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近視と漢字の簡略化

 明治時代以降とくに、「日本語をどのように表記するか」がたびたび議論の的になった。有名なのは、郵便制度の整備で知られる前島密による「漢字御廃止之儀」だろうか。漢字の数を少なくするべきという漢字制限論、漢字ではなくカナで書くべきとするカナモジ論や、ローマ字で書くべきとするローマ字論、新たな文字を造る新国字論などさまざまな立場の人が現れた。こういった議論は「国語国字問題」といわれる。医師にもさまざまな立場の人がおり、たとえば大阪大学皮膚科学初代教授の櫻根孝之進はローマ字論者で、ローマ字だけで書かれた皮膚科学書『Hifubyôgaku』(1913年)を出版した。

『Hifubyôgaku』(国立国会図書館デジタルコレクションより)

 この問題について医学の立場から研究を行ったのが、眼科医たちだ。タイトルにもあるように、「複雑な漢字を見ていると目が悪くなる(近視になる)」という主張が根底にある。この問題についてはホワニシャン・アストギク氏の研究があり、経済的・軍事的理由から近視の予防が国家的に進められ、眼科医による文字の研究もその一環となったことが指摘されている。その先駆けとされるのが、九州大学(当時は福岡医科大学)眼科学初代教授の大西克知[よしあきら]による『学生近視ノ一予防策』(1897年)で、近視の予防のために複雑な漢字を簡略化することを説いている。大西がどのようにこういった文字の問題にいたったのか、探ってみたい。

 近視とは、近くのものが見えやすく、遠くのものが見えにくい状態のことだ。明治時代にまず近視が大きく問題となったのは、学校衛生学という分野だった。学校教育が普及するとともに、近視の児童が増えていることが報告され、その予防が重要視された。文部省から命じられて日本各地を巡視した三島通良[みちよし]は、近視の要因として、机や椅子の不備や姿勢の悪さ、採光の不足といった要因を挙げつつ、「書籍文字の細大が、近視眼に親密の関係を有するは疑ふ可からざる事実」(『学校衛生論』(1893年))と述べた。細かい作業や読書が近視に関係することはそれ以前から指摘されていて、特に文字については先に松本賢『学生近視眼予防法大要』(1886年)で具体的な対策の提案がなされている。それによると字の幅と行間は3ミリメートル以上、字画の太さは0.25ミリメートル以上、黄紙に黒字または白紙に青字が良いとされた。三島の調査を経て、1898年には文部省から「検定出願教科用図書ノ文字印刷等ニ関スル標準」が告示され、教科書に使用される活字の号数(学年ごとに異なる)や字間、行間、紙質についての規定がされるに至った。この議論では、文字の大きさや行間が問題視されたが、文字そのものについては触れられていなかった。

 大西克知(1865-1932)は、東京大学で医学を修めた後にドイツに留学し、東京での開業などを経て福岡医科大学(現九州大学)の教授となった。1893年に『眼科雑誌』という雑誌を創刊して編集作業を行う一方、外国の論文の紹介や、自らの論文発表も行った。1897年には日本眼科学会の創立に尽力し、同年『日本眼科学会雑誌』を創刊して、その編集や校正を一人で行っていたという。すさまじい熱量の持ち主であることは伝わるかと思う。また、狩野亨吉[かのうこうきち](京都帝国大学文科大学初代学長。安藤昌益の発掘と紹介で知られる)から、大量の古医書を購入していたことが明らかになっており、見識の広さがうかがえる。
 大西は『眼科雑誌』上で、近視に関する欧米の論文を紹介するなど、近視にも関心があったことがうかがわれる。そこから特に国語国字問題の方面に向かわせたのではないかと思われるのが、『眼科雑誌』の誌上にたびたび掲載された、縦書き横書きと眼の構造の関係についての論戦だろう。その発端は、井上哲次郎(哲学者。学術用語集『哲学字彙』は大きな影響があった)が1894年に行った講演「文字と教育の関係」の中で、「目が横についているから」という理由で横書きを勧めたことだ。それに対して井上通泰(眼科医。柳田国男の兄。岡山大学眼科学第2代教授)が反論し、そこに心理学者の元良[もとら]勇次郎も参戦し、活発な議論が行われた。大西はこれらの論戦を『眼科雑誌』に載せ、この「修羅場」を「傍観」するといいながら、元良の意見に反論するコメントを残している。編集者の立場からはあからさまに一方に加担しにくかったのではないかと思う。結局のところ、大西は、縦書きか横書きかは、眼の機能から論じられず、習熟の問題だろうとしていた。ここでは文字列の方向だけが論点となっていたが、眼科と文字というテーマはこのころから大西の頭にあったものと思われる。

 その後発表された『学生近視ノ一予防策』は、眼科の中でも近視と文字という二つのテーマが合わさってできたものだ、というとややこじつけに聞こえるだろうか。ともあれその内容をみてみよう。
 この本は、近視の原因のうち、特に文字の複雑さをメインテーマに据えるものだ。大西は、横または縦画線8本以上のものを「複雑正字」と呼んでいる。あまり数えたことがないと思うが、例えば「書」という字は横画が8本あるので複雑正字になる。「嗣」という字は縦画が7本なので複雑正字ではないといった具合だ。斜めの画や点も数えるので、「繼」という字は縦画8本でやはり複雑正字になるという。斜めの画が混ざると全く同じ数え方が再現できるか自信はないが、ともかく複雑さの目安が示されたのは画期的だろう。ちなみに後に大西は、学生向けだけでなく一般の学術用語などの漢字も、活字の大きさにはよるが横または縦画線9-10本以内にすべきとしている。そうすると「矍」くらい複雑にならないと制限の対象にならないので、あまり意味はなさそうだ。
 さてこの複雑正字の問題点(大西は「字病」と呼んでいる)は、二つ挙げられる。一つは、縦が太く、横が細いという明朝体活字の特徴により、特に細い横画が見づらいというもので、もう一つは、字の画と画の間が狭いということだ。現代でも電光掲示板などで見られるビットマップフォントでは、画数が多いと字がつぶれて点画が省略されているのを見ることがある。大西の言う複雑正字は、ビットマップフォントで点画が省略されるような字という漠然とした理解もできるかもしれない。
 こうした複雑正字に対処するための検討事項として①最低限の画の太さ、②同じく画と画の間隔、③字の大きさに加えて、④目にやさしい漢字の標準が必要だとする。複雑正字の画を太くして、画と画の間隔をあけるというのは、活字の限られたスペースを考えると不可能なことになる。とすると字を省略するしか方法がないのだ。
 大西の提案する「省字」を具体的に見てみる。

『学生近視ノ一予防策』「省字例略」から抜粋

 馴染みのある字もあれば、見たことのない字もあるだろう。なかには中国の簡化字と共通するものがあり、またそれとも微妙に違うものもあることに気づく方もいるだろう。よく見ると元の字が複雑正字の定義にはかからない字(例えば「車」)にも略字が提案されているが、それは置いておいて、提案された略字はちゃんと縦横の画数は7本以内になっている。これらは大西が新しく考案したものではなく、「座右の一唐本」から蒐集したものだという。それが具体的にどの本なのかは書かれていなかったが、同じような略字は例えば江戸時代の『倭楷正訛[わかいせいか]』や、民国期の『宋元以来俗字譜』といった俗字、略字を載せる本を見れば見つけることができる。過去に用例がある字であるので、当時の字を略字に置き換えて公用とすることもできる、という主張を大西はしていた。
 この大西の著作ののち、眼科医の文字研究はすぐには盛んにならず、30年ほど後の1920年代を待つことになる。この間に、1921年に原敬内閣総理大臣により臨時国語調査会(初代会長は森鷗外)が発足し、1923年には常用漢字表が告示された。今現在使われる1983年の常用漢字表と名前は同じだが内容は別物だ。その常用漢字表には簡略字体154字が示されていた。圓⇒円、歸⇒帰など現代に通じるものもあれば、留⇒畄、走⇒赱など現代の常用漢字字体ではないものもあった。結局、この常用漢字表に基づく報道機関の紙面整理を行おうとした矢先に関東大震災が起こり、実施は見送られることになったのだが、大西はこうして簡略字体が公式に認められていくことについて、「拙著ノ主張セシコトガ、殆ド無条件的ニ受入レラレシトモ見ラレ得ルナリ」と評価をしていた(「略字の標準」)。ただ漢字廃止論や漢字制限論に対しては反対していた(「文字談片」)。大西の死後、当用漢字字体表や中国の漢字簡化方案などいわゆる略字が公的なものになるのを見ると、大西の主張は早期からいい線をいっていたのだろうと思う。

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[参考文献]
相部久美子ら (2016)「狩野亨吉と大西克知—生誕150周年記念活動報告—」九州大学附属図書館研究開発室年報 2015/2016, p.25-37
大西克知 (1897)『学生近視ノ一予防策』
大西克知 (1924)「略字ノ標準」日本眼科学会雑誌 28(12),p.1036-1037
大西克知 (1925)「漢字ノ減劃ニ就テ」日本眼科学会雑誌 29(10),p.1323-1326
大西克知 (1925)「文字談片」日本眼科学会雑誌 29(11),p.1400-1412
大西克知 (1928)「国字問題」日本眼科学会雑誌 32(5),p.444-450
ホワニシャン・アストギク (2014)「近代日本における眼科学者の国字研究」社会言語学 14,p.121-140
『学校保健百年史』1973年
『国語施策百年史』2005年
『日本眼科学会百周年記念誌』第1巻、1997年

(c)Yutaro Nishijima

 

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