以前の漢字文化資料館で掲載していた記事です。2008 年以前の古い記事のため、ご留意ください。
Q0110
「散見」という熟語は、国語辞典では自動詞として出ていますが、「~に散見する」「~に散見される」「~を散見する」という3つの使い方があるように思います。どれも正しいのですか?
A
小社から刊行されている北原保雄編『明鏡国語辞典』は、ことばの用い方についてかなり厳密な記述をこころがけた国語辞典ですが、この辞典でも、「散見」は自動詞として説明されています。自動詞というものは元来、目的語をとらないものですから、そこからすると「~を散見する」という言い方はおかしい、ということになります。
また、目的語をとらないのに受動態になるというのもふつうではないので、そういう考え方からすると「~に散見される」というのもおかしい、ということになります。しかし、こちらの方はよく見かける表現ですし、日本語の場合、自動詞の受動態というのも少なからずあります。したがって、「正しい」度合いとして「~に散見する」が1番高く、「~に散見される」は中くらい、かなり低いのは「~を散見する」という感じになるでしょうか。
と、ここまでは国文法的な説明。一方、漢字の方から見ると、どうなるのでしょうか。
「見」という漢字には、本来、「みる」「みえる」の両方の意味があります。前者は「私は富士山を見る」というように、見ている主体が主語となります。後者は「私には霊が見える」というように、見られている対象が主語となります。つまり、前者が能動態だとすると、後者は受動態のような関係になっているのです。
そこで「散見」ですが、この語は「散」らばった状態で「見」えるわけですから、「見」は「みえる」の意味で用いられています。とすると「散見」はそれ自身で、受動態のような意味を持っていると考えられないでしょうか。やはり、「~に散見する」というのが、1番「正しい」という結論となります。
ちなみに「見」という字、熟語になる場合には「みえる」という意味で用いられていることが多く、他には「意見」「偏見」などの「見方、考え」などの意味はありますが、能動的に「みる」という意味で用いられることはあまりない、というのが私の印象です。