当館では、『大漢和辞典』を始めとする漢和辞典を発行する大修館書店が、漢字や漢詩・漢文などに関するさまざまな情報を提供していきます。

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余滴 3

▼曖々たり遠人の村

「(昭和9年)北京留学から帰った東京高等師範出身の原富男氏が編纂の主任のようになり、原さんの住居に近い杉並区天沼一ノ二六三、荻窪駅の近く、熊野神社の裏の家を借りて編纂室とした。そこはまた西荻窪の近藤正治教授宅にも近かったからである。諸橋先生はその家を「遠人村舎」と名づけた。」(原田種成『漢文のすゝめ』1992)

 最初に「遠人村舎」と名付けられた編纂室は、「杉並区天沼一ノ二六三、荻窪駅の近く、熊野神社の裏」にあったとあるが、「熊野神社の裏」は、その住所からいって「八幡神社の裏」の誤りのようである。現在のJR中央線荻窪駅北口から青梅街道を横切って500メートルほど行ったところに八幡神社がある。熊野神社はそこからさらに東へ500メートルほど先である。現在は八幡神社も熊野神社も住所は同じ杉並区天沼2丁目だが、戦前の地図を見ると、八幡神社は天沼1丁目、熊野神社は2丁目にあったことがわかる。現在、八幡神社の裏手には都営天沼2丁目団地がある。神田からは約13キロほどの距離であろうか。
 荻窪の遠人村舎は、1936(昭和11)年12月に東京市淀橋区西落合(現在の東京都新宿区西落合)の諸橋邸内に移るまで約二年間存在したが、そこへは箱車に積まれた校正刷が、神田から若い小僧さんたちによって毎日のように届けられた。遠人村舎では、校正刷にさらに用例・出典名・追加の語彙が加えられて、「再校で補入するものが五割にも達し、校正刷にはその補入のための余白が左右上下に十分あったが、それらの余白だけでは書き入れきれず、用紙を貼って書き足すものが多く、記入の多いところは左右、観音開きにするだけでは足りず、上下にも開かねばならないのも増えていた。」(原田種成『漢文のすゝめ』1992)という有り様であった。

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戦前の杉並区の地図

002_ex3_八幡神社

現在の八幡神社

  

▼諸橋轍次監修の漢和辞典

「ひそかに調べてみると、先生はまだ他社から漢和辞書を出しておられない。私は〝一著者一出版社主義〟ということで、早速先生の御宅を訪ね、辞書出版の企画を交渉した。」(鈴木一平「大漢和辞典 出版後記」)

 一平は〝一著者一出版社〟を信条としていた。著者を選ぶ際には、すでに他社と強いつながりのある人を避け、これから伸びようとする少壮気鋭の人たちに的を絞った。そして、一度つながりをもった著者に対しては非常に信義を重んじた人でもあった。
 ところで、轍次には「著」ではないが「監修」の漢和辞典があった。大正14年2月10日初版発行の中村久四郎・諸橋轍次監修『熟語正解 漢和大辞典』(大阪・立川文明堂刊)である。一平が轍次と漢和辞典編纂の交渉を始めたころに発行されたことになる。四六判・本文2,196頁・定価3円80銭。親字(見出し字)の数については記載がなかったので、総画索引の文字を数えたところ11,076字であった。凡例に、「特に科学方面に於ける現代活語の解釈に力を用」いたとある。
 発行元の立川文明堂という名前から「立川文庫(たつかわぶんこ)」を連想したので調べてみると、果たして明治末から大正にかけて一世を風靡した少年向け講談本の発行元であった。余談だが、私が小学生から中学生だったころの昭和三十年代はまだ貸本屋というのがあって、立川文庫をよく借りて読んだ覚えがあるのだが、あれは戦後になって復刊されたものだったのだろうか。岩見重太郎や山中鹿之助などの名前を知ったのも立川文庫からであった。講談本と漢和辞典というのも意外な取り合わせだが、1919(大正8)年には立川文庫は収束の方向に向かい、以後、立川文明堂は学習参考書・教科書出版にシフトする。『熟語正解 漢和大辞典』の出版は、まさにそれを象徴するようなものであったようである。
 その凡例に、「本書は東京高等師範学校教授文学博士中村久四郎先生、同諸橋轍次先生監修の下に編纂し、島根県立松江中学校教諭、谷口為次先生の厳校を経たり、茲に諸先生の賢労を謝す。」とあり、「緒言」に「文明堂編輯部誌す」とあるところからすると、実際には原稿作成と校正は文明堂社内の編輯部と松江中学(現在の島根県立松江北高等学校)の谷口為次教諭を中心として行われたのであろう。
 ところで、私の共感を呼んだのは、その立川文明堂編輯部による「緒言」の冒頭の部分である。辞書編纂という仕事の概要が、経験した人間ならではの、簡にして要を得た文章で書かれている。

「千万言を一編の中に収めて、秩序あり、系統あり、索(もと)めて得ざるなく、探りて瞭かならざるなきは、字書の効なり。而して其取材は該博ならざる可らず、其解釈は簡明ならざる可らず、其典拠は確実ならざる可らず、其索引は至便ならざる可らず、字書編纂の業 豈(あに)容易ならんや。」

『熟語正解 漢和大辞典』扉

『熟語正解 漢和大辞典』本文

 

▼『大漢和辞典』という書名について

「なお余事ながら私の辞典の「大漢和辞典」という命名は実は鈴木君によって定められたものであることを附記したい。人と曰わず書と曰わず命名はなかなかむつかしいものである。辞典の出来た時も実は色々の候補名が考えられたが、どれも此れも意に充たない。そこで私は中国へ渡って彼の地の学者にも相談してみたが、やはり満足を得なかった。ところが一日鈴木君がやって来て、漢和辞典の大きいものであるから大漢和辞典ではどうでしょうという。簡単明瞭だ其はよかろうとは思ったが、あまりに平凡の名だから既に前例はありはせぬかと心配したが、幸にも其は無かった。そこで早速その名の特許を申請して定着した訳であった。鈴木君にはこの奇警峻抜の一面もあるのである。」(諸橋轍次「頼もしい人」今日の出版人(9)鈴木一平氏)

 『大漢和辞典』という書名の漢和辞典は、実は他社からも発行されていた。前項の『熟語正解 漢和大辞典』と同じ1925(大正14)年発行の一冊本である。現物は確認できていないので、『辞書解題辞典』の記述を一部引用しておく。

大漢和辞典 服部宇之吉総纂 春秋書院 大一四・一二 一九四〇頁 四六判 三円八〇銭 縦四組 部首順。親字九八〇〇を実用度に応じて大(二号活字)、中(三号活字)、小(四号活字)の三段階にわけ、二号活字の親字二〇〇〇には字源を説き、古文、篆体、草書体を付し、他の親字は音訓、意義を付し熟語とその意義を記す。……。」(惣郷正明・朝倉治彦編『辞書解題辞典』1977 東京堂出版)

▼漢字制限・廃止論の中で

「……あの時分は漢字に対する日本のいちばん激しい攻撃のあった時代ですね。文部省ではだいたい漢字をうんと制限しようという考えであり、それから知識人にはローマ字論者、かな論者、そういうものが盛んにあって、漢字というものをどうにかしなきゃならん、そういうことがやかましく論じられておった。それから中国のほうでは漢字制限、あるいは簡体字、略字ということが起こる時分ですね。だから今ごろ辞引を作るということが何の役に立つかということが、一般人の人の考えておったところですね。」(「諸橋轍次先生におききする」聞き手:鈴木敏夫 『回想 鈴木一平』所収)

 皮肉な話だが、轍次が五歳で『三字経』の素読をしていた1887(明治20)年頃、英語などの外国語を日本の国語にしようと主張する日本語廃止論者、漢字を廃止して仮名で書くようにしようというかな論者、ローマ字で書くようにしようというローマ字論者、さらには、日本語に代わる新しい国字を作るべきだとする新国字論を唱える者など、漢字を廃止しようという運動が盛んに行われた。いずれも、日本の文明化のために習得に時間のかかる(際限なく多い)漢字を廃止して時間的・経済的なロスをなくしていこうというものであったが、その先駆けとなったのが、「郵便制度の父」と呼ばれた前島密(ひそか 1835-1919)の1866(慶応2)年に将軍徳川慶喜に建白した「漢字御廃止之議」とされる。前島は漢字廃止を建白するにいたった理由について、のちに次のように回想している。

「その後郷里へ遊びに行つた時に、兄の子(五歳)に、昔噺の仮名書き本や例の漢文の三字経などを江戸みやげに遣つた。甥は喜んで習ひ読まうとするに、仮名書きの桃太郎は、容易く面白く覚えたが、「性相近、習相遠、」などとある三字経の方は、余程苦んでも覚えられなかつた。これを見て私は、平易な仮名文で普通教育を施し、一般人民も仮名文を用ゐるやうにしたら、甚だ便利であらうと、つくづく思つた」。(安田敏朗『漢字廃止の思想史』2016 平凡社より引用) 

 国民に一律に教育を施すことを考えたとき、内容を理解させる以前にその手段である文字、特に漢字の習得に時間がかかってしまうのは問題である、平易な仮名にすべきだという主張なのだが、それが甥に与えた『三字経』がきっかけだったというのである。

 1923(大正12)年5月、文部省に設置された臨時国語調査会は、「常用漢字表」1962字を発表する。これに対し漢字節減の機運が高まっていた新聞界では、報知・東京日日・朝日・読売など二十社が8月に「漢字制限に関する宣言」を発表、漢字制限はすでに議論の時代を過ぎて実行の時代に入ったとして「常用漢字表」を支持するも、折からの9月1日の関東大震災によって実行不可能となった。しかし、1925(大正14)年6月1日には十社が「文部省常用漢字を基礎として、協同調査の結果、約六千に及ぶ現代新聞紙の使用漢字を約三分の一に限定することができました。」と謳った「漢字制限に関する宣言」を再び掲載する。その間の事情を、高島俊男は『漢字と日本人』(2001文春新書)の中で次のように書いている。

「政府国語機関の委員は、当初は学者ないし識者ばかりであったが、大正期から新聞社の代表がくわわるようになり、やがてこれが多数をしめた。新聞はつねに大急ぎでつくらねばならぬものである。……戦前は植字工が一つ一つ活字を拾った。文字数(文字の種類)がすくないほどすばやく新聞をつくることができる。新聞は使用活字の範囲をせまく限定することをつねに要求した。」

  一方で、多くの活字を揃えるにはかなりの資金力が必要であったし、場合によってはそれが新聞社の経営を圧迫した。そのためにも、各社が足並みを揃えて使用漢字を節減する必要があった。

 そのような時代背景の中で一平と轍次が行おうとしていたのは、際限なく漢字を拾い集め、新たに活字を作り、何冊になるかわからない漢和辞典を作ろうという、まったく逆のことであった。しかも、1929(昭和4)年10月、ニューヨーク株式市場における株価大暴落をきっかけに世界恐慌に突入、日本経済も昭和恐慌といわれた深刻な不況におちいっていた。

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