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漢字を再利用した大槻玄沢

 ほとんどの医学用語は漢字二字以上で表される。しかしこの連載では、一字で表される、特に廃れてしまった用語をよく取り上げている。先人たちはでたらめに難しい字を使っていたわけではなく、もちろんのことながら、そこにはある程度パターンがあった。今回はそれをふりかえりつつ、たびたび登場している大槻玄沢の漢字の使い方を見てみよう。

 西洋の概念を漢字一字で表すことについては、沈国威氏の研究があり、表したい意味と漢字の関係から、分類を行っている。沈氏の分類をアレンジして、筆者は以下の四つに分けて考えている。

①もともとある漢字語に対応するものがあって、それを使用するもの。例)肺、骨
②あまり使われなくなった字を使い、その字のもともとの意味を拡張して使用するもの。例)腱、䐃(腺の回を参照)
③あまり使われなくなった字を使い、その字の意味を無視して、会意文字のように再解釈して使用するもの。例)腟、𦣇(腺の回を参照)
④新しく字を造るもの。例)腺、膵

 ①~④は、まったくばらばらの四つではなく、緩やかにつながっている。例えば①の肺を例にとると、漢方医学でいう「肺」と西洋解剖学でいう「肺」は、機能などを含めるとぴったり一致するわけではなく、多少のずれがある。使い古された言葉だと意味のずれがどうしても生じ、混乱しやすくなるので、あまり使われない字を引っぱり出してきて使うのが②だ。「あまり使われない」も「意味のずれ」も程度問題なので、①と②の違いはあいまいだ。とはいえ人体を表す字の数にも限界があるので、元の字の意味を無視して会意文字のようにして意味を与えるのが③、もともとあるかどうかにこだわらなくなると④というようになる。
 だれもが①~④すべてを駆使して翻訳しているわけではない。おおざっぱにいって、『解体新書』は基本的に①を、大槻玄沢の『重訂解体新書』は①のほかに②、③を使う。一方で宇田川榛斎の『医範提綱』では②、③を避けて、主に①と④を採用した。これまで出てきた安藤昌益は③か④かを気にせず字を使っており、野呂天然は②と③を突き詰め、海上随鴎は④に突き進んだ、といえるだろうか。現代に残っているのは①が大多数なので、②、③、④の多くは廃れてしまったことになる。このうち②と③に共通するのは、「あまり使われなくなった字」を使う、つまり漢字を再利用する、ということだ。

 大槻玄沢は、杉田玄白、前野良沢の弟子にあたる。「玄沢」の名前は「玄」白と良「沢」から一字ずつとったといわれることがあるが、杉本つとむ氏によればそうではなく、故郷岩手県一関の地名「黒沢」をもとにしてつけたと、玄沢自ら述べていたようだ。玄沢は芝蘭堂という塾で多くの門生を育て、『蘭学階梯』という入門書を書いた。また杉田玄白から『解体新書』の改訂を頼まれ、『重訂解体新書』を世に出した。その改訂作業の中で『解体新書』で使われた訳語をブラッシュアップしていて、その訳語の多くは後世にも残ることになった。張哲嘉氏によると玄沢は、医学書をふくめて漢籍をかなり網羅的に探し、ふだん使わないような言葉まで探し出して訳語にあてていたようだ。その作業のなかで、使われなくなった漢字の再利用が行われていた。

 玄沢がどんな字書をみながら漢字を再利用していたのか、いくつか具体的に見てみよう。

「肊」
 「肊」は「肋骨の間の肉」の意味で使われており、「字書於力切。胸肉也」と字書の記述を引用している。どの字書なのか探してみると、『康煕字典』『正字通』『五音篇海』など多くの字書には「胸肉」ではなく「胸」や「胸骨」と載っている。しかし『字彙』を見ると「胸肉」とあり、玄沢はこれを引用したのだろうとわかった。表したい意味に合わせるために、同じ字でもいくつも字書を引いて、ちょうどいい解釈を探していたのだろう。

・「
 「」は乳頭、つまり乳首の意味で使われている。『玉篇』という字書を引用しているので、広く使われていた宋代の増補版『大広益会玉篇』を見たが「」が載っていない。さらに調べると、この字は毛利貞斎の『増続大広益会玉篇大全』(1692年)に「チ」「チクビ」の訓とともに載っていた。この書は『玉篇』以外に数多くの字書などを参考に作られたもので、「」は参考にされた書籍のうち『字彙補』などから採られたもののようだ。とすると出典を「玉篇」としていいのか微妙なところだ。『康煕字典』や『字彙』などの字書には、この字が載っていないか、この意味は見いだせないので、これも探し出して使ったものなのだろう。

・「㳶」
 「㳶」は「乳汁」の意味で使われている。玄沢は「字書」と「左伝(『春秋左氏伝』)」から「楚人謂乳為㳶(楚の人は乳を「㳶」という)」という文言を引用しているが、『春秋左氏伝』の該当箇所(宣公四年)には「楚人謂乳穀」とあるので、張氏はこれを誤りだとしている。この記述は『正字通』という字書に見つかった。『正字通』には「一説左伝楚人謂乳為㳶」と載っており、「㳶」を乳汁とする意味も載っている。ほかの字書では「㳶」の意味を「水の名」などとしていて、「乳汁」の意味は載っていなかった。
 ちなみに『正字通』では、『春秋左氏伝』の文言について「㳶一作㝅」といい、「㝅」とも書くことを示している。「㳶」と「㝅」とは、音が同じであり、『説文解字』には「㝅」に乳の意味が載っているので、このように書かれているのだろう。段玉裁[だんぎょくさい]が記した注釈書『説文解字注』では、「左伝曰、楚人謂乳㝅、〔中略〕漢書作穀、〔中略〕皆非也」といい、『漢書』では「穀」と書くが、そうではなく「㝅」だということを述べている。これで「穀」と「㳶」とがつながり、『正字通』が大きく外れたことを言っていたわけではなさそうだということがわかる。玄沢がどこまで把握してこの字を使ったのかはわからない。さんずい+「乳」なので、字面から「乳汁」の意味を連想しやすい字であり、そこからちょうどいい記述を探したということかもしれない。

・「腟」
 「腟」は「肫」「𦣇」とともに、玄沢が採用した数少ない③の例だ。「腟」「肫」「𦣇」はそれぞれ「肉が生ずる」「鳥の胃」「ロバの下腹の肉」といった意味のある字だが、旁をそれぞれ「室(さや)」「屯(あつまる)」「羅(水羅:ふるい)」のように意味を持たせて会意文字のようにとらえなおしている。「腟」は後の回でとりあげる予定なので、ここでは音についてみると、玄沢は「腟」を「シツ」と読ませている。字書では、『字彙』『正字通』によると「シツ」だが、『康煕字典』『五音篇海』によると「チツ」となる。玄沢は「シツ」を選んだ理由を明らかにしていないが、「月(肉)+室」の会意という解釈をしたため「室(シツ)」に合わせたのではないかと考えてしまう。

 玄沢は、漢字を再利用するにあたって、字書のオーソドックスな解説を参考に訳語を造るものもあった(「腱」など)。しかし上の例をみると最終的に参考にしている字書はばらばらだ。たくさんの字書を見比べて、自分の表現したい意味に近いものが一つでもあれば、それを使っていくというスタンスをとることもあったようだ。逆にそこまでしないと、既存の字を使って翻訳するのは困難だったということかと思う。既存の漢字語にこだわるのは、訳語の正当性、伝統とのつながりをアピールできる大原則であったことを沈氏は指摘している。これら漢字の再利用の努力は、結局のところほとんど報われなかったが、その苦心をしのぶことはできるだろう。

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[参考文献]
沈国威 (2007) 「蘭学の訳語と新漢語の創出」『19世紀中国語の諸相』 p.217-261
杉本つとむ (1981) 「蘭学の推進と蘭語学習の指導」『江戸時代蘭語学の成立とその展開』第Ⅳ部 p.403-486
張哲嘉 (2013) 「《重訂解体新書》訳詞的改訂与方法」『東アジアにおける知的交流』 p.225-235

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