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江南 有る所無し、聊か贈る一枝の春――陸凱

 高級料亭にはないかも知れないが、私が入る程度の食堂では定食やどんぶりに「松・竹・梅」のランク分けがある。特上・上・並をこのように言い換える習慣は、日本独特のものらしい。しかし松、竹、そして梅を価値づけるのは中国伝来である。
 松は『論語』(子罕篇)の「歲寒くして然る後に松柏[しょうはく]の彫[しぼ]むに後[おく]るるを知る」という孔子の言葉が示すように、常緑樹ゆえにどんな時にも本来の自分を変えない所が尊ばれる。「松柏」として「松」と並称されている「柏」は、落葉樹のカシワとは異なり、コノテガシワという常緑樹だという。
 竹は節[ふし]があることから節[せつ]に通じ、節操があるとされる。
 梅はまだほかの花が咲いていない時期に寒さに抗して敢然と花を開く勁さ、孤高の気高さをあらわす。
 このように中国では植物に対しても人格的な意味を付与される。日本の松竹梅が「おめでたい」ものとされるのと違って、中国では節義とかいった儒家の徳が伴う。ただし松竹梅の三者に上中下の序列はない。
 ちなみに菊は早春の梅とは逆に晩秋の花、草木みな枯れた時期に開花することから、やはりその孤高が気品あるものとして重んじられる。
 もう一つちなみに、「庭の千草」という小学唱歌は、曲はアイルランド民謡なのだが、「庭の千草も虫の音も枯れて寂しくなりにけり、ああ白菊、ああ白菊、ひとり遅れて咲きにけり」(作詞:里見義)という歌詞は中国の伝統そのままに、衆花枯れたあとにひとり咲く白菊を讃える。いかにも明治の歌らしく、東洋と西洋のハイブリッドであるところがおもしろい、という話を授業で披露しても、そもそも「庭の千草」の歌を若い人たちは知らないのでさっぱり通じない。教室で私が歌って聞かせたりしたら、音程がはずれた歌はいよいよ何の歌かわからなくなるので歌わない。
 ウメはもともと外来語である。今の標準語の発音はméi。mの音は閉じた唇を開くので、その前にuの音が加わってumeとなった。馬も同じでmǎからumaになった。ちなみに(今回は「ちなみに」が多くて本題になかなか入れない)、キクも中国語に由来するというが、標準語のjúからkikuの音に到達するにはいささか距離がある。要するに梅も菊も馬も、中国語の音に由来する名であって、もともとの日本語ではなかったことになる。

 さてやっとここまで来たところでいよいよ本題に入ると、梅は徳高い人品を含意するのみならず、早春の清楚な花、気品のある香りが中国でも早くから喜ばれた。梅を詠じた詩、また梅にまつわる逸話ははなはだ多くにのぼる。たとえば「一字の師」の故事。
 晩唐に斉己[せいき]という詩僧がいた。中唐・晩唐の時期に至ると、「詩僧」と称される、詩をよくする仏僧がどっと登場する。それはこの時期の文化的な環境に生じた何かの変化がもたらしたものだろう。それも興味ある課題であるが、今は措くとして、当時の詩僧の一人であった斉己は、これもよく知られた晩唐の詩人鄭谷[ていこく]に自作の詩を呈した。斉己の「早梅」の詩に、

 前村深雪裏  前村 深雪の裏[うち]
 昨夜数枝開  昨夜 数枝開く

 という句があったのに対して、鄭谷は雪のなかに開いた早咲きの梅なのだから、「数枝」よりも「一枝」がよいと語った。感服した斉己は鄭谷を「我が一字の師なり」と言って師事したという(『唐才子伝』巻六など)。一字を改めただけで見違える詩になったというのである。最初に開いた梅だから「数枝」より「一枝」にすべきだという鄭谷の助言はいささか理屈っぽいが、たしかに「数枝」よりも「一枝」のほうが視点が一点に集中して、より効果的ではある。まだあたり一面に深く積もったままの雪、そのなかに一枝だけ、雪片と見まがうかのような梅の花が混じっているのを見つけた喜び――斉己が詠じた梅は紅梅ではなく、白梅のほうだろう。

 梅の「一枝」は典故をもつ語でもある。元になるのは、タイトルに掲げた陸凱[りくがい]の詩。

 折花逢駅使  花を折りて駅使に逢う
 寄与隴頭人  寄せて隴頭[ろうとう]の人に与う
 江南無所有  江南 有る所無し
 聊贈一枝春  聊[いささ]か贈る 一枝の春

 梅の花を手折って伝令に托し、北方隴山[ろうざん]の人のもとへと届ける。ここ江南の地には何もない。せめて一枝の春をお贈りしよう。

 この詩を記す『荊州記』[けいしゅうき]によると、陸凱は長安にいる親友の范曄[はんよう]に江南の地から梅の一枝とこの詩を送ったという。長安と違って江南にはこれといってお贈りするほどのものは何もない。ただ春の訪れは早い。貴地にはない梅の花を心尽くしの品として送り届けよう。遠い地にいる友への思いを伝えるには、典雅な梅の花がふさわしい。梅の花は二人の清らかな友情のしるしでもある。
 「一枝の梅」と言わず、「一枝の春」と言うのもよい。人への贈り物は金品に代えられない物にこそ気持ちがこもる。ましてや「春」という贈られない物、北方の地で待ち望まれる物、それを一枝の梅の花によそえたところは、それを受け取る人の喜びも伝わってくる。
 「隴山の音信」として知られるこの故事は、その後も詩のなかによく用いられる。たとえば初唐の詩人宋之問[そうしもん]が左遷された地に向かう途中の「大庾嶺[だいゆれい]の北駅に題す」という詩には、南の果てに横たわる大庾嶺を前に臨んで、雁さえもここで引き返すという山嶺のさらに南へと進まねばならぬ旅を嘆き、最後の二句をこう結ぶ。

 明朝望郷処  明朝 郷を望む処
 応見隴頭梅  応[まさ]に見るべし 隴頭の梅

 明日、いよいよ大庾嶺に足を踏み入れて故郷を眺めやれば、そこには隴頭の人に贈ったというあの梅の花が咲いていることだろう――ここでの梅は、早い春を見つけた喜びどころではなく、最果ての地のわびしさを募らせるものでしかない。
 ところで元になる故事の、梅一枝を贈られた范曄は南朝宋の人で、今通行する『後漢書』の撰者として知られるが、贈った陸凱という人物はよくわからない。陸凱といえば、三国呉の武将であり宰相でもあった陸凱が名高いが、范曄より二百年も前の人である。
 具体的に誰にまつわる話柄なのか、はっきりしないだけではない。話の出所も今は『太平御覧』が引く『荊州記』によるしかないが、これだけよく知られているのだから別の本のなかにあったのかも知れない。南宋の陸游は『文選』に見えると誤解している。『老学庵筆記』(巻八)のなかで、『文選』のなかの語彙をやたらに使っていかにも詩らしく見せかける弊害を説くなかで、「梅」のことを気取って「駅使」などと言い換えていると難じているが、『文選』にこの詩や故事は見えない。話の素性はあやしくても、陸凱の詩句と友情の佳話は人々の心をつかみ、それゆえにのちのちまで伝えられたのだろう。梅の花を「一枝の春」にこと寄せて友に届けたこの話は、梅を語る言葉のなかでも梅の清らかな美しさを最もよくあらわした一つである。

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