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書を読みては万巻を破り、筆を下せば神有るが如し――杜甫「韋左丞丈に贈り奉る二十二韻」

 近頃、いろいろな分野でAI(artificial intelligence)の進出が、テクノロジーに暗い素人の耳にも入って来る。将棋や囲碁の世界では、名人とAIの対局が報じられる。車の自動運転も実用化が近いという。文学研究の場でもAIを用いた分析が始まっているらしい。作品を読み解くだけでなく、いずれ文学の創作も、AIが手がけることだろう。しかし膨大なデータを分析したうえで、それを用いて機械が作り出した作品ができたとしても、わたしは読もうとは思わない。芸術は情報処理とかいった技術とは別のところで生まれるものといまだに信じているのは、時代に取り残されているのだろうか。
 人間の知的操作を超えたところで生まれた詩としてよく知られているものに、コールリッジの「クブラ・カーン」がある。それはアヘンを服用したあとで見た夢から覚めた直後に書き留めたものと言われている。詩人は夢寐[むび]のなかで見たものを言葉に書き写しただけだ。そうだとすれば、作者の意識的な操作は関わりないことになる。とはいっても、頭のどこかに眠っていたものが幻覚や睡眠の作用によって呼び覚まされたものであって、AIがすでに顕在化した資料から構築するのとは本質的に違うように思われる。
 アヘンのもたらす幻覚作用は、いわば意図的に無我の状態を作りだしたともいえるが、概してイギリスロマン派の詩人には、インスピレーションから生まれた詩が多い。インスピレーションは神の啓示のように、人智を超えたところでふと湧き起こったものである。
 中国の古典詩はもともと知的な操作が強く働くものであるが、それでも人を超えた手筆について語られることがある。南朝宋・謝霊運「池上の楼に登る」(『文選』巻二二)の詩のなかの「池塘 春草生じ、園柳 鳴禽変ず」の句は、夢のなかで得られた句としてよく知られている(梁・鍾嶸[しょうこう]『詩品』)。その逸話のなかで謝霊運は「此の語は神助[しんじょ]有り、吾が語に非ざるなり」と語っている。自分が作った詩句ではなく、「神の助け」によって生まれたものだというのである。
 「神助」あるいは「有神(神有り)」は、他者の詩句に対して、並みの人間の力を超えているという称賛の言葉として用いられることがよくある。まるで神霊が作ったかのようにすばらしいと讃える言葉である。
 「神有り」の例としてとりわけよく知られている杜甫の次の句は、人を誉めたものではなく、自分自身の詩作について語っている。

 読書破万巻  書を読みては万巻を破り
 下筆如有神  筆を下せば神[しん]有るが如し
        「韋左丞丈[いさじょうじょう]に贈り奉る二十二韻」

 官職を得ようとして有力者に援引を求めていた時期の作である。贈られた相手は尚書左丞の顕職にあった韋済[いせい]。無官の杜甫とは著しい地位の懸隔があった。引き立てに努めてくれた韋済の尽力も空しく、杜甫はこの詩を贈ってひとたび求官活動に見切りをつけたかのようだ。これまでの恩顧に対する謝辞を述べはするが、しかし儀礼的な挨拶に終わらないところが、杜甫のくせ者たるゆえんである。浪人生活の困窮ぶりをまるで浮浪者でもあるかのように自虐的に描く。そして四十四句に及ぶ長い詩は、次の二句で結ばれる。

 白鷗波浩蕩  白鷗 波 浩蕩たり
 万里誰能馴  万里 誰か能く馴らさん

 波立つ大海原を翔ける白いカモメ、万里を世界とするわたしを飼い慣らせる人などいようか。――こんな「礼状」をもらった韋済は、果たして彼のためにこの先も就職斡旋の労を取る気になるだろうか。なんだか貴人に向かって鬱憤をぶちまけたような、後ろ足で砂を蹴るような奇妙な挨拶なのだが、それはともかくとして、「神有るが如し」の句に戻ろう。「読書」と「下筆」、つまりはインプットとアウトプット、その双方において非凡な自分を誇ってはいる。ただそれは「(杜)甫 昔 少年の日」を回想して語ったものなのだ。後年、夔州[きしゅう]にいた時期に長篇の自伝詩が何首かあるが、そこにはいつも決まったパターンがあって、才気溢れた若い日の自分と老いて落魄の身となった現在の自分との対比のなかで自分を語っている。これは中国の自伝のかたちとしてははなはだ特異である。西欧の自伝が、たとえばアウグスチヌスの『告白』が世俗の人から聖職者への変化を語り、フランクリンの『自伝』が成功者となった自分の過程を描くように、時間軸における自分自身の変化を描くのに対して、一般に中国の自伝は自分と周囲の人々との差異、同時代の他者と違うことで自分を認識するという、自分の捉え方の違いがある(小著『中国の自伝文学』、創文社、一九九六)。ところが杜甫の自伝詩は中国には珍しく、自分の年齢のなかでの変化、それも衰退を書くのである。早い時期に属するこの詩からすでにそのかたちがあらわれている。
 ちなみに杜甫の政治的な抱負としてよく取り上げられる、

 致君堯舜上  君を堯舜の上に致し
 再使風俗淳  再び風俗をして淳ならしめん

 の二句も、この詩のなかで若い日の夢想として記されたものである。確かに杜甫は古代の理想的な時代の再現に寄与したいという志を終生いだき続けたにしても、さすがにそれを直叙することはなく、そんな大それた思いをいだいていたことに対する自嘲を帯びていることが、前後の文脈からわかる。
 「筆を下せば神有るが如し」が、少年の日の才気としがない中年男になった今の自分との対比のなかで言われているならば、これも他者に対する賛辞と同じく、神の力が関与する詩作の秘密を語るものではなく、単に人並みはずれた秀抜さを言うに過ぎないと解することもできる。しかし同じ時期、やはり高官の韋見素に捧げた詩、「韋左相に上[たてまつ]る二十韻」は、韋見素の昇官を褒め称え、失意の境遇に沈む我が身を嘆いたあと、次の四句で結ばれる。

 感激時将晩  感激して 時 将に晩[く]れんとす
 蒼茫興有神  蒼茫として 興に神有り
 為公歌此曲  公の為に此の曲を歌えば
 涕涙在衣巾  涕涙 衣巾に在り

 老いが近づくこの時、ご厚情に胸が昂ぶって、茫漠と神懸かった詩興が湧き起こる。
 あなたのためにこの歌をうたえば、涙が衣や頭巾を濡らす。

 韋見素との関わりを思って激した感情は詩作へと向かう。「蒼茫として興に神有り」――詩人は「蒼茫」たる、捉えどころのない混沌のなかにいる。そこに生じる詩興には人を超えた神霊がある。杜甫は蒼茫とした拡がりのなかで神に突き動かされる。自分を超えた存在の力が発動する。詩を作るにはこのように詩人の知的操作を超えた力が働くのではないのだろうか。
 詩人の外には蒼茫として捉えられない宇宙が拡がっている。把握しがたいそれを詩人は神の力を借りて言葉に紡ぐ。詩人の言葉によって蒼茫の一部は把握できるものに化す。AIが扱うことのできるのは、そのような過程を経て人々に共通して認識できるものだ。捉えるすべもない蒼茫に詩人が向かい合った時、自分でも制御できない不思議な力が作用する、そんなところに創作の機微があるのだろうか。


(c)Kawai Kozo, 2021

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