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ゆれる「腔」の読み

 「腔」の読み方にゆれがあるのをご存じだろうか。医療関係者は当然「クウ」と読むと思う。理科で「腔[こう]腸動物」を習ったことを覚えている人や、「満腔[こう]」という言葉を知っている人はこの字は「コウ」だと思うだろう。なので口腔[こうくう]外科、腹腔鏡[ふくくうきょう]といった単語を耳にした非医療関係者のなかには違和感を持つ人もいると思う。辞書類をみると、医療分野では慣用的に「クウ」と読むということが書かれている。つまり理科で習う腔腸動物は動物学分野なので「コウ」と読む。使われる分野によって読み方が違うのだ。ちなみに「腔」とは医学分野では人体の中の空間をさす。口の中なら口腔(読みはコウ「クウ」)といったぐあいだ。

 このことについて中央で議題にのぼったことがある。1973年の第85回国語審議会だ。国語審議会は常用漢字表や現代仮名遣い、送りがなのつけ方など、日本の国語施策を担当していた。国語審議会とは別に存在する文部省学術審議会の学術用語分科会では学術用語集の制定などを担当していて、そのうち歯科の用語集が完成したことが国語審議会に報告された。その用語集では口腔を「コウクウ」と読んでいることがとくに国語審議会の委員たちの注目をあびた。これについて宇野精一委員は

医者というと,どちらかといえば漢字のことは十分御存じない人が多いと思うので,これは百姓読みで「クウ」と読むならそれは仕方がないが,しかし私は国語審議会は非常に権威のあるものだと思っているので,それがよろしいなどと言うのは,少なくとも私は反対である。

 第1回で医者が漢字をあまり知らないことをとりあげたが、これもそれで済ませてしまっていいものなのか。実は「腔」の読みについてはすでに吉田秀夫氏が詳細に調べブログにまとめられており、とても参考になる。ここではそれを補う形でどうも医学分野では意図的に「クウ」と読んでいた部分があることを述べてみたい。

 「腔」の字を医学分野で使うようになるはじめは、ざっと見た感じ1805年の宇田川榛斎[うだがわしんさい]『医範提綱』と思われる。その前段階で作成されたと思しき『遠西医範』や『蒲朗加児都[ブランカールト]解剖図説』にも「腔」の字が使われているので、最初の用例はさらにさかのぼると思われる。その『医範提綱』にはこうある。

 西医ノ説ニ、頭胸腹皆諸物ヲ包蔵スルヲ以テ、此ヲ三部ノ空殻トス。今、空殻ノ義ヲ訳シテ腔字ヲ用ユ。字書ニ腔ハ囲也内空也ト云ニ因ル。

これをみると宇田川榛斎が「腔」の字を当てた、ということになる。読みは記されていないため不明だが、上の引用部分では「空殻」と書いているところを別の場所では「腔殻」と書くなど交換して書くことがあるため、「腔」も「空」とおなじ「クウ」と読ませていた可能性がある。「内空也」とする字書『説文解字』にも「苦江切」すなわち「コウ」という読みがかかれていて、それを確認したうえで意図的に行っていることになるのだ。ほかに読みが書かれた江戸時代解剖学書の貴重な例として野呂天然[のろてんぜん]『生象止観[せいしょうしかん]』があり、「カウ」という振り仮名がついている。ただ野呂は言葉について特殊な考え方を持っているので参考になるかは微妙なところだ。
 これ以降の解剖学書には振りがながほとんどないが、「腔」の字自体は徐々に使われるようになっていった。江戸時代から明治時代にかけての解剖学書や医学系独和辞典等にはまだ「腔」と「空」が混在している。例えば1858年『解体則』では胸「腔」と口「空」が併存している。1876年『解剖摘要』は数少ない振りがなのある解剖学書で「クウ」の振りがながついていた。ほかにも1881年『訓蒙動物学字解』では「クウ」の振りがながある。読みのてがかりがほとんどないので断定はできないが、これらをつき合わせると医学分野では最初から「クウ」の読みが存在していた可能性がある。

 明治から大正あたりは「クウ」と「コウ」が混在するようになった。「腔」をつかう「口腔」などの言葉が一般書籍にも使われるようになって、辞書的な読みが意識されたことも関係あるだろう。1898年『普通歯科衛生』、1908年『美術解剖学』といった本や、1880年代以降に見られる新聞のルビを確認するとどれも「コウ」と読ませている。一方で医学系和独辞典(1906年『日独羅医語新辞典』、1910年『実用和独羅新医学辞典』)では「クウ」と読ませている。

 「腔」は人体の中の空間を示す言葉なので、管轄は解剖学になる。その解剖学用語を統一しようという動きは昭和になってから出始めた。改訂を重ねていた鈴木文太郎『解剖学語彙』の編集に日本解剖学会が関与するようになり、1932年の第17版には振りがながつくようになった。それによると腔の読みは「コウ」となっているのだ。1941年の発生学用語に関する雑誌記事には「腔」は「クウ」とも「コウ」とも読まれるが、字書では「コウ」となっていて用語としてどうするか困っていることが書かれている。そして日本解剖学会がまとめた1944年の『解剖学用語』では一転「クウ」という読みに統一され、それ以降「クウ」の読みが広まって医学全体に浸透していくようになって現在にいたる。この間に何があったのだろうか。
 このころの解剖学用語の変革に携わった当事者である小川鼎三[おがわていぞう]は著書の中でこう振り返る。

 腔の字は正しくはコウと発音すべきだが、医者はクウと呼ぶことにしている。腔は体の中であちらこちらにあるので、それをみなコウとよむと耳で聞いて孔や口と区別できないので、手術などのときにまちがいが起りやすい。そのため医者は漢学を知らぬと罵られても構わず、必ずクウとよむことを今から四十年ほど前に用語委員会できめたのである。

 国語審議会の宇野委員の発言が意識されたのかどうかはわからない。小川のいう「四十年ほど前」というのが1930年代にあたり、「コウ」が「クウ」に変わった時期と合致している。この変化は明らかに意図的であった。

 医学分野で使われた当初はもしかすると「クウ」と読まれていたかもしれないものが、ことばの定着にしたがって「コウ」の読みもなされるようになり、用語統制のなかでいったん「コウ」になってから最終的に「クウ」で確定して統一されたということになる。「腔」のよみはかなり「ゆれ」ていた。ここではいろんな用例を挙げたが、それ以外の医学書などはほとんどに振りがながなく、どう読んでいるのかわからない。これこそが医学用語の読みが「ゆれ」る大きな原因なのだと思われる。

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文化庁のホームページ (国語施策情報)
http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/index.html
吉田秀夫氏のブログ 「腔の読み」 http://yosihide.sakura.ne.jp/index.html
小川鼎三 (1990) 『医学用語の起り』
鈴木重武 (1941) 「発生学用語について」日本医事新報917号, p.27-28

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