以前の漢字文化資料館で掲載していた記事です。2008 年以前の古い記事のため、ご留意ください。
Q0171
杜牧の漢詩「江南の春」の名句「南朝四百八十寺」で、「十」をシンと読むのはなぜですか?
A
いい詩ですよね。「南朝(なんちょう)四百八十寺(しひゃくはっしんじ)、多少の楼台(ろうだい)煙雨(えんう)の中(うち)」というんですが、春雨の中に数多くのお寺の建物がかすんで見える、という、いかにも春らしい風景です。
さて、漢詩の世界では、漢字の発音を大きく2つに分類します。1つは、音調に変化のない平らな発音で、これを「平(へい・ひょう)」といいます。もう1つは、音調に変化のある発音で、これを「仄(そく)」といいます。といっても、これはあくまで中国語の発音の話ですから、日本人にはよくわからなくて当然です。
漢詩という文学は、発音の美をたいへん重視するので、この「平」と「仄」の並べ方について、厳格な決まりがあります。その全体は、漢詩の専門書を読んでいただくとして、その決まりに従うと、この「南朝四百八十寺」の「十」の部分には、「平」の発音をする漢字が来なくてはいけないのです。ところが「十」のごくごく一般的な発音は、「仄」の方なのです。
そこで、この「江南の春」の詩は、厳密にいうと規則に外れた作品ということになってしまうわけですが、いやそうではない、と主張する一派がいるのです。「十」には実は「平」の発音もあって、杜牧はそちらで読んでいたから、規則に外れてはいない、というのがその主張です。たしかに辞書を調べると、「十」には「平」の発音もあって、その読み方を日本の漢字音で表現すると、シンという読み方になるのです。
「南朝四百八十寺」の「十」をシンと読む理由は、大まかにいえば、以上の通りです。しかし、そこまで考えなくてもいいんじゃないの、という人もいます。規則に外れた漢詩というのは、実はいくらでも存在するらしいのです。ちょっとぐらい規則に外れたからといって、その漢詩の魅力が減ずるわけでもありません。最近では、堂々と「なんちょうしひゃくはちじゅうじ」と読む人もいるみたいですよ。