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人間に在りと雖も人識らず、君の与に名づけて紫陽花と作す――白居易「紫陽花」

 新緑が光を浴びて輝く初夏は最も気持ちのいい季節、しかし日本では長くは続かない。いくばくもなく梅雨に入ってしまう。陰鬱な雲に蔽われるそんな時期、唯一アジサイの藍色が目に快い。雨に濡れるアジサイは、梅雨の時節にこそふさわしい。湿潤な日本の風土に適しているのだろうか、あちこちにアジサイの名所がある。宇治の三室戸寺、鎌倉の明月院、いずれも古都のあじさい寺として名高い。
 アジサイの一種の学名のなかに入っているotakusaは、幕末に日本に滞在したオランダの博物学者シーボルトが日本人の妻「お滝さん」の名から取ったことはよく知られている。アジサイ博士ともいうべき山本武臣の好著『アジサイの話』(八坂書房、1981)にその経緯が詳しく語られている。お滝さんに対する、そしてアジサイの花に対するシーボルトの愛着の思いがよく伝わってくる佳話である。
 もっとも、永井荷風は心変わりする娼妓を描いた小説の題名を「あぢさゐ」と名付けている。それはアジサイが土によって花の色を変えるためだろうか。リトマス試験紙と反対に、酸性の土壌では青、アルカリ性では赤になると言われる。清楚であると同時に花の色が多彩であることもアジサイの魅力なのに、多情の隠喩に使われてしまっては、アジサイに気の毒だ。
 アジサイは漢字では「紫陽花」と書かれる。紫陽花は白居易が命名したものという。しかしこれも山本氏の著書によれば、平安時代の三十六歌仙の一人である源順[みなもとのしたごう]が紫陽花を誤ってアジサイに当てたものだという。日中の植物の名を同定するのはむずかしい。さすらいの身の比喩としてよく使われる「転蓬」の「蓬」はヨモギではないし、高潔で香り高い花としておなじみの「蘭」は、現在のあでやかなランとはまるで別物、といった例は少なくない。日本の花木は中国原産のものが多いが、アジサイは日本の固有種であって、西欧のアジサイはすべて日本から移植されたものであるというから、中国の紫陽花もアジサイでないのだろうが、ではそれが何の花であったのかはわからない。アジサイという日本語はとても響きがいいし、紫陽花の字面もいかにもアジサイにふさわしそうに見える。ちなみに今の中国語では「繡球花」[しゅうきゅうか]と呼ばれる。刺繍を施した手毬――名を聞いただけですぐアジサイとわかる。

 

 紫陽花の名付け親、白居易の「紫陽花」という詩には、以下のような自注が付されている。

 招賢寺に野生の花樹が一本あり、その名を知っている人がいない。色は紫、香りたかく、かぐわしい美しさが好ましい。まるで仙界の花のようだ。そこで「紫陽花」と名を付けた。

 「紫陽」は道教にまつわる語で、道教徒や道観(道教寺院)の名に「紫陽」とつけることが多い。そして詩は七言の絶句。短い詩であるし、白居易の詩のなかで特に知られているわけでもないが、それでも読み直してみれば味わいに富む。

 何年植向仙壇上  何れの年にか仙壇の上に植えたる
 早晩移栽到梵家  早晩[いつ]か移し栽えて梵家[ぼんか]に到る
 雖在人閒人不識  人間[じんかん]に在りと雖も人識らず
 與君名作紫陽花  君の与[ため]に名づけて紫陽花と作[な]す

 どの時代に仙界に植えられたものなのだろう。いつお寺に植え替えられたものなのだろう。
 人の世にいながら誰も知らない。君のために紫陽花と名付けよう。

 

 「仙壇」は仙界の祭壇、仙人の住む場をいう。「向」は「向かう」ではなく、「於」(……において)と同じく場所をあらわす前置詞。「早晩」は「何年」と同じく、時間の疑問詞。「梵家」は仏教の寺院。杭州郊外の招賢寺はもともとは道教寺院であったのが、白居易の訪れた時はすでに仏教のお寺に変わっていた。「人間」は中国で「にんげん」の意味になることはなく、人の住む世間、俗界の意味。「与」は「為」と同じく、「……のために」。
 招賢寺に自生する花に目を留め、それに「紫陽花」という名前を付けた詩である。そこが元は道観であったことから、この花も本来は仙界の花であったという。転変を経て今は人間世界にいても、世俗の汚れに染まることなく、清浄な姿を保っている。しかし誰も名も知らず、目を向けることもない。紫陽花は天界から人界に降りて来た天女になぞらえられている。とすれば、招賢寺の紫陽花は天女降臨譚に連なることになる。
 人界に降りて来た天女は常に不幸である。紫陽花も幸薄く、人の世に身をやつすこととなり、しかも人々に珍重されることもない。そんな花に白居易は心を寄せ、せめてもの思い遣りに美しい名を与えたのだった。気高さをまといながら、ひっそりと自分の生をひとり営んでいる花、それを慈しむ白居易の気持ちが籠められている。
 「紫陽花」の詩が作られたのは、長慶四年(八二四)、五十三歳の時。白居易は杭州刺史(長官)の任にあった。それに先立って、五十歳を前にした時、彼は田舎の忠州から都に呼び戻され、朝廷に返り咲いた。宰相に昇る階梯に一歩踏み出したのである。しかし五十一歳の時、生涯の友である元稹[げんじん]が宰相となったものの、宦官と結託して得た地位だと囂々たる非難を浴び、ほどなく元稹は罷免されて地方に出された。朝廷におけるこの騒動について、白居易自身は何も語っていないが、推測すればこれを機として彼は政界への意欲を失ったのではないだろうか。宰相にという声もあったが、自分から外任を求めている。朝廷を離れて移ったのが杭州刺史であった。政界の人間関係には嫌悪を覚えたにしても、行政の仕事に意欲を失ったわけではない。杭州は当時はまだ新興の町であり、水害に絶えず苦しめられていた。白居易は治水の工事に取り組み,今も杭州の西湖にその名をのこす「白堤」を築くなど、刺史として功績を挙げた(ただし現在の白堤は後世に作られたもの)。一方で江南の風物を存分に楽しんでもいる。招賢寺を訪れたのも、当時の行楽の一つだっただろう。
 招賢寺の花に目を留めたのは、白居易がそのような時期にあったことと無縁ではない。紫陽花は白居易そのもの、というのは短絡に過ぎるにしても、世間の喧噪から離れ、ひそやかに花を咲かせている名もない花に哀憐の情を注ぐのは、こんな時期であったからこそひときわ心に染みたのだろう。

 白居易が名付けた紫陽花が、のちの詩人にうたわれた例はなかなか見当たらない。植物の名と詩文の用例を網羅した『広群芳譜』にも紫陽花の項目はないから、紫陽花は杭州招賢寺から出て、詩に定着する題材とはならなかったようだ。しかし人知れず咲く名もない花に目を留め、辺地に遣られた自分と重ね合わせてうたう詩はその後も続く。柳田国男の体験を聞いて島崎藤村がうたったという、名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実、その詩情にも遠く紫陽花の哀感が響いているかも知れない。


(c)Kawai Kozo, 2021

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