほどの距離である。
二人の間にどのような会話があったかについては記されていない。
轍次が一平と漢和辞典編纂の契約書を取り交わしたのは、それから十日余り経った9月14日のことである。