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小楼一夜 春雨を聴き、深巷明朝 杏花を売る        ―― 陸游「臨安にて春雨 初めて霽る」

 時代とともに暮らしは変わり、新しく登場するものもあれば、消えていくものもある。若い人たちは新奇なものに飛びつき、老人は過去をなつかしむ。過去は美化され、一種の詩情を帯びることもある。今ではついぞ耳にすることもなくなった物売りの声も、その一つだ。
 ひところはよく回ってきたチリ紙交換、「毎度おなじみの――」の声に「詩情」を覚える人は少ないだろうが、それも近年ぱったり町から消えてしまった。消長は激しい。なくなってもノスタルジーを覚えないのは、スピーカーを通した声だからではないか。中国語でいう「不好聴」なのだ。呼び声は生の声であってほしい。
 戦後生まれのわたしには、納豆売りの呼び声と豆腐屋のラッパぐらいしか記憶にない。「仙台糸引き納豆」の売り声は、まだその抑揚とともに耳にのこっている。遠くまで声を届けるにはおのずと音を引き延ばす必要があり、引き延ばされた音はおのずとメロディを伴ったのだろう。物売りの声は期せずして巷間の小さな歌になっている。『サザエさん』のなかには、金魚売りというのも出て来た。夏の金魚売りのように、物売りの声は季節と結びついているものが多い。井上陽水「氷の世界」は「窓の外ではリンゴ売り、声をからしてリンゴ売り、きっと誰かがふざけて、リンゴ売りのまねをしているだけなんだろう」と歌い出されるけれども、実際に「リンゴ売り」というものがあるのかどうか、とぼけたところがおもしろい。「リンゴ」としたところが絶妙だ。
 寺田寅彦の随筆「物売りの声」には、さまざまな例が詳しく書き留められている(『寺田寅彦全集』第四巻、岩波書店)。冬の辻占売り、夏の千金丹売り……多く豊かなのに驚くけれども、しかし昭和十年の時点ですでになくなりつつあったようで、それを惜しむ寺田寅彦はアーカイブを作ることを提案している。国粋主義に傾く時勢への皮肉もちらっとほのめかして。
 台湾大学の柯慶明さんが元気だったころ、二人で台南を旅したことがあった。訪れた博物館に昔の台湾の町並みを写した古い写真があって、そのなかの一人の小男の姿がなぜか気になった。無表情のまま、何をするでもなく、ぽつねんと立っている。人生に希望も落胆もなく、たまたま生まれて来たのでついでに生きている、といった感じだ。柯慶明さんの説明によると、それは街を回って時刻を知らせる「更夫」[こうふ]という者だという。終戦後ほどなく生まれた彼は、子供の時にはまだ更夫がいた、夕方その声が聞こえてくると、とても寂しい感じがした、と言った。写真の小男の声もきっともの寂しく街に響いたことだろうと思った。
 その後、更夫をめぐって中国や台湾の人たちから教えてもらったのは、夜の五更の一更ごとに「火の用心、泥棒用心」と繰り返しながら街を回っていたこと、時代劇の映画には背景の人物としてよく出てくること、マカオには今でも「更館」という更夫の建物がのこっていることなどなど。更夫は町の住人がお金を出し合って雇っていたというので、仕事のない人への一種の救済措置かと勝手に思っていたら、孫文の父親はその仕事をしていたというから、必ずしもそうではないらしい。
 そういえば、貴婦人と若い騎士の秘められた恋をうたう西欧の昔の詩にも、watchmanというキャラクターが登場する。時刻を告げる夜回りである。恋人たちは夜明けのそれを聞くと、別れの朝が近づいたことを知って悲しむ。
 西欧には夜回りだけでなく、物売りもいたことは、プルースト『失われた時を求めて』が様々な職種のそれを延々と書いていることから知られる(第5篇 囚われの女 Ⅰ)。吉川一義氏の訳には、牡蠣売り、小エビ売り、八百屋などの古い絵はがきの図版もたっぷり添えられている(岩波文庫 10)。その声の調子まで丁寧に書き留めているプルーストは、まるで売られる食べ物よりも、売り子の呼び声に魅せられているかのようだ。
 ながながと物売りの声や更夫について書いてきたのは、こうした生活の細部は時ととも消えてしまい、後世にはわからなくなってしまうこと、ましてや外国の暮らしに至ってはさらに知るすべがないことを痛感するからである。中国古典詩は過去の、しかも異国の生活環境のなかで書かれている。時空ともに隔たった世界に入り込むのは、初めから拒絶されているようなものだ。
 が、逆にだからこそ興味を惹かれるということもある。自分の日常の暮らしとは別世界に滑り込むのは、わからないながらも退屈することはない。思えば日々暮らしている生活の細部に、わたしたちはかえって気付かないのではないだろうか。少なくともそれに特別に目をとめたり、意味深さを覚えたりすることはない。一方、古典文学は日常を離れて旅に出るようなもので、新鮮な世界を味わうことができる。
 さらに言葉を重ねれば、中国の古典文学はその強固な文学的因襲のゆえに、実生活の具体相よりも、本のなかの世界、詩文によって構築された世界が重い意味をもつ。中国に渡るすべもなかった江戸時代の漢詩人たちは、何十回も渡航経験をもつ今の人にも劣らず、「中国」を知悉していたのではないだろうか。彼らが把握していたのは、生身の中国とは異なるかも知れないが、それも確かに「中国」であるには違いない。

 さて中国の詩のなかの物売りの声というと、前回、ぐうたら猫の詩で好評を博した(?)陸游に再度登場してもらわねばならない。陸游は詩の数が多いだけでなく、内容も多岐にわたる。金[きん]への抗戦を強く唱えた硬骨漢でもあり、離縁を強いられた妻への思いを五十年ものちにうたう情の人でもあった。膨大な彼の詩のなかでもとりわけ愛誦されるという「臨安にて春雨初めて霽[は]る」という詩は、小川環樹先生の『陸游』(筑摩書房、中国詩文選。一九七四)を読んだ時に初めて出会い、忘れられない詩の一つになったので、岩波文庫の『新編 中国名詩選(下)』にも採った。小川先生には「物売りの声」という文章もあって、そこでも「わたしのいちばん愛する」句として、「小楼……、深巷……」の二句を引いておられる(『小川環樹著作集』第三巻、筑摩書房)。

 世味年来薄似紗  世味 年来 薄きこと紗[さ]に似たり
 誰令騎馬客京華  誰か馬に騎[の]りて京華に客たらしめん
 小楼一夜聴春雨  小楼 一夜 春雨を聴く
 深巷明朝売杏花  深巷 明朝 杏花を売る
 矮紙斜行閑作草  矮紙[わいし] 斜行 閑に草を作[な]し
 晴窓細乳戯分茶  晴窓 細乳 戯れに茶を分かつ
 素衣莫起風塵嘆  素衣 起こす莫かれ 風塵の嘆き
 猶及清明可到家  猶お清明に及びて家に到る可けん

 詩題の「霽」は「雨が上がる」ことを一字であらわす語。わたしの好きな字である。「臨安の都に降る春の雨が上がったばかり」。詩題を見ただけでも、光に満ちた春の朝、雨に街の塵が洗われた澄明な空気が立ち上がってくる。
 しかし詩はそれほど単純に快いものではない。六十二歳の陸游はすでに数年前から事実上の隠居生活をしていたのに、またぞろ権知[けんち]厳州(厳州の知事代理)に任じられた。厳州は都の臨安(杭州)から富春江を上った所にある。赴任する前に孝宗に拝謁すべく都に上った時の詩である。
 「世間への関心はここ何年、紗のように薄くなった。なのに誰がそうさせたのか、馬に跨がって都に旅することになった」。もはや官界への思いは消えている身、拝命を喜ぶ気配はない。
 「一夜、小楼で春の雨に耳を傾け、翌朝、路地裏に杏[あんず]の花売りの声が響く」。春の暖かい雨は外界を遮断して、旅舎に身を寄せた詩人を静かにやさしく包み込む。そして一夜明ければ雨は晴れ上がって春の陽光があふれ、花売りの声が聞こえてくる。花売りは「たぶん少女」であろうと小川先生は言う。「うす紅色」のあんずの花には、少女がいかにも似つかわしい。ただこの二句、雨の音も花売りも視覚より聴覚が主であって、詩人は室内で聞いているだけかも知れない。そうだとしても、売り声から詩人が思い浮かべたのはやはり初々しい少女の姿だろう。もっとも、それは男の詩人の立場から捉えたものではある。
 「紙切れに行[ぎょう]もかまわず暇つぶしに草書を書いてみたり、明るい窓辺で粒を浮かせた抹茶を慰みに立ててみたり」。旅の無聊はまた自由な時間でもある。用事でもないことに時間をつぶしているが、それも胸に沈殿する不本意な思いを忘れようとしたものか。
 「白い衣が都の塵埃で汚れてしまうと嘆かずともよい。清明節の前には家に帰りつけるだろうから」。陸游の心はひたすら故郷、家に向かっている。それを仕官―隠逸の対比などとくくってしまうと、詩の肌触りから離れてしまう。都会や官人としての生活に気が進まず、田舎で無官のまま自分の暮らしに引きこもりたい、そんな実感がにじみ出ているところに共感すればそれで十分だ。
 都に出てきたのも心弾んでのことではなかった。意に染まないまま公の場に引きずり出された気重さがまといつく詩であるが、「小楼……深巷……」の二句だけは、そうした重苦しさを帯びていない。静かな雨の音に耳を澄ます夜、花売りの透き通った声が聞こえてくる朝――読むわたしにはそんな経験がなくても、雨の湿り、花の香りなど、その場の空気までも感じられ、自分もそこに居合わせたような気がしてくる。淳煕[じゅんき]十三年(一一八六)春の陸游の体験は、我々にも追体験できるのである。わずかながらも自分も聞いたことのある物売りの声の記憶が呼び起こされ、それとも絡み合いながら詩の情景が立ち上がってくる。生活のなかの雑多なものは捨象され、具象的でありながら抽象化されてもいる、一つの作品世界として描き出されているのである。

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