当館では、『大漢和辞典』を始めとする漢和辞典を発行する大修館書店が、漢字や漢詩・漢文などに関するさまざまな情報を提供していきます。

読み物

連載記事

第一部 『大漢和辞典 巻一』刊行と原版焼失まで  ――1926(大正15)年~1945(昭和20)年 その1

■諸橋轍次と松井簡次

 大正末期のある日、諸橋轍次のもとに二人の来客があった。一人は水野弥作(当時、東京高等師範学校附属中学校教諭)であり、もう一人は藤木源吾(当時、東京高等師範学校教諭)である。二人の来意は、自分たちが関係している大修館書店の店主、鈴木一平氏が漢和辞典を出版したいと言っている、一度会って話を聞いてはもらえないだろうかというものであった。水野はこの時すでに『教科参考と受験の準備 植物学の講義』、藤木も『教科書通用並に受験準備 物理学の講義と問題の正しき解き方』など、それぞれ数冊の受験用学習参考書を大修館書店から出していた。

  最初に一平から相談を受けたのは水野であったが、その相談の内容というのは、「国語辞典では、『言泉』(落合直文編、大倉書店刊 1921)、『大日本国語辞典』(上田万年・松井簡治共著、冨山房 1915)、『言海』(大槻文彦著、冨山房 1889)など大きいものがあるが、漢和辞典にはそれに匹敵するものがない。『漢和大辞典』(重野安繹・三島毅・服部宇之吉監修、三省堂編 1903)や『詳解 漢和大字典』(服部宇之吉・小柳司気太共著、冨山房 1916)など一冊物の漢和辞典はあるが、これ以上いいもの、大きいものがつくれる編者はいないものだろうか。」というものであった。水野は『大日本国語辞典』のケースを思い浮かべた。冨山房から出たこの辞典は、明治38年に編纂が始まって大正4年に第一巻が出たが、最終巻の索引が出たのは昭和に入ってからであった。上田万年との共著となっているが、実際には、「松井博士は(編纂発行の話がまとまる)すでに十余年前より独力編集に従事せられ、何万という古今の主要なる書冊について国語の五十音索引を作製しておられたのである。博士は車の上でも電車の内でも、いつお目にかかっても、校正から目をはなしておられることはなかった。」(坂本嘉治馬『出版人の遺文 冨山房』)とあるように、松井簡治の単著といってよい。松井は轍次が東京高等師範学校に入学したときの学級主任であったが、『大日本国語辞典』の編纂が本格化していったのは、轍次が入学したちょうどその頃からのことであった。後に松井は、昭和18年に『大漢和辞典』巻一が発行されたときの内容見本の中で「時々その進捗情況を聴いて、辞書編纂者のみが知る苦心談を交したことも一再ではない。」と書いているが、松井の存在は、轍次にとって心強いものであったに違いない。現在、小学館から発行されている『日本国語大辞典』は、この『大日本国語辞典』を引き継いだもので、松井簡治・驥・栄一の三代にわたって蓄積されたカード資料が基になっている。因みに、1972(昭和47)年から刊行された初版(A4判・全二十巻)の扉とケースの文字は轍次の筆によるものである。

 『大日本国語辞典』の仕事をみても、辞書の仕事は最低十年、いや二十年はかかるであろう、少壮で学殖が深く、根気強い性格の人間……。水野は、東京高等師範学校漢文科主任になったばかりの諸橋轍次を推薦した。轍次は四十四歳であった。

■「訓導さま」の家

002_1_生家

諸橋轍次の生家

 「私は新潟県南蒲原郡下田村で生まれた。三条市から山奥五里もある僻地である。今でこそバスもあり町との交通もさほど不便とは感じないが、子供のころはどうしても舟にのって出かけるか、歩けば一日がかりで行かなければならぬところであった。」(「私の履歴書」昭和40年、日本経済新聞連載)。

 諸橋轍次は、1883(明治16)年6月4日、現在の新潟県三条市庭月に、父安平と母シヅの次男として生まれた。鈴木一平より四歳年上である。庭先からは名勝八木ヶ鼻が眺められた。「舟にのって出かける」とあるのは、近くを流れている五十嵐川(「五十嵐」は「いからし」と読む)を舟で下って三条に行くということである。今でも轍次が生まれた当時とそれほど変わりがないのではと思えるほど、風光明媚なところである。
 祖父、父ともに轍次の生まれた庭月の家で私塾を開いていたこともあって、五歳のころには『三字経』の素読、七歳で『論語』を習った。今も残る生家に隣接して建てられた諸橋轍次記念館にはその『三字経』が展示されている。当時、伝統的な中国の初学者用テキストとしては『千字文』とともに最もポピュラーなものであった。なお、『三字経』については漢字文化資料館でその全文をみることができる(参考:漢字文化アーカイブ)。

002_1_八木ヶ鼻

諸橋轍次記念館庭園から八木ヶ鼻を望む

 1896(明治29)年、十四歳で尋常小学校の小学四年、補習科三年を卒業した轍次は、隣村の静修義塾に入る。塾生は二十人ぐらい、寄宿生が四、五人いた。塾のすぐ下には五十嵐川が流れ、八木ヶ鼻の奇崖を間近にみることのできる景勝の地に在った。轍次はそこで塾主であった奧畑米峰と起居を共にし、『書経』『詩経』…などの五経や『左伝』『史記』、さらには『文選』などを学んだ。江戸時代、現在の大分県日田市に私塾「桂林荘」を開いた広瀬淡窓(1782-1856)の漢詩に出てくる、「君は川流を汲め 我は薪を拾はん」(「桂林荘雑詠」)そのままの塾生活であった。
 1899(明治32)年、十七歳のときに轍次は塾を去って庭月の家からは三十キロほどのところにあった小古瀬村小学校の代用教員を一年間努めた後、十八歳で全寮制の新潟第一師範学校に入学する。入学資格の年齢に達したからであった。明治五年に東京師範学校が設立され、翌六年には大阪・仙台、七年には名古屋・広島・長崎・新潟にも師範学校ができた。轍次の父は新潟師範学校の第二回生で、卒業したのがわずか十七名であったという。当時、まだ訓導の数が少なかったせいか、明治五年に小学校令が布かれて地元に長野校ができたときも、轍次の祖父も父もそこの校長であったせいか、「訓導さま」というのが轍次の家の屋号になっていた。

 1904(明治37)年、轍次は二十二歳で東京高等師範学校国語漢文科に入学する。
 村では最初の東京への遊学生ということもあって、村の主だった人は袴を着けて村はずれまで見送ってくれた。三条までは信濃川の支流である五十嵐川を舟で下り、三条から汽車に乗ってその日は上田(長野県)に一泊、翌日東京に着いた。
 「越後の田舎から来てみると万事がちょっと違う。……当時の寄宿舎は今の湯島の聖堂のわきにあって、学校とはちょっと離れていました。その生活は新潟師範と違って全く自由です。……湯島の寄宿舎から大塚の学校まで約一里あるので、途中ミルクホールへ入って少し食べるのが精いっぱい。ほかに何か会をやるといっても、それは本郷の江知勝という牛肉屋。一人前三十銭か五十銭ぐらいであったと思う。あと遊ぶものといえば、娘義太夫を聞くくらいでした。当時芸もりっぱであり、美人でもあった娘義太夫に小さとという人がありました。後年紫綬褒章の制ができた第一回目に、私もその人と一緒に受章しました。芝居見物は少し金が掛かるので、めったには見られませんが、本郷に本郷座というのがあって、そこで『魔風恋風』の初舞台などを見ました。まあ当時の学生の遊びというものは、だいたいそんなものでしかなかったようです。」(『諸橋轍次著作集』第二巻月報)

  校長は、講道館柔道の創始者嘉納治五郎(1860-1938)であった。教授陣はといえば、国文には萩野由之(1860-1938)、そして冨山房との間で本格的に『大日本国語辞典』の編纂事業が始まろうとしていた松井簡治(1863-1945)がいた。松井は、轍次の学級主任でもあった。漢文には、『元朝秘史』の邦訳で知られる那珂通世(1851-1908)らの大家のほか、宇野哲人(1875-1974)、鈴木虎雄(1878-1963)などの若い先生方もいたが、すぐに宇野は東京帝国大学へ、鈴木虎雄(豹軒)は新設間もない京都帝国大学文学部に赴任していった。轍次は鈴木の印象を、「豹軒先生などは質問すると赤い顔して居られました。」(「回顧 学問の思い出」(『東方学』第二十七輯 昭和39年)と語っている。興膳宏が、「鈴木虎雄は新潟県の出身で、祖父の開いた漢学塾長善館で薫陶を受け、東京帝大を卒業してのち、創設間もない京都大学文学部に赴任して、長く中国文学講座の教授を務めた。数ある研究業績の中でも、特筆されるのは中国文学理論研究という新たな領域を開拓し、また唐の詩人杜甫の詩一四〇〇首余りにきめ細かな訳注を施したことである。ことに杜詩の全訳注は、いまなおわが国唯一のものである。」(「中国文学研究の先駆者」『杜甫のユーモア ずっこけ孔子』所収、岩波書店 2014)と書いているように、鈴木虎雄もまた新潟県は現在の燕市の出身である。漢詩人としての号を豹軒(ひょうけん)といい、生涯に一万首に近い数の漢詩を作っている。『詳解 漢和大字典』の小柳司気太(1870-1940)もまた新潟県三条市の出身で、鈴木虎雄と同様に私塾長善館に学んでいる。小柳司気太は同郷の先輩ということもあってか、轍次は上京するとすぐに司気太のもとを訪ねている。

 1908(明治41)年、東京高等師範学校国語漢文科を卒業するとすぐに群馬県師範学校に赴任するも、その在職はわずか一年であった。この年、母シヅが五十三歳で没した。十人の子どもをかかえながら、昼は家事のほかに裁縫を教え、夜になると子どもにせがまれて「西遊記」「弓張月」「南総里見八犬伝」などを語って聞かせてくれた母であった。 1909(明治42)年、東京高等師範学校漢文研究科に入学、同時に附属中学校国語漢文科の授業も受け持つことになった。
 翌年(1910)、研究科を卒業、卒業論文は『詩経研究』として1912(大正元)年に目黒書店から出版された。卒業と同時に東京高等師範学校助教諭となり、同じ年の11月、新潟県山本庄左衛門の長女キン子と結婚する。轍次二十八歳であった。1918(大正7)年、父安平が六十六歳で亡くなった。一歩も故郷を離れることなく、一訓導としての生涯を全うした父であった。

■殷墟を訪れた最初の日本人?

002_1_中国留学

中国留学の頃の諸橋轍次

 附属中学校で教える傍ら、東京高等師範学校の教諭になっていた轍次は、1918(大正7)年、三十六歳のときに念願の中国に行く。「当時の私のおもなる希望は清朝時代の旧学者に接してその風格を偲び、でき得ればその学風の一端を知りたいとうことにあった…」(前掲「私の履歴書」)。このときは二ヶ月間ほどであったが、清朝が亡びて既に民国七年になっており、そのときに接した清朝以来の旧学者、いわゆる遺賢と称せられる人たちもやがて跡を絶つのではないかと危惧した轍次は、翌1919(大正8)年の9月から1920(大正10)年の8月までの二年間、二度目の留学を果たす。この間、蔡元培(1868-1940)、王国維(1877-1927)、胡適(1891-1962)、周作人(1885-1967)、康有為(1858-1927)などの学者と面談する一方で、轍次は精力的に中国全土を旅行している。著明な名所旧跡はもちろんのこと、孔子とその弟子、孟子、陶淵明、王陽明などの墓地巡りもしているが、案外知られていないのが、おそらく殷墟を訪れた最初の日本人ではないかということであろうか。このとき、轍次は東京高等師範学校の教授だった林泰輔と一緒であった。
(編集部注:『漢文教室クラシックス』 「漢学界の回顧十一」で、留学時代の様子が述べられています)

 林泰輔(1854-1922)は、日本における甲骨文字研究の先覚者の一人である。成家徹郎の「日本人の甲骨研究―先駆者・富岡謙蔵と林泰輔」(『しにか』、大修館書店 1999)によると、1909(明治42)年に林が『史学雑誌』に発表した「清国河南省湯陰県発見の亀甲牛骨に就て」という論文は日本人による甲骨に関する著述としてはもっとも早いものだという。当時、中国で王国維・董作賓(1985-1963)・郭沫若(1892-1978)とともに「甲骨四堂」と称され、日本にも来たことのある甲骨研究の第一人者羅振玉(1866-1940)は、この論文に刺激されて『殷商貞卜文字考』を書いた。一度殷墟に行って、できれば発掘したいとかねてから考えていた林は、轍次が中国旅行をすると聞いて是非同道してくれと頼んだ。轍次にしてみれば、いささか迷惑な話だったようである。
 「私の計画を聞くと、同じく高等師範の教授であった林泰輔博士が同行したいと言い出した。博士は当時、亀甲獣骨文字の研究を始めておられたので、その研究のためにどうしても河南省の殷墟に行きたいというのでありました。実は私は一人で自由行動を取りたいとも思いましたが、博士の希望にも同感されるので、つい一緒に行くことになりました。」(『諸橋轍次著作集』第六巻月報)
 「漢口まで行く途中、同行の林博士が怪我をされて、上海で治療するということになり、私は十日ばかりあっちこっち飛び歩きました。そのとき中野正剛君と一緒になって、若い者同士、勝手な議論をしていました。漢口に行っていよいよ殷墟踏査の下調べをしたのですが、瀬川という老領事が居て大変よく世話してくれました。林博士はまだ旅行が不自由のようでした。今から考えると、その時のお年は六十になったばかりなんだからもっと元気でいいわけだが、そうはいきません。元来身体の弱い方ですし、それに怪我された後でしたから。それでもどうしても彰徳には行こう、と言ってききません。……ところが彰徳は、当時有名な土匪(どひ)の多いところでありましてね。それでも領事の紹介があったので、県知事もよく世話してくれましたが、実はその時は一晩泊まって、翌日ちょっと殷墟を見学した程度でした。」(「学問の思い出」『東方学』第二十七輯 1964)
 図らずも二人は殷墟を訪れた最初の日本人ということになるのだが、成果の方はあまりなかったようである。甲骨文字が発見されてからすでに二十年経っており、偽物も出回っていたころであった。その後、轍次は二度目の留学中、大正9年と翌10年にも殷墟を訪れている。細川侯爵が費用を出すから、発掘が出来るかどうか、実地の調査をしてくれという林の依頼によるものだったが、いずれも折からの五・四運動による排日や土匪の襲来などがあって発掘どころではなかった。轍次は、「ただ、私はその時分は、その方面にあまり興味がなく、また知識が全然なかったものですから、折角三度も行っておきながら、自分としては何等得るところはありませんでしたが。」(前掲「学問の思い出」)と率直に述べているが、もし、轍次がこのとき甲骨文字に関心を持っていたとしたら『大漢和辞典』は果たしてどのようなものになっていただろうか。

 1921(大正10)年8月、轍次は二年間の中国留学から戻ると翌9月には東京高等師範学校の教授となった。1926(大正15)年には漢文学科主任となり、國學院大学、大東文化学院、駒沢大学でも教えていた。

 一平が水野の紹介状を持って轍次のもとを訪れたのは、1927(昭和2)年のことである。

  • facebookでシェア
  • twitterでシェア

おすすめ記事

写真でたどる『大漢和辞典』編纂史

体感!痛感?中国文化

『漢文教室』クラシックス