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冥茫たる八極に心兵を遊ばせ、坐ながらにして無象をして有声と作らしむ  ――高啓「青邱子の歌」

  地球全体にあっという間に拡がるのは、COVID19だけに限らない。人間の文化も近年では瞬時に伝播する。そのなかでもとりわけ速く世界中に行き渡るのは音楽だろうか。新しい楽曲は国の境界など飛び越えて、発表されるや否や地球上の至る所で受け入れられる。それにはインターネットという媒体が普及したからだろうけれど、それと相俟って受容する感性が共通してきていることも与っている。個々の文化の差異は薄れ、受容者の共通性が世界同時受容を可能にしている。
 しかしかつてはそうでなかった。異国の文化との触れ合いに共通の基盤はなかった。その際には、どのように受容したのだろうか。たとえば平安朝の日本で白楽天の詩が広く愛好されたことはよく知られている。なぜとりわけ白楽天が読まれたのか。彼の言葉のわかりやすさ、因襲のしがらみを取り払って生活の実感をそのまま表現する親しみやすさ――理由はいろいろ考えられる。にしても、直接の契機となったのは、白楽天の文学が本土中国で一世を風靡していたことではなかったか。それが地域や階層を超えた、空前にして絶後の流行ぶりであったことは、当の白楽天や盟友の元稹[げんじん]自身が記している。中国でそれほどの流行をもたらした原因の少なくとも一つは、白楽天が礼部の進士科、吏部の書判抜萃科、そして憲宗がじきじきに主宰した制科、三種の試験に立て続けに合格した、いわば「受験界のスーパースター」であったことだろう。毎年、各地から都の長安に集まる受験生たちは模範答案として白楽天の「賦」や「判」(判決文を模擬した文)を学び、同時に彼の詩も愛読した。その受験生を媒介として、津々浦々に伝えられて国中に広まったのだろう、という推測は岩波新書『白楽天――官と隠のはざまで』に記したことがある。
 日本における白楽天受容は、日本人自身があまたの詩人のなかから選び取ったものではなく、本国での流行をそのまま受け入れたものなのだ。これは異国の文化を受容するありかたとして、過去においてはだいたい当てはまるだろうと思う。
 もちろんその後の展開にはそれぞれの文化が作用する。白楽天の詩の日常性は日本人にとってもともとなじみやすいものだったことだろう。作品そのものの性質も受容に関与する重要な要因である。自分のかたちに引き寄せて受け入れることは、外国文学の受容に当然伴う。夏目漱石が「草枕」のなかで記している陶淵明や王維の受け止め方は、日本人の嗜好に従って純化された出世間の境地であり、それはそれで一つの詩境を成してはいるけれども、実際の陶淵明や王維はもっと複雑で多様な要素を懐抱していたはずだ。中国の隠逸は政治を嫌悪するにしても、政治との緊張関係がどこまでも付きまとう。それに対して日本の隠逸は浄化され、あっさりした清らかさに変貌している。単純に言ってしまえば、中国の隠逸文学は反政治的であり、日本のそれは非政治的なのだ。隠逸の文学に限らない。全体として、これも単純化すれば、中国の文学は政治に反発しながらも終始して政治から離れないのに対して、日本の文学は政治の影が概して薄い。

 白楽天の受容に見られる二つの側面――外的な要因(たまたま中国で白楽天が盛行していた)、内的な要因(日本人の好みに合致した)、これは偶然と必然と言い換えることもできる。ところが偶然の要因も必然の要因も、理解しがたい場合がある。その顕著な例が元末明初の詩人高啓[こうけい]である。江戸・明治期の日本における盛行ぶりは、中国に比べてみると、いささか奇異に思われるほどだ。漱石の何かの小説に、高啓の詩集を人に返しに行く場面があったように思う。そうした場面に高啓が登場するのは、高啓の詩が日常的に読まれていたことを示す。芥川龍之介の「梅花に対する感情」のなかにも、高啓の詩が引かれている。日本で次々書き表された初期の中国文学史には、高啓に関してかなりの記述がなされている。中国でも文学史のなかでは明初随一の詩人と一定の評価はされてはいるけれども、日本ほどには親しまれてはいないようだ(江戸・明治期にいかに高啓がよく読まれたかについては、入谷仙介『高啓』(岩波中国詩人選集二集)の解説を参照)。
 どのように高啓が日本に入ってきたのか。高啓のどんな面が日本で好まれたのか。ここに異国の文学を受け入れる際の大きな問題が潜んでいるように思われる。一生を蘇州という限られた場から出ることなく、三十九歳という短い生涯を刑死によって断ち切られた高啓は、詩界全体を鳥瞰して捉える中国ではいわばマイナーな詩人と目され、一方、全体ではなく個々の点として詩人に接する日本では、そうした背景は大きな作用を及ぼさなかったのだろうか。あるいはまた、作品そのものに日本人を惹き付けるものがあったのだろうか。こうした問題は日中比較文学の好材料であるが、わたしの手に余ることなので、日本漢詩の専家によって解き明かされることを待つほかない。

 今、わたしの個人的な関心から取り上げるのは、彼の代表作でもあり、鷗外が和訳したことでも知られる「青邱子[せいきゅうし]の歌」である。長短の句を織り交ぜて七十句近くにのぼるこの長篇の詩は、二十三歳の時にものした、いわば自伝詩であるが、自伝といっても自分の人生をそのまま記述したわけではなく、一人の人物像を創り上げたものだ。そこに高啓の「かくありたい自分」が表出されている。自伝というより自画像といったほうがいい。
 蘇州郊外の青邱という丘に住む高啓は、みずからを「青邱子」と名乗る。青邱子はもともと仙界の人であったのが、罪を得て人間世界に流謫された、つまり李白と同じく「謫仙人[たくせんにん]」であった。したがってもともと人の世界にはなじめない。仕事に就くでもなく、日常のあれこれの用事をするでもなく、日々を無為に過ごす。無為は怠惰によるのではなく、現世の生活者として適性をもたないことを示す。実際、高啓は妻の豊かな実家の庇護を受けて、生業に就く必要はなかった。生きて行くうえで関わる事柄を何一つしない生き方は、原文では「不」が連続する句であらわされる。

 頭髪不暇櫛  頭髪は櫛けずるに暇あらず
 家事不及営  家事は営むに及ばず
 児啼不知憐  児啼くも憐むを知らず
 客至不果迎  客至るも迎うるを果たさず
 不憂回也空  回也[かいや]の空なるを憂えず
 不慕猗氏盈  猗氏[いし]の盈[み]つるを慕わず
 不慙被寛褐  寛褐[かんかつ]を被るも慙[は]じず
 不羡垂華纓  華纓を垂るるを羨まず
 不問龍虎苦戦闘  龍虎の戦闘に苦しむを問わず
 不管烏兔忙奔傾  烏兔[うと]の奔傾[ほんけい]に忙しきに管せず

 髪に櫛を入れる暇もなく、家の仕事に手をつけようともしない。
 子供が泣いてもかわいそうに思うでもなく、客が来てもきちんともてなすこともない。
 顔回のようにお櫃[ひつ]が空っぽでも悲しみもせず、猗頓[いとん]のような富豪に惹かれることもない。
 だぶだぶの粗末な服を恥じることもなく、貴人の冠のきれいな紐を羨むこともない。
 龍と虎が激戦に苦しもうと知らぬ顔。月日がせかせか過ぎてもかまいはしない。

 世の中の諸般の事柄、日常生活の細々とした用事、それら一切に対して無関心と無為を決め込む青邱子がするのは、ただ一つ、詩作のみ。そして彼の詩論が展開される。

 向水際独坐  水際に独り坐り
 林中独行  林中に独り行く
 斲元気 搜元精  元気を斲[き]り 元精を捜[さぐ]り
 造化万物難隠情  造化の万物も情を隠し難し
 冥茫八極遊心兵  冥茫たる八極に心兵を遊ばせ
 坐令無象作有声  坐[い]ながらにして無象[むしょう]をして有声と作[な]らしむ

 水辺に一人坐り、森林のなかを一人進む。
 天地の元気を切り取り、天地の精気を探る。造物主の作った万物も、彼にかかっては本性を隠せない。
 茫漠とした世界の果てまで思いを走らせ、居ながらにして形無きものを声有るものに変える。

 これこそが高啓の考える詩人の業[わざ]である。世界のなかに潜んでいる姿なき物、声無き物、それを白日のもとにさらけ出し、言葉によって見える物、聞こえる物にしてしまう。万物は詩人の前で何もかも露呈される。日常の目や耳では捉えられない物を捉え、世界の真の姿を明らかにするのが詩人だというのである。
 しかし、その結果はどうなるか。

 但愁歘忽波浪起  但だ愁う 歘忽[くつこつ]にして波浪起こり
 鳥獸駭叫山搖崩  鳥獣駭[おどろ]き叫び 山の揺れ崩れんことを

 ただ気がかりなのは、笛の音がたちまち波を起こし、鳥獣が驚き叫び、山が揺れてくずれはしないか。

 生き物はおびえ、山河は破壊される。これは万物を創り出した造物主に敵対する行為だ。当然、天帝の怒りを買い、彼はもとの仙界に呼び戻される。詩人はこの世に住むことはできないのである。

 この詩を取り上げたのは「個人的な関心から」と先に記したのは、「青邱子の歌」の内容が、韓愈の「双鳥詩」とよく似ているからである。「双鳥詩」は遠い国から中国へ渡って来た二羽の鳥が、常ならぬ声で鳴き続ける。そのために万物は鳴りを潜め、活動を停止する。天帝は怒って二羽を引き離し、鳴くのを止めさせる。しかし三千年ののちにまた二羽は所を得て鳴くことだろうと結ばれる。表現の営みが平穏な日常世界を翻弄し、壊滅させることをうたった韓愈の長い詩は、高啓「青邱子の歌」の元歌であるかのように近い関係にある。詩による万物の破壊とか、天帝の譴責とかいった要素を取り出せば、両者に異なるところはない。
 ところが、読後の感触はどこか違う。なぜ違うのか。強いて考えてみると、「青邱子」が高啓自身であることは「序」にも明言されているのに対して、「双鳥詩」は誰のことかわからない。諸説あって、そのなかでは韓愈・孟郊とするのが近そうに見えるけれども、誰のことかと特定するよりも、表現者そのものと受け止めればいいと思う。
 そのことよりもさらに大きな相違は、韓愈の詩にはこの世から追放される表現者の悲哀が全体に流れているのに対して、同じくこの世に居場所のない青邱子にはその悲しみ、あるいは心の痛みが感じられないことにある。甲板にぎごちなく歩む姿を水夫たちに嘲笑される信天翁[アホウドリ](ボードレール)の悲哀の有無、それが二人の詩から受ける印象の違いをもたらしているのだろうか。そして高啓の受容の中国と日本の違いも、もしかしたらそのあたりに起因するのかも知れない。

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