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玄都観裏 桃千樹、尽く是れ劉郎の去りし後に栽う――劉禹錫

 春を代表する中国の花といえば、まず挙げるべきは桃李。紅い桃(モモ)と白い李(スモモ)は、しばしば併せて「桃李」と呼ばれる。
 「桃李もの言わざるも、下に自[おのずか]ら蹊[みち]を成す」は、漢の将軍李広[りこう]を讃えた言葉で、「成蹊」の語はこれに由来する。李広は匈奴から「飛将軍」と恐れられた名将であったが、口下手で自分を喧伝しなかった。その無欲で朴訥な人柄がおのずと人を惹き付けたのを言うために、司馬遷が引いたことわざである(『史記』李将軍列伝)。狩りをしていた時に虎と見間違えて弓を放ったら、矢は岩に食い込んだという逸話がある。豪腕ぶりを語る話なのだが、岩とわかって射てみたら矢ははね返された、虎と思い込んだから岩にも突き刺さったというところがおもしろい。
 匈奴との戦いで数々の武功を挙げた李広であったが、それに見合う報奨には恵まれなかった。結局最後には大将軍衛青[えいせい]との食い違いから、自刎したのだった。能力・実績はありながらも、組織の人間関係のために不運に終わる人はいつの世にもいる。中島敦の小説(『李陵』)で知られる李陵は、李広の孫にあたるが、匈奴に帰順した彼もまた漢王朝から見放された悲運の武将であった。
 上の成語の「桃李」は、美しく咲き誇る姿、その美しさを人が放っておかないことをいうが、桃李は否定的に捉えられることもある。南朝・宋の鮑照[ほうしょう]の詩では、表面の華やかさを誇る桃李と貞潔な白雪が対比されている(「劉公幹の体に学ぶ」詩、『文選』巻三一)。李白の「松柏は本[もと]孤直、桃李の顔を為し難し」(「古風」其十一)、「花多ければ必ず早く落ちん、桃李は松に如かず」(「箜篌謡[くごよう]」)などでも、桃李は松柏を讃えるための引き立て役に使われている。
 桃の表象は『詩経』桃夭[とうよう]の「桃の夭夭たる、灼灼たる其の華」、陶淵明の桃花源、孫悟空が天界から盗んだ長寿の桃の実……、いくらでもあるが、ここでは寓意の詩に用いられた桃を見ることにしよう。
 中唐の詩人劉禹錫[りゅううしゃく]は新進官僚となって間もないうちに失脚し、朗州司馬に流謫された。長安から遠い朗州(湖南省常陽市)の地で十年を経たあと、やっと都に召喚されることになった。「元和十年(八一五)、朗州より召を承けて京に至り、戯れに花を看し諸君子に贈る」という長い詩題をもつ絶句がある。

 紫陌紅塵払面来  紫陌[しはく]の紅塵 面を払いて来たる
 無人不道看花回  人の花を看て回[かえ]ると道[い]わざる無し
 玄都観裏桃千樹  玄都観裏[げんとかんり] 桃千樹
 尽是劉郎去後栽  尽[ことごと]く是れ劉郎の去りし後に栽[う]う

 帝都の大通り、にぎわいの粉塵が顔にふりかかる。誰も彼も花を見ての帰り道だと言う。
 玄都観のなかには桃の木が千本。すべてこれは劉さんが都を去ったのちに植えられたもの。

  長安にあった道教寺院の玄都観、そこは今や爛漫と咲き誇る桃の花に埋め尽くされている。自分の知る十年前とは一変した光景であった。桃は仙界の果実なので、道観に植えるにふさわしい。「劉郎」は六朝の志怪小説などで漢の武帝劉徹を指す語だが、ここでは劉禹錫は同姓の「劉」を使って自分をまるで物語の登場人物のように言う。
 その劉郎は花の名所ができたことを喜んでいるわけではない。この詩は明らかに寓意を含んでいる。かつて劉禹錫が加わった二王(王伾[おうひ]と王叔文)を中心とする改革派は政争に敗れ、一斉に放逐された。政治犯として十年を地方に追いやられたのは異例に長い冷遇であった。やっと呼び戻された今、朝廷の人間模様はまったく様変わりしていた。埋め尽くす桃の花が、栄華を誇る新たな権力者たちを皮肉っていることは明らかだ。そのために朝廷を誹謗したとみなされて、劉禹錫は再び遠くに追いやられる。今度はさらに遠い南の果ての連州(広東省連県)の刺史(長官)であった。
 地方の刺史を転々として、十数年ののち、再び長安に戻ってきた劉禹錫はすでに五十七歳になっていた。「再び玄都観に遊ぶ絶句」、先の詩の続篇ともいうべき作がある。この詩には長い「引」(序)が付けられている。

 私は貞元二十一年(八〇五)、屯田員外郎であったが、その時、この道観にはまだ花はなかった。この年、連州の刺史となり、すぐさま朗州司馬に左遷された。居ること十年にして、都に呼び返された。人々はみな道士が手ずから仙桃を植えたと語り、道観全体が赤い彩雲のようだったので、先の詩を作ってその時のことを記したが、たちまち地方の刺史に出された。今、十四年たって、また主客郎中となり、再び玄都観に遊んだが、桃は切り倒されてあとかたもない。ただ野菜や雑草が春の風に揺れているだけだ。そこで再び絶句を作り、いつかまた訪れる日を待つことにしよう。時に大和二年(八二八)三月。

 百畝中庭半是苔  百畝[ひゃくほ]の中庭 半ばは是れ苔
 桃花浄尽菜花開  桃花 浄[きよ]め尽くして 菜花開く
 種桃道士帰何処  桃を種[う]えし道士は何処[いずく]にか帰する
 前度劉郎今又来  前度の劉郎 今又た来たる

 

 百畝(6ヘクタール)の庭のなか、半分は苔。桃の花はきれいさっぱりなくなって野菜の花が咲く。
 桃を植えた道士はどこに行ってしまったのか。先回の劉さんが今またやってきた。

 政界は再び一変していた。先に権勢を誇った連中は今や影もない。中国の注釈では、この詩には劉禹錫の喜びがあふれていると言うが、そんな浅薄な読み方をしたら劉禹錫に気の毒だ。劉禹錫は自分の感情を抑えて、人の世の変転ぶりから距離を置き、覚めた目で見つめている。権力闘争に明け暮れ、盛衰を繰り返す人間世界、自分もその犠牲者にほかならないのだけれど、その痛みをいだきつつも、冷ややかに観察しているかに思われる。「引」の末尾、「以て後遊を俟[ま]たん」の言葉には、このあとにまたどのような変化が生じるのか、この目で見てやろうという、憤りを含みながらも一段高い所から見据える強靭さがうかがえる。自分を弄んだ運命を個人に収束させず、人の世の営みとして捉えるのである。
 中国の詩は『詩経』・『楚辞』以来、寓意として読み取られることが多い。そのために素直に読めばよい詩までもが、政治的寓意を托したものと解釈されることがある。しかしこの二篇の詩に限っては、単に桃の花園の盛衰をうたったものではなく、政界に対する作者の憤懣が寓意されていると読まざるを得ない。もし劉禹錫が桃の花に借りることなく、自分の思いを直接述べたとしたら、詩の与えるインパクトはこれに及ばないのではないだろうか。一見すると回り道のような寓意を用いることによって、一層強烈に訴えることもあるのである。

 劉禹錫と同じ運命をたどった人に柳宗元がいる。二人は飛び抜けて早く二十歳そこそこで科挙に通り、将来を属目されて官界に入った。早い入朝が当時席巻していた二王の改革派に加わることになり、「八司馬の貶」と称される政変に巻き込まれて政治生命を失ってしまった。長寿であった劉禹錫は後年官界に戻るが、すでに老いていた彼が枢要の地位に昇ることはもはやなかった。柳宗元のほうは遠い柳州(広西壮族自治区柳州市)の地に埋もれたまま不遇の生涯を閉じたのである。
 八司馬が放逐され、一新された朝廷に入ったのが、白居易・元稹である。二人はおそらく経済的な事情のために、同年代の劉禹錫や柳宗元に比べて科挙に応ずるのが遅れた。それが幸いして新体制のもとで官人生活を始めることになり、のちに元稹は宰相にまで登りつめたし、白居易はその一歩手前まで昇進したのだった。劉禹錫・柳宗元も順調に進めば朝廷の頂点に立ったであろうが、早い登第がかえってあだとなって失墜したのも、人の世の巡り合わせであろうか。

 春を謳歌する桃の花、それは花鳥風月の一つとして愛でるにとどまらず、劉禹錫の詩のように暗く重い情念を仮託することもあるのが中国の詩であった。

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