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黒雲 城を圧して 城摧けんと欲す、甲光 月に向かいて 金鱗開く――李賀「雁門太守行」

 明治改元の直前に生まれた夏目漱石は、子供のころから漢籍に親しみ、大学に入って初めて英文学に触れた時、それが自分なりに捉えていた「文学」と違うのに困惑したことを、『文学論』の「序」のなかで記している。困惑というより、失望、さらには絶望というべきかも知れない。「英文学に欺かれたるが如き不安の念」を生じ、東京を離れ、松山へ、そして熊本へと遷ったのだった。
 漱石のこの挫折を、これまでわたしは中国における「文学」と西洋の「文学」との衝突から生じたものだと思い込んでいた。それはもっと拡げれば、漱石終生のテーマとなる東洋・西洋の角逐にも行き着く。
 しかし今、引用のために『文学論』を開いてみて、別の問題もあるのではないかと思い当たった。それは当時の大学で講じられていた「文学」に失望したのではないかということだ。英文学から遠ざかって行く彼をむりやり呼び戻すかのように、イギリス留学が命じられた。にもかかわらず、「大学の聴講は三四ヶ月にして已[や]めたり」、本場イギリスにおける英文学にも落胆したのだった。彼の考える「文学」がどんなものか、それを解明しようとしたのが『文学論』だったのである。
 このように理解すると、『文学論』の「序」には、三つの「文学」が混在しているように見える。「左国史漢」を通して「文学は斯くの如き者なり」と体得していた文学、当時の大学で講じられていた英文学、そして漱石自身が漠然といだいていた文学。その三者の葛藤が、『文学論』に、さらには創作にと彼を駆り立てたのだろうと思う。
 漱石に遅れること二十五年、漱石と同じように子供の時から漢籍に親しみ、同じく東京大学英文科に進んだ芥川龍之介は、「文学」にまつわる漱石の困惑に囚われることはなかった。これは日本近代の四半世紀の間に、文学という概念が変化してきたことのあらわれではないだろうか。
 前置きが横道にそれてしまったけれど、言いたかったのは、中国古典を読書の常道として学んだ世代の人々は、長じてのちに西欧の文学を知って衝撃を覚えた。それに対して戦後生まれのわたしたちにとっては、西欧近代の文学こそが文学であり、のちに中国の古典文学に触れて違和感を覚える、と東と西が逆転したことである。
 ことほどさように、中国の古典詩は日本や西欧の近代詩とずいぶん逕庭がある、というより、どちらも「詩」と呼ぶのが不思議なくらい、違う。そもそも詩人といえば、ロマン派詩人のように若く美しく、繊細な感性がそのまま容貌にあらわれた人でなければならないのに、中国の詩人といえば白い鬚を蓄え、杖など手にした老人ばかりではないか。愛や恋をうたうはずの詩人が、友との別れを傷むのはまだしも、仙界を希求したり山中に隠逸したがったり、およそ若さの要素が欠如しているのが中国の詩だ。
 そんな違いにやりきれない思いをいだく若者にとって、目が覚めるようなインパクトを与えてくれるのが、李賀(791~817)の詩である。「三十未だ有らず二十の余」(「南園十三首」其四)、二十代という人生の一番いい時期に夭折したのも、中国の詩人としては珍しい。

   雁門太守行
 黒雲壓城城欲摧  黒雲 城を圧して 城 摧[くだ]けんと欲す
 甲光向月金鱗開  甲光 月に向かいて 金鱗開く
 角聲滿天秋色裏  角声 天に満つ 秋色の裏[うち]
 塞土燕脂凝夜紫  塞土の燕脂 夜紫を凝らす
 半巻紅旗臨易水  半ば巻ける紅旗は易水に臨み
 霜重鼓聲寒不起  霜重く 鼓声 寒くして起こらず
 報君黄金臺上意  君の黄金台上の意に報い
 提攜玉龍爲君死  玉龍を提携して君が為に死せん

  雁門太守のうた 
 黒雲が城に圧しかかり、城は砕けんばかり。鎧の光が月にはね返り、金の鱗が開く。
 角笛の音が天に満ちる、秋の気配のなか。要塞の土に滲みた臙脂色の血は、夜、紫に凝結する。
 力なく半ば垂れ下がる紅の旗は易水に臨む。霜は重く降り、太鼓の音は凍えて立ち上がらない。
 黄金台を築いて招いてくれた君王の心に報いんがため、玉龍の剣をひっさげ、君王のために死のう。

 

 「雁門」は漢代の郡の名。山西省の最も北部に位置する。漢代では中国の北端であるから、匈奴としばしば戦闘を交えた。そこからもわかるように、「雁門太守行」という楽府は、梁の簡文帝をはじめとして、辺塞の地のいくさと兵士をうたう。時代を漢に設定するのは、詩の通例。
 中国の詩は一般に定型に収まろうとする。それが伝統を形作り、受け継がれていく。しかし李賀の詩は辺塞をうたう楽府詩という点では楽府題の型に沿っているにもかかわらず、詩句の表現はまったく型に収まらない。
 この詩をめぐって、こんな逸話がのこっている。李賀は文壇の雄であった韓愈に詩を呈し、面会を乞うた。仕事を終えて疲れていた韓愈は会う気はなく、帯を解きかけていたが、巻頭の詩の初めの二句を目にするや、あわてて帯を結び直し、白面の青年と謁見したという(『唐摭言[とうせきげん]』など)。この話は冒頭の二句が当時の人々にも強い衝撃を与えたことを伝えている。衝撃は従来の詩から予想される内容や表現から逸脱し、いかに受け止めたらよいのか、読み手を混乱させるにもかかわらず、同時に強く惹き付けもする、そんな時に生じる。
 「黒雲 城を圧して 城 摧けんと欲す」――辺境の町の城塞、その上に黒く厚い雲が覆う、いや、押しつけている。黒雲と城塞との緊張感。せめぎ合いながら、城は押さえ付ける雲の圧力に屈して、今にも粉砕しそうだ。「黒雲は敵軍をたとえる」などと注を施した本があるが、何をたとえているか考える必要はない。まるで黒澤明の映像にでも出てきそうな、異常な緊迫感、息がつまる緊張感、それを感取すれば十分だ。
 「甲光 月に向かいて 金鱗開く」――「甲」は日本では「かぶと」と読むが、本来は「よろい」。「金鱗」とはよろいの「札(さね)」。細長い小さな板をびっしり並べたそれを鱗にたとえる。金属片の一つひとつが月光を浴び、月に向かって鱗が開くかのように光を発する。黒雲に押しつぶされそうな城は、いわば人間が自然に力負けしていたが、よろいの反射は「向かいて」「開く」、人間のほうも能動的だ。
 ところで、この句には字の異同がある。ここでは野原康宏氏の労作『李賀詩集校本』(飈風の会、二〇一四)が底本とする「宣城本」(北宋刊本の影印本、台北国家図書館蔵)によったが、二句目の「月」を「日」に作る本も少なくない。わたし個人は、全体が黒雲に包まれた暗さのなか、月光でよいと思うが、北宋・王安石は「日」としながらも別のことを議論している。彼は黒雲が覆っている時によろいが太陽を反射するなどありえないと、この句の不合理を難じたことが、明・楊慎『升庵集[しょうあんしゅう]』(巻五六)に引かれている。宋人が現実に合致するか否かにこだわるのはよく見られるが、黒雲の覆う暗さのなかだからこそ、よろいが反射する月光なり日光なりが、強烈な光と闇のコントラストを作り出し、異様な空気を生み出しているのだと思う。


 「角声 天に満つ 秋色の裏」は、この詩のなかでは最も穏当な、辺塞詩らしい句といえる。冷気が張り詰める夜空、そこにつのぶえの悲しく透き通った音が響き渡る。つのぶえは辺塞詩でお馴染みのもの。悲哀を誘いながらも甘やかな感傷を帯びることが多いが、ここでは甘さはなくて、音は冷たく透徹する。
 次の句はまた奇抜である。「塞土の燕脂 夜紫を凝らす」――辺塞の地の土が臙脂色をしているのは、兵士たちの流した血に染まったものか。赤黒いそれが夜には紫色に変化して凝結する。血とその色をうたうのは、いかにも李賀の詩らしく鬼気と隣り合わせである。

    *

 このあと、後半にも密度の高い句が続く。今は前半四句を読んだに過ぎないが、中国古典詩のなかにあって李賀がいかに特異であるかは十分に納得できる。そのために愛読する人は少なくない。沢木耕太郎氏は一冊の李賀だけをザックに入れて深夜特急に飛び乗った。三島由紀夫の小説にもどこかに出てきた。専門家でも原田憲雄、草森紳一など、一生李賀に取り憑かれた人もいる。李賀には否応なく人を引きずり込む沼のような魔力がある。

    *

 半世紀も前のこと、李賀を対象とした幼い卒業論文を提出した時、或る先生がこんな逸話を教えてくださった――鈴木虎雄が李賀の訳注を作っていた時(岩波文庫『李長吉歌詩集』上下)、青木正児が「自分より若くして死んだ人の詩など、読む気になれない」と語ったという。だとしたら、今のわたしにはもはや陸游ぐらいしか読める詩人はいないことになる。しかしながら、かく老残の身になり果てても、久しぶりに李賀の集を開くと、昔と同じように胸がざわめくのを覚える。彼の詩は老若を問わず、襲いかかってくる。


(c)Kawai Kozo, 2021

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