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甘瓜を清泉に浮かべ、朱李を寒水に沈む。      ――曹丕「朝歌令呉質に与うる書」

 疫病禍が収まらない。すでに三か月あまり、世界中が新型コロナウイルスに翻弄されている。暮らしが立ちゆかず、罹患者は増えるばかり。これがいつまで続くのか、誰にもわからない。
 中国の疫病で文学史に関わるものといえば、建安二十二年(二一七)のそれがたぶん一番大きい。魏の文帝曹丕[そうひ]の「蓋し文章は経国の大業、不朽の盛事」という、文学の意義を高らかに宣言した言葉は、その時の流行病から生まれたといってもいいほどだ。
 それに先立って、後漢という時代の全体を俯観すると、大まかに言えば外戚と宦官が交互に権力を奪い合う繰り返しであった。最後の外戚何進[かしん]を倒して支配者になったのが董卓[とうたく]。董卓打倒に向かって立ち上がったのが、袁紹[えんしょう]をはじめとする群雄たち。群雄のなかで当初は弱小の存在だった曹操は、次々と競争相手を打ち破り、後漢最後の年号である建安の時代には北中国の覇者となっていた。
 曹操は戦いに勝つたびに敵の兵力を吸収したばかりではない。群雄の陣営で筆を手に仕えていた人たちも配下に加えていった。こうして曹操政権のもとには当時のおもだった文人がこぞって集まることになった。その代表がいわゆる「建安の七子」である。
 建安七子の顔ぶれは、曹丕の『典論』論文篇のなかに見える。孔融・陳琳・王粲・徐幹・阮瑀[げんう]・応瑒[おうとう]・劉楨。そのなかで孔融はともに活動した形跡がないので除外して、のこる六人、それに曹丕・曹植の兄弟を加えたグループは、常に行動をともにしながら互いに詩文を競い合った。これは中国の文学史上、初めて生まれた文学集団であった。
 建安の文学集団が中国文学史に果たした功績ははなはだ大きい。集団の形成は個性の発見につながり、この時期から詩は作者の名を伴うものになった。自然発生的な、作者不詳の「歌謡」から、個人の表現者の手になる「文学」へと、詩が変貌したのである。その後の基本的な詩型となる五言詩もこの時から定着した。詩以外にも文学のジャンルが一気に拡大した、などなど。後世からも「建安文学」は仰ぎ見られ、文学が回帰すべき模範とされたのだった。
 集団と呼ぶにふさわしいのは、彼らの間に同志としての一体感、友愛の思いが色濃く共有されていたからである。それを伝えているのが、曹丕が呉質に寄せた二通の書簡である。呉質は「七子」に数えられていないが、やはりこの集団のなかにあった。

 最初の手紙(「朝歌令呉質に与うる書」、『文選』巻四二)は、建安二十年(二一五)五月二十八日の日付を持つ。それは集団の各自が散り散りになり、加えて七子の一人、阮瑀が病没した時点から、かつての楽しく集い合った日々を振り返ったものだ。昼も夜も行動をともにし学問・文学を論じ合った、過ぎし日を懐かしむ真情が文面にあふれている。そのなかに次の対句がある。

 浮甘瓜于清泉、沈朱李于寒水。
 甘瓜[かんか]を清泉に浮かべ、朱李を寒水に沈む。

 冷たい水のなかで果物を冷やすという、日常生活の平凡な一場面を、はなはだ感覚的に描き出す。透き通った水のなかに映える李(すもも)の朱色といった視覚に加えて、瓜の甘そうな味覚、冷やっとする水の触覚――生々しい感覚は千八百年を経た今でもありありと目に浮かび、手に感じられるかのようだ。このような美しい表現は、彼らとの交遊そのものを美しい記憶として愛[いと]おしんでいることから生まれている。
 それから三年後の建安二十三年(二一八)二月三日、曹丕は再び呉質に手紙を送る(「又た呉質に与うる書」、『文選』巻四二)。この三年の間に、さらに大きな喪失をもたらす事が起こった。建安二十二年に王粲が病没したのに加えて、その年に蔓延した疫病で、七子のうちの徐幹・陳琳・応瑒・劉楨の四人が一気に死んでしまったのである。疫病の恐ろしさは元気にしていた人が突然異物となってしまうこと、そしてそれが集団で起こることである。一緒に交遊を楽しんでいた時には、この愉悦がいつまでも続くものと思い込んでいた、わずか数年ののちにその仲間のほとんどが墓中の人となろうとは思いも寄らなかった、と曹丕は言う。酒を酌み交わし、音楽の演奏を楽しみ、ゲームに打ち興じ、詩を作り合っていた幸福な日々――幸福というものはそれが失われた時になって初めて幸福と気づくものなのか。曹丕は彼らの死を悼み、文集を編む。作品をまとめることで彼らの存在を後世に伝えようとしたのである。
 疫病による仲間の死に遭遇して、曹丕は人の命というものがいつ奪われるかも知れない、いとももろいものだと思い知る。人が免れることのない死の不条理、それに抗する唯一の手立てはものを書き残すこと、それが文学の動機へと通じる。
 なぜ書くか、人を執筆に駆り立てる動機といえば、中国では司馬遷の「発憤著書」の説が伝えられてきた。宮刑を受けた司馬遷は、古来の著述がいずれも人生のなかで遭遇した不幸な事態から生まれていることを思い起こす。周の文王、孔子、屈原、左丘明、孫子、呂不韋、韓非子……、先人たちは思いがけない災厄に出会い、それによって精神を奮い立たせ(発憤)、著述をものした(著書)のだった。そして司馬遷もその系譜にみずからを置いて、『史記』執筆に取り組む(『史記』太史公自序。司馬遷「任少卿に報ずる書」、『文選』巻四一)。

 文学が不幸から生まれるものとしたら、幸福な人には文学を書く動機はないことになる。幸福とか不幸とか一概に言えるものではないにせよ、曹丕の場合、宮刑にも足切りの刑にも遇うことはなかったし、曹操の嫡男として帝王学を授けられた人生は少なくとも外から見れば、この上なく恵まれている。そんな曹丕は文学の「もう一つの動機」を唱える。それは「不朽」の文学をのこすことによって、有限の人生を無限にすることであった。
 中国最初の文学論である『典論』論文篇のなかで、曹丕は「蓋し文章は経国の大業、不朽の盛事」に続けて言う、寿命には終わる時があるし、栄華や歓楽も生きている間だけのことだ。それに対して文学は永遠である。周の文王のように災厄を動機とする人もいるが、周公旦[しゅうこうたん]のように順境のなかで著述をのこした人もいる。不幸とか幸福とかは関係がないのだ――曹丕は明らかに司馬遷を意識し、司馬遷を超える文学の動機を提起しようとしている。そして徐幹が『中論』の著作を遺して逝ったことを「一家の言を成」したと讃える。
 『典論』論文篇に言う「年寿は時有りて尽く」、「忽然として万物と与に遷化す」――この認識は、書簡のなかで悲痛の思いを吐露していた、文人たちの突然の死から生まれたのではないだろうか。身近な人たちの死は、自分も含めた人の宿命に対して痛切な思いを突きつける。それが文学に不朽を求めることへと繋がった。だとしたら、建安二十二年の疫病は、「人はなぜ書くか」という問いに対する、もう一つの新しい答えを生み出したことになる。
 医聖と称される張機(あざなは仲景)の医学書『傷寒論』も、建安の疫病から生まれている。明の方有執[ほうゆうしつ]による注釈『傷寒論条弁』の「序」によると、張仲景の一族二百人余りのうち、建安年間の十年間に三分の二が逝去、そのうちの七割の死因が「傷寒」であったという。200人として計算するとその三分の二は133人、さらにその七割は93人、つまりは全体の半数近くが疫病のために命を落としたことになる。張仲景の言う「傷寒」が建安七子を襲った疫病と同じであるか確定はできないけれど、可能性は高い。七子の場合も四人、半分以上が犠牲になっている。たいへんな致死率である。「傷寒」という言葉を見ると呼吸器系の伝染病であるかに思われるが、実際には腸チフスのようなものだったと言われている。張仲景は一族の大量の死を契機に『傷寒論』を著したというが、建安の疫病は中国最初の医学書を生むことにもなったのである。

 二十一世紀を襲ったこの疫病から、人は何を生み出し、何を後世にのこすのだろうか。

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