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白髪 三千丈、愁いに縁りて箇の似く長し       ――李白「秋浦歌十七首」その十五

 白髪三千丈  白髪 三千丈
 縁愁似箇長  愁いに縁[よ]りて箇[かく]の似[ごと]く長し
 不知明鏡裏  知らず 明鏡の裏[うち]
 何處得秋霜  何[いず]れの処よりか秋霜を得たる

 今回はクイズから始めましょう。
 問題――白髪はなぜ「千丈」なのか?一千丈でも二千丈でもなく、あるいはもっと奮発して五千丈でもなく、千丈であるのはなぜか。

  答えはあっけないほど簡単。平仄[ひょうそく]の配置のためです。五言絶句のこの箇所は平声にすべき所、そして一から十までの数字のうち、平声は「三」しかないから、「千丈」にせざるをえない。「三千」の「千」も、「十・百・千・万・億」のなかで平声は「千」しかないから「三千」。この二句の平仄は、仄仄平平仄、平平仄仄平と教科書どおりにきちんと配列されている(最後の平声の「長」は韻も踏んでいる)。李白の「飛流直[ます]ぐに下る三千尺」(「廬山の瀑布を望む二首」その二)も同じ理由で「三千尺」。こちらの句の平仄は平平仄仄平平仄とこれも規則通り。
 でも平仄の都合で「三千丈」なのだという説明は、あまりにそっけない。なじんでいるからでもあるだろうが、いかにも「三千丈」がふさわしい、それ以外に言いようはない、そんな感じがしませんか?残念なことに、今の研究レベルでは「三千丈」がなぜぴったりした感じがするのか、それを解き明かすところまで達していない。専門家ぶって、これは平仄の規則によるのだと、したり顔をしたくはないけれど、とりあえずはそう答えておくほかない。

 「三千丈」は中国の誇張表現の例としてよく挙げられる。そこからさらに、中国は国土が広大だとか、大人[たいじん]の国だとか、比較文化論へと話がふくらむことがある。しかし、ちょっと待ってください、誇張表現と国や人が大きいことは関係ないはず。「三千丈」にどんな感じが伴うか、それを考えなくてはいけない。
 冒頭にいきなり出てきた「三千丈」は、何よりもまず作者の驚きを伝えている。驚愕ぶりを端的にあらわすのが、この思いっきり大げさな言い回し。気がつけばなんと白髪だらけではないか、という意味に違いないけれど、それよりも「三千丈」という具体的数字、しかも実際にはありえないほどの長さをぶつけたほうが、驚きがそのまま表出される。ちなみに三千丈は、漢和辞典の後ろに付いている度量衡表で計算すると、九千メートル以上になる。
 「驚き」の表現は李白の詩にとりわけ目立つ。李白は囚われのない目で世界を見る。いつも新鮮に世界に接する彼は、まわりの事物のあれこれに驚く。意外さ、面白さ、美しさに満ちた外界は、李白の心を驚きで弾ませる。詩は新たな目で世界を捉え直すことなのだから、李白の驚きはまさに詩の本質につながっている。
 「白髪三千丈」を読むわたしたちは、白髪を延々と長く伸ばした詩人の姿を思い描く。確かにこの句が形象化するのは、そんな映像だろう。が、日本語では白髪が増えた、とは言うけれど、伸びたとは言わない。中国の詩のなかでは髪の多い少ないは、長い短いであらわされる。たとえば「国破れて山河在り」で知られる杜甫の「春望」の詩、その最後の二句は、「白頭 搔[か]けば更にく、渾[すべ]て簪[しん]に勝[た]えざらんと欲す」、白髪頭になっただけではない、冠をとめるための簪、それが髪にとめられないほど頭髪が減ってしまった。ここでも髪の量が減ったのを「短い」と言っている。
 厳密に言えば白髪は長いのではなくて増えたのだけれども、だからといって、「白髪三千本」などと言ったら、なんだか李白が一本二本と白髪を数えているみたいで、やはり詩になりませんね。と考えてみると、「三千」だけでなく、「丈」にも必然性がありそうだ。

 さて二句目、「愁いに縁りて箇[かく]の似[ごと]く長し」――心にいだく憂愁のためにこんなにも長くなった。「似箇」は当時の口語で、「これほどに」という意味。口語は詩語を活性化するためにわざと唐詩に導入されることがあるけれども、詩に入れられる口語も決まった語に限られ、なんでもかんでも取り込むわけではない。ところがこの「似箇」という口語は唐代の詩にはほかに見えない。後世に使われるのは、李白のこの詩によるものだろう。耳慣れない俗語を交えるのは詩の雅趣を壊しかねないが、しかしこれも驚愕をあらわす働きをしている。詩らしい体裁をとる前に思わず口走ってしまった、といったところだろうか。
 白髪がかくも増えたのは「愁い」のためと李白は言う。心にうけた衝撃で一気に白髪に変わることは、エドガー・アラン・ポーの小説『メエルシュトレエムの渦』がよく知られる。小舟が大渦に巻き込まれた漁師はいっぺんに白髪と化す。アレクサンドル・デュマの『モンテクリスト伯』にも一晩のうちに白髪に変わってしまう場面があったように思う。それらは突然の変化だったが、李白の場合は長い間の愁苦のすえの白髪であり、それに今ふと気づいた、突然知って驚いたのだ。

 老いの嘆きは中国の詩でもおなじみのテーマである。そのテーマを具体的なモチーフとして語るのが白髪。西晋・潘岳が「秋興の賦」の「序」で「年三十有二にして始めて二毛を見る」と言って以来、詩人たちは誰しも白髪を嘆く。もちろん李白の白髪も加齢が助長したに違いないけれど、李白は「老いによりて」とは言わず、「愁いによりて」と言う。ではどんな愁いなのか。
 ここに李白と杜甫の違いがある。杜甫の場合、人生のそれぞれの場面において何が愁苦をもたらすのか、詩のなかに書き込まれている。終わりのない戦乱、それに巻き込まれた人々の苦難、さすらいを続ける我が身、都への回帰が果たせない悲痛……。一方、李白のほうは人生のなかに生起した具体的な事柄を語ろうとしない。語るのはそこに生じた憂愁だけだ。個々の事象が濾過された、純粋な悲しみの感情。その悲しみは甘い感傷も、胸を刺し貫く苦痛も帯びてはいない。李白の詩は、海中の透き通った青い世界を思わせる憂愁に満たされている。

 前半二句が驚きを唐突に表現したのに対して、後半二句は鏡のなかの自分を静かに観照する。鏡のなかの自分を見ることで、自分が客体化される。語法的な説明を付け加えれば、「不知」のあとに疑問詞(ここでは「何処」)が続く場合は、「知らない」ではなくて、「……だろうか」の意味になる。これは「知」と言っても同じ。孟浩然「春暁」の「花落多少(花落つること 知らん多少なるを)」、「知る」「わかる」ではなくて、「どれほど散ったことだろうか」。この場合は「多少」が疑問詞。訓読がむずかしいけれども、「知る」とか「知らない」とか、明快に断定するより、「……だろうか」のほうが、詩としての含みがある。


 「秋霜」は霜の白さが白髪の比喩になるだけでなく、人生の秋にもつながる。「知らず 明鏡の裏、何れの処よりか秋霜を得たる」――鏡に映る今や一面に白いこの頭のどのあたりから白髪が生じたのか、であるとともに、人生のどこから愁いは始まったのか。鏡のなかの自分を見つめる詩人は、これまでの人生を振り返る。今の自分のなかに来し方がすべて含まれている。人生から得られたものは、結局ただこの「三千丈」の白髪でしかない。

 「白髪三千丈」は他人事ではない。台湾で行きつけの美容師さんから「また白髪が増えたわね」と言われた。やはり「愁い」によってひたすら白くなったものか。それとも単なる加齢なのか。

 

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