以前の漢字文化資料館で掲載していた記事です。2008 年以前の古い記事のため、ご留意ください。
Q0321
「私」を漢和辞典で調べてみたら、基本的な訓読みは「わたくし」で、「わたし」と読むのは日本特有の読み方だと書いてありました。これはどういうことですか?
A
「わたくしごとで恐縮ですが、このたび……」なんてあいさつをしたことはありませんか?この「わたくし」を「わたし」に言い換えてみましょう。「わたしごとで恐縮ですが」なんてふうにあいさつを始めると、意地悪なおじさんたちから、「最近の若い人の日本語は乱れている」なんて指摘を受けること、確実でしょう。
このように、「わたくし」と「わたし」とは、完全に同じ意味のことばではありません。「わたし」は一人称代名詞としてしか用いられないのに対して、「わたくし」にはそれ以外に、「プライベートな」「公的でない」という意味があるのです。
ところで、漢字としての「私」はどうかというと、本来、中国で用いられる用法としては、この「プライベートな」という意味だけであって、一人称代名詞としては用いられません。現代中国語で言えば、一般的な一人称代名詞は、「我」なのです。
日本語の「わたくし」の方は、「プライベートな」という意味がありますから、中国語としての「私」の訳として用いることができます。しかし、日本語の「わたし」は一人称代名詞としてしか用いられませんから、中国語としての「私」の訳としては不適切だと言えるでしょう。
漢字の訓読みというのは、本来、その漢字が持っている中国語としての意味を、日本語に翻訳したものです。その限りにおいては、「私」の訓読みとして「わたし」を採用することはできません。しかし、現実の日本語では、「私」を一人称代名詞「わたし」として使っています。そこで、漢和辞典では、日本特有の用法として、「私」に「わたし」という読みを載せてあるのです。
ややこしいですか?ややこしいですよね。でも、私たちが漢字を中国から借りてきて用いている以上、このややこしさはどうしようもないのです。「わたし」と「わたくし」の間に、近くもあり遠くもある、日本と中国との関係が象徴的に表れている、と申し上げると、ちょっとオーバーでしょうか?