写真でたどる『大漢和辞典』編纂史
プロローグ 鈴木一平と諸橋轍次 2
■「出版は天下の公器である」
1957(昭和32)年、大修館書店恒例の社員旅行の席上で、当時取締役社長だった鈴木一平は社員を前に自分の歩んできた道について語っているが、その聞書きが従業員総会の機関誌『窓』創刊号に載っている。それによると、修学堂書店に最初に入店した十五、六歳の頃、薬の製造業をやろうと考えたことがあったようである。というのも、本は今日新刊であったものが明日は古本になる、つまり寿命が短い。その点、薬は同じものが永久に売れると考えたからであった。しかし、朝早くから夜遅くまで働きづめの毎日ではあったが、一平は修学堂書店で出版という仕事の面白さを知ることになる。人一倍働いたのが認められ、十八歳で地方回りに抜擢されたのも励みになった。地方回りというのは、見本を持って全国の小売書店を回って注文をとり、掛金を集め歩くという、いわば本屋としての独立の第一歩でもあった。
出版物の中でも寿命が長く、堅いものは何か。一平は、それは辞書であり学習書であると考えた。前回述べたように、一平が修業した修学堂書店は、店主の辻本末吉が大倉書店にいたこともあって主にそこの図書取次に力を注いでいたが、同時に学習参考書の出版業も営んでいた。しかし、店主の利潤のみを追求する出版方針にあき足らなかったのであろう、一平は出版業務のノウハウを身につけることに専念する一方、大倉書店発行の辞典や学術図書を毎日目にすることによって次第にその出版方針に共鳴していった。修学堂書店での後輩であり大修館書店の元役員でもあった鶴見栄次郎が、「長い修学堂の店員としての生活の中で、何時も口癖のように言っていたことは、出版はまず良いものを出すこと、所謂良心的出版である。それにより始めて利益を得るという信念は、恐らくこの時植えつけられたものであろう。」(『回想 鈴木一平』 1977)と書いているように、のちに一平が座右の銘とした「出版は天下の公器である」という言葉は、この修業時代に培われていったものといえる。
■出版界先人たちへの憧憬
一平が目標としたのは大倉書店だけではなかった。一平の長男で後に三代目社長となる鈴木敏夫は、「故人は、(中略)三省堂創業者の亀井忠一氏の本造りに対する信念や、大倉書店の創業者大倉孫兵衛氏及大倉保五郎氏・冨山房創立者の坂本嘉治馬氏の後世に残る雄大な構想による出版方針に、強い共鳴とあこがれに近い目標を抱いていた。」(『回想 鈴木一平』1977)と書いている。
亀井忠一(1856-1936)は、1881(明治14)年に東京神田駿河台下に古本屋三省堂を創業、やがて出版業にも進出、1884(明治17)年の十字屋・開新堂・桃林堂との共同出版『英和袖珍字彙』をはじめ、特に初期の英語教育に果たした役割は大きい。大正になって発行された『袖珍コンサイス英和辞典』(神田乃武・金澤久 共編)はその後、「コンサイス」といえば小型辞書の代名詞ともなった。1889(明治22)年には辞典専用の活字を備えた自社印刷工場を設立、『漢和大字典』(1903)、『辞林』(1907)など、国漢辞書でも一時代を築いたが、明治の末に、『日本百科大事典』全十巻が刊行半ばで資金難に陥って倒産という事態に至ったということがあった。実はこのことが結果的に一平が独立する切っ掛けとなった。というのは、三省堂振出しの不渡り手形に修学堂書店の裏書きがあり、その金策に失敗した結果、廃業を余儀なくされてしまったからである。店主の辻本末吉は、従業員たちに紙型を分け与えて店を閉じた。
大倉孫兵衛(1843-1921)は、家業の絵草紙屋から独立して新たに萬屋という絵草紙屋を始めるが、他にも洋紙店や陶磁器などの会社を設立した実業家であった。1876(明治9)年、孫兵衛の義弟大倉保五郎(1857-1937)は萬屋の経営を譲り受けて大倉書店を創業、1899年の『ことばの泉』(後に『言泉』と改題)や『英和商用字彙』(1898)、『独和辞典』(1896)などの辞典を出版、また、銀座の服部書店とともに夏目漱石の『吾輩ハ猫デアル』初版本の版元としても知られている。当時の日本橋を描いた石版画や絵葉書を見ると、橋のたもとに白亜の四階建ての大倉書店ビルが描かれている。丸善はその並びにあった。博文館・丸善とともに日本橋に店を構え、大倉書店も当時大手出版社の一つであったが、関東大震災で大きな打撃を受け、さらに1952(昭和27)年に火災に遭って廃業に追い込まれた。
坂本嘉治馬は、1886(明治19)年に神田神保町に冨山房を設立。はじめは英米の原書の古本の売買をしていたが、やがて出版業に専心、1906年に発行した『日本家庭百科事彙 全二巻』は日本で最初の組織的な百科辞典といわれた。他にも『大日本地名辞書 全七巻』(吉田東伍 1907)、『詳解 漢和大字典』(服部宇之吉・小柳司気太 1916)、『漢文大系 全二十四巻』(1911~1916)、『大日本国語辞典 全五巻』(上田万年・松井簡治 1928)、『大英和辞典』(1931)、『大言海 全五巻』(大槻文彦 1937)、『国民百科大辞典 全十二巻』(1937)など、まさに「雄大な構想による出版方針」に沿った出版物はそれぞれに成功を収め、辞書出版社として名声を不動のものとしていた。
大倉書店や丸善がなぜ神田ではなく日本橋に店舗を構えたかについて、明治維新後、明治10年前後までは書籍の出版・販売業の多くは京橋・日本橋に集中しており、神田にはほとんどなかったという。それは、日本橋はすでに江戸の頃から商業地区であったのに対し、神田界隈は旗本屋敷の用地で占められていて商業用地ではなかったことに起因する。明治10年以降、旗本屋敷の多かった神田界隈の空き家や空き地を利用して後の大学の前身となる漢学塾や英語塾、さらには各種学校がつくられて教師や学生相手の教科書販売店や古本店が出来はじめる。現在の神田古本街の始まりである。明治20年当時の東京書籍出版営業者組合員数は131名であったが、その分布をみると、日本橋が56名、京橋が28名と多く、神田はようやく15名で第三位であった。ところが、明治39年になると組合員数は三倍の384名になっているが、神田が日本橋(85名)と京橋(77名)を抜いて104名とトップに躍り出ている(脇村義太郎『東西書肆街考』岩波新書)。
余談だが、鈴木一平が大正7年に大修館書店を創業した場所を確認すべく神田錦町1丁目辺りを歩いていたところ、すぐ近くに「學習院(華族学校)開校の地」と書かれた碑を見つけた。学習院は明治10年にこの地に開設された。明治19年に火災により焼失してしまったが、神田錦町と学習院との取り合わせが意外に思ったものである。
閑話休題。先人たちの業績をみると、改訂に改訂を重ね、また当時のままであっても現在まで命脈を保っている出版物があるのがわかる。「私は、ただ出版という仕事は、少なくとも後世に残るものをやるべきであろうという、一貫した信念でやってまいりました。」(創業五十周年記念祝賀会での挨拶 1968年)。一平が先人たちから学んだのは、まさにそのことであった。
■漢和辞典の出版を思い立つ
どのような経緯で漢和辞典の出版を思い立つに到ったか、一平は『大漢和辞典』の出版後記で次のように述べている。
「大正から昭和の初期に於ける出版界の情勢として、一国の文化を代表するほどの良書の出版は、誠に少ない有様であった。当時(三十八歳)私は『いやしくも出版は天下の公器である、一国文化の水準と、その全貌を示す出版物を刊行せねばならぬ。これこそ出版業者の果さねばならぬ責務である。』と固く信じ、先ず生命力の永い良い辞書の出版を考えた。そこで私は、第一に、実際に役立つ便利なもの(検索上の不正確を正す)、第二に、決して他人の真似の出来ないもの(正確で他より優れた特色を有するもの)、第三に、後世まで残るもの、という三つのことを考え合せ、一冊ものの漢和辞典の出版を思い立った。」
1925(大正14)年のことである。一平は、水野弥作(当時東京高師附属中学校教諭)の紹介で、当時東京高等師範学校教授だった諸橋轍次を雑司ヶ谷の自宅に訪ねることになるのだが、その前に、出版後記の中の「大正から昭和の初期に於ける出版界の情勢として、一国の文化を代表するほどの良書の出版は、誠に少ない有様であった。」という部分について少し説明が必要のようである。