当館では、『大漢和辞典』を始めとする漢和辞典を発行する大修館書店が、漢字や漢詩・漢文などに関するさまざまな情報を提供していきます。

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第一部 『大漢和辞典 巻一』刊行と原版焼失まで―1926(大正15)年~1945(昭和20)年 その6

■株式会社に改組

 一口に「全巻一万五千ページ原版組み置き」といっても、その活字の量は膨大なものになる。一段が21字詰37行で1ページ四段組。全巻の活字の重量は、一平が「組版鉛地金二万五千貫」(「大漢和辞典出版後記」)と書いているので、約百トンにも達したということであろうか。原田種成は、「昭和12年ごろのことであったと思う。一度、大修館近くの神田の印刷所を視察に行ったことがあったが、一万五千ページ、毎ページ四段組み、総計六万本の組版ケースが並んでいる光景は壮観であった。総量は莫大な重量になるので基礎工事は厳重に行われたそうで、重砲を据置くにも堪えられるほどだと話していた。」と書いている。(『漢文のすゝめ』1992)
 詳しくは後述するが、この組み置きした原版は、1943(昭和18)年に巻一を刊行した後、1945(昭和20)年2月25日の空襲で一瞬のうちに灰燼に帰すことになる。余談だが、戦時中に回収された金属類の中に、大漢和印行用として大量の鉛塊が当時の通産省の地下に保管されており、その払い下げ申請が大修館書店の与り知らないところでなされたということがあった。そのときの鉛の量は五百トンあったという。いずれにしても、活字の製造と組版のための付属工場の新設、それに伴う従業員の確保、編集関係の人員補充など、経営上の問題が大きくのしかかってくることになった。
 1934(昭和9)年12月2日、大修館書店は株式会社に改組、鈴木一平は代表取締役に就任する。従来の個人経営から株式会社に組織替えすることによって、これらの問題に対応しようというものであった。前年に入社した鶴見栄次郎は庶務会計担当の役員となったが、そのころの社内の様子を次のように書いている。

「組版は錦美堂小林康麿君に任せ、編集は諸橋轍次先生の弟子十四、五人位が、杉並区天沼であったか、諸橋先生命名の「遠人村舎」という編集所に立てこもり編集を進める一方、本社内にも吉井悦郎氏を校正係の長として十四、五人の人々を置き、校正を進めていた。この事業は、出費一方で当分収入の見込みはない。費用の一切は他の出版物の儲けをつぎこんでいたのであった。幸い大修館には諏訪徳太郎著《最も要領を得たる》の地歴の参考書、竹原常太先生の『スタンダード英和辞典』などがあり、その他の参考書もなかなかよく売れていたので、あの大事業を成し遂げることが出来たのであろう。」(「大先輩 鈴木一平さんのこと」『回想 鈴木一平』所収 1977)

 神戸商業大学(現在の神戸大学)教授竹原常太編『スタンダード英和辞典』は、1929(昭和4)年に発行、大修館書店では出版部門を辞書と学習参考書の二部門に拡げた。さらに、1933(昭和8)年には文部省検定中等学校・師範学校・実業学校用英語教科書“The Standard Readers”Books 1~5を発行、出版部門を辞書・教科書・学習参考書の三本柱とした。
 「諸橋先生命名の遠人村舎という編集所」については、轍次が『回顧 学問の思い出』の中で、「一番初めは、雑司が谷の宅の中でやっていました。後に同じ雑司が谷に別の家を借りてやったこともあります。私が落合に引越してからは、天沼付近にかなり大きな独立家屋を借りて、そこで編纂をいたしました。その時代にその事務所を遠人村舎と命名したのです。「曖々たり遠人の村」という陶淵明の詩句から取ったのですが、一つは編纂中あまり人に来られてはかなわないから、人を遠ざける村舎という意味に転用したのです。」と書いているように、現在のJR荻窪駅から程近い杉並区天沼1丁目に編纂室を移したときに命名された。この「敷地二百坪あまり、全部で八部屋もある平屋の大きな家、そのうちの六畳三室の襖を取り払って編纂室とした」(『漢文のすゝめ』)天沼の遠人村舎は、昭和10年から二年ほどで閉じられ、編纂所は現在の新宿区西落合1丁目の諸橋邸内に建てられた茶室に移ったが、そこもまた「遠人村舎」と呼ばれた。現在は新潟三条市の諸橋轍次記念館に隣接する生家の隣に移築・復元されている。

002_6_遠人村舎作業風景

昭和10年当時の遠人村舎(天沼)

002_6_遠人村舎看板

遠人村舎の看板

  写真の遠人村舎の看板は、荻窪の天沼時代のものではなく、西落合の諸橋邸内に編纂室が移ってからのものと思われる。1987(昭和62)年1月に新潟市で開かれた「諸橋轍次博士遺墨遺品展」の図録解説には、「文字は先生の揮毫、彫刻は埼玉県鴻巣高校の生徒。」とある。天沼時代の遠人村舎の看板については、原田が『漢文のすゝめ』の中で「縦四十センチ横十センチほどの板に、先生がそれを縦書きして下さった。」と書いているので、板に墨書したものと思われるが、現物は確認できていない。

■組版開始

「良書の刊行には、著者が思う存分内容を推敲し、研鑽する必要があろう、それには原版全巻を組置きとし、一旦組版した部分でも、幾度も自由に訂正し得るようにしておこうという方針をたてた。そして全巻を通じて各文字・関係語彙・熟語の相互間に於ける検索上の反照を正確にするため、ここに一万五千頁分組置きという、恐らく出版界未曾有の難業を敢えて決行することとした。」(鈴木一平「大漢和辞典出版後記」)
 原稿の棒組は1934(昭和9)年の7月から始まった。「棒組」とは、一行分の字詰めと行間だけを決めてページに関係なく(棒のように)組んでいく方法である。この棒組の段階であれば赤字や追加の原稿を挿入することは比較的容易だが、ページごとにまとめていく「ページ組」の段階で大量の赤字や追加原稿があった場合には、ページが最後までずれていくので大変な作業となる。画面上で簡単にページ移動ができる現在からは想像できない、活字を一本一本手で拾って組んでいく作業の連続である。棒組に取りかかる前に、見本組を数ページとり、二十数回の校正を経てようやく組体裁が決定した。
 棒組用の組み入れ原稿は、22字詰め20行の原稿用紙に清書されたものであった……が、しかし実際には、「清書されている原稿に、あとからあとから書き加えたり継ぎ足したりするものがふえ、線がわからなくなり、増加する項目や長文の引用文があると、原稿を切り開いて紙を継ぎ足すということをやっていたから、一枚の原稿がだんだんと長く伸び、特に人名の李や張、地名の東や西などの原稿の場合には一枚の原稿が巻物のように長くなっていた。そのため、巻いたり広げたりの取扱いは非常に難渋なものとなっていた。そこで、やむを得ずこの段階で活字に組み、増加補入はその校正刷に加筆することになった。」(原田種成『漢文のすゝめ』1992)という状況であった。

002_6_大漢和校正刷

校正刷に書き込まれた赤字

 

 写真は、その校正刷に書き込まれた赤字の例である。稀有なことだが、当時の校正刷のいくつかは製本された状態で残っており、現在、その大部分は諸橋轍次記念館で見ることができる。まさに、「やむを得ずこの段階で活字に組み、増加補入はその校正刷に加筆」したものである。
 当時の初校の状態がどうであったかについては、昭和16年から一年間校正に携わった伊東和信氏も、「初校のゲラ刷りは、……校正の朱筆で文字が見えなくなり真っ赤になっておりました。」と述懐している。伊東氏は、新潟県村上市在住で今年九十七歳。戦前の『大漢和辞典』に携わった、今では数少ないお一人である。氏は、大東文化学院三年のときに級友の紹介で、当時「マルダイ(大漢和の大を○で囲んだもの)」と呼んでいた大漢和辞典の校正のアルバイトに従事、昭和16年3月に卒業すると、月給六十円で正社員になったという。

002_6_榛名湖写真

 写真は、大東文化学院・中央大学の学生アルバイトらともに榛名湖に遊んだ時のもので、伊東氏からお借りした昭和16年当時のものである。前列右から二人目が伊東氏、隣のステッキを持っている人物が、冒頭の鶴見の文章にも出てきた吉井悦郎である。昭和9年当時から校正室の主任を務めていた吉井は、伊東氏によれば群馬県高崎の出身で、轍次の名指しで教職から転じたという(「大漢和辞典後記」によれば群馬県渋川市出身となっている)。轍次は、明治41年に二十六歳で東京高等師範学校を卒業すると群馬県師範学校に一年間だけ赴任するが、吉井との縁はあるいはそのときからのことであろうか。
 伊東氏からは当時の大修館書店の様子をいろいろと伺うことができた。それについては改めて触れていきたいと思う。

■川上市郎の入社

 株式会社に組織替えをして二年目を迎えた1936(昭和11)年に川上市郎が入社する。川上は会社側の実質的な窓口として、「時に私の手となり足となって、……影の形に添う如く」(鈴木一平「大漢和辞典出版後記」)一平とともに戦中戦後の混乱を乗り切り、『大漢和辞典』刊行に心血を注ぐことになる。『回想 鈴木一平』の中で川上が、「社長は非常に一徹で自説を曲げぬ面があったが、これが時にはプラスとマイナスに働き、…」と書いているが、一平の一徹さがマイナスに働いた場合、ある時は取引先との間で、またある時には著者との間で、その後始末に奔走したのも川上であった。

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