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荘生の暁夢 蝴蝶に迷い、望帝の春心 杜鵑に託す ――李商隠「錦瑟」

 毎年五月の二十日を過ぎると、ホトトギスの初音を聞くことができる。

――テッペンカケタカ

姿は見えなくても、この声でホトトギスとすぐわかる。西行の歌にも、

――ほとゝぎす聞く折りにこそ夏山の青葉は花におとらざりけれ

というから、やはりホトトギスは「見る」よりも「聞く」ものであった。

 西行にうたわれた「ホトトギス」と「青葉」を踏まえながら、そこに「初鰹」を加えたのが、よく知られている次の俳句。

――目には青葉 山ほととぎす 初鰹      山口素堂

 視覚と聴覚のうえに、必ずしも雅ならざる味覚を添えたところが、いかにも俳諧らしいおかしみなのだろう。青葉・初鰹といった新しさを代表するものと並べられたために、ホトトギスも初夏の爽快さの一つであるかのように思ってしまう。ところがホトトギスの文化的形象は必ずしも好ましいものではなかった。


 中国では植物に対しても儒家的な意義を添えて、松柏は冬も枯れぬ操を保持し、竹は節を通し、そして早春の梅は衆花咲く前に、晩秋の菊は衆花みな枯れたあとに咲くことから、世俗に染まらぬ生きかたが讃えられる、ということは先に記したことがある(「江南 有る所無し、聊か贈る一枝の春」(https://kanjibunka.com/yomimono/partiality_kanshi/yomimono-7843/))。
 鳥の場合も、鴻や鵬などの大きな鳥は孤高の存在を、雀や鳩のような小さな鳥は世俗の小人をあらわすというように、やはり人間と重ねた意味を負わせられている。ただ鳥には人倫的意義とは別に、吉凶の意味を担うことがある。鵲(カササギ)は吉事の前触れ、鵩(フクロウの類)や杜鵑(ホトトギス)は不吉な鳥。吉であれ凶であれ、鳥が予兆の意味を担うのは、空から飛んで来る鳥はいわば天の使い、それゆえ神の意思を伝えると考えられたからだと思う。
 何年か前のこと、國學院大学の授業でホトトギスは中国では凶鳥と見なされていたと話したら、受講者の一人が「日本でもそうだったようです」と、江戸時代の妖怪を画いた古書をもってきてくれた。ホトトギスの声を聞くと悪いことが起こる、それを回避するためには「がんばり入道ほととぎす」という呪文が効果的だと書いてあった。以来、テッペンカケタカを耳にすると、わたしは即座にその呪文を唱えることにしている。
 ホトトギスからまがまがしさを覚えるのは、やはりあのけたたましい鳴き声のためだろう。漢字表記は杜鵑、時鳥、不如帰、子規など、次々挙げることができる。「不如帰bu ru gui」などは明らかに聞きなしである。「帰るに如かず(帰ったほうがいいよ)」――いかにも何かストーリーが結びつきそうだ。いちばん普通の表記である杜鵑には、ツツジの花の意味もある。ツツジの花の強烈な赤は、鳴いて血を吐くホトトギスと結びつく。杜鵑が花の名でもあるように、日本にもホトトギスという名の植物がある。ツツジの赤の凄まじさとは異なるけれども、花の斑点はなんだか血が飛び散った模様のようにも見える。

 

 中国で杜鵑にまつわる話の一つに、望帝の伝説がある。『水経注』[すいけいちゅう]とか『酉陽雑俎』[ゆうようざっそ]とかに短い記述が見えるほかは、『太平御覧』[たいへいぎょらん]のような類書に断片的に記されているに過ぎない。つまりは「ちゃんとした本」に載っている「ちゃんとした話」ではない。「ちゃんとした」というのは、儒家の正統的伝統に組み込まれた書物であり、言説である。実はそこからはずれた話のほうがおもしろい。のこっている断片も話が錯綜しているのだが、なんとかだいたいの筋をつなぎ合わせると、ほぼ以下のようになる。
 昔の蜀の国、それはおそらく漢民族が支配する前の先住民族の国、そこに杜宇[とう]という名の王がいた。蜀の国ではとりわけ重要な治水の仕事、それを大臣の鼈霊[べつれい]にゆだねた。鼈霊は鼈令という表記もあり、荊の国で死んだ遺体が蜀まで流れて来て、生き返ったのを杜宇が大臣に取り立てた、とも言う。治水工事を托された鼈霊は見事に成し遂げた。杜宇は自分の力が及ばぬことを嘆いて子規(ホトトギス)に身を変えたと言う。あるいはまた鼈霊が出張していた留守の間に、杜宇は彼の妻と通じ、それを恥じてホトトギスに姿を変えた、あるいは自死してホトトギスに生まれ変わった、などなど。断片を掻き集めても混迷するばかりだが、大筋は蜀の望帝である杜宇がホトトギスに変わってしまった、ということではある。
 このような「ちゃんとしない」話、説話的世界に属する話は、詩の典故としてもあまり使われないのだが、ここから稀有の詩句を作り上げた詩人がいる。李商隠である。

   錦瑟
 1 錦瑟無端五十絃  錦瑟 端無くも五十絃
 2 一絃一柱思華年  一絃一柱 華年を思う
 3 荘生暁夢迷蝴蝶  荘生の暁夢 蝴蝶に迷い
 4 望帝春心託杜鵑  望帝の春心 杜鵑に託す
 5 滄海月明珠有涙  滄海 月明らかにして 珠に涙有り
 6 藍田日暖玉生煙  藍田 日暖かにして 玉に煙生ず
 7 此情可待成追憶  此の情 追憶を成すを待つ可けんや
 8 只是當時已惘然  只だ是れ当時 已に惘然

 李商隠の代表作とされるだけあって、彼の詩の特徴がそっくりそのままそろっている。その一つがわかりにくいことだ。いったい何を言っているものなのか、詩の一般的な書き方から逸脱しているために、読み手の理解を突っぱねる。
 なんとか手掛かりになりそうなのは、首聯(1・2句)と尾聯(7・8句)。詩題ともなっている「錦瑟」は女性のメタファーのようで、その女性はもはやこの世にいないらしい。彼女との華やいだ時間の思い出が、錦瑟の絃の一筋ごとに、柱(ことじ)の一本ごとに湧き起こってくる。しかし「此の情 追憶を成すを待つ可けんや」、振り返って懐かしむこともできない。なぜなら「只だ是れ当時 已に惘然」、彼女の生きていたあの時からもはや「惘然」、あやめもわからぬ思いだったのだから。このように、亡くしてしまった恋人を懐かしむ、といった型に当てはめて読むことが拒絶されてしまう。生前の実在―死後の非在という構図が否定され、実在自体があやしくなってしまうのだ。
 間に挟まれた頷聯(3・4句)、頸聯(5・6句)は、背景の事柄と一見何の関わりもなさそうに見える。「滄海」「藍田」の対句はこの上なく美しいが、今回は「荘生」「望帝」の対句のほうだけ見ることにしよう。
 「荘生」の句は、よく知られた『荘子』斉物論篇の故事を用いる。夢のなかで胡蝶(蝴蝶)になった荘子は、ひらひらと舞ってとても気持ちがいい。ふと夢から覚めて思う、いったい自分が夢のなかで蝴蝶となったのか、胡蝶が夢のなかで自分となっているのか。自分は自分でないものが見ている夢なのかも知れない。自分が自分であると信じていたのは、不確かな思い込みなのかも知れない。
 「望帝」の句は、望帝から杜鵑へという変身(メタモルフォーゼ)を語る。望帝の春心(恋の思い)はもはや人としてかなえることはできず、杜鵑の悲愴な叫びに托すほかない。「荘生」の句が荘子か胡蝶かの交換可能性の間で揺らいだのに対して、「望帝」の句は望帝から杜鵑へという不可逆的変身を強いられている。人に戻ることもできず、恋を成就できないことは言うまでもない。
 この四句は詩全体とどのように関わるのだろうか。「荘生」の句は我々が実在と信じているものの不確かさを呼び起こす。恋人は生前には実在していたというのも怪しい思い込みなのかも知れない。「望帝」の句にはさらに死の要素が加わる。望帝は死によって杜鵑という人ならざるものへ変わってしまい、元に戻ることはできない。現実世界において存在か非在かが不確かであったうえに、死はその現実へ戻ることも不可能にする。しかし現実における存在が不確かなものならば、死後の非在も不確かなのではないか。としたら死も必ずしも非在を確定するものではないことになる。こうしてすべては曖昧であやふやなものに化してしまう。この茫漠とした状態が、恋というものの不確かで儚いありように通じるのだろうか。とはいえ、暗い悲観に掩われるわけではなく、「暁」の夢であり「春」の心であって、「滄海」「藍田」二句の対とともに、美しい情感を漂わせている。

 

*写真はphotolibraryより


(c)Kawai Kozo, 2021

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