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第5回 義を見てせざるは……

 北京に滞在している間、大学のキャンパス内の宿舎に住んでいた。中国の大学のキャンパスは、大抵広々としていて、芝生の広場あり、ちょっとした木立あり、グラウンドあり、亭(あずまや)ありで、学内散歩にはことかかなかった。
 しかし、私が宿舎から教室まで行くにも、食堂や掲示板のところを通ってわざわざ遠回りをするほど散歩したのには、わけがあった。実はそこに張り出された張り紙や垂れ幕が見たかったからである。そうした立て看板や横断幕などに書かれた言葉から、いろいろなことが読みとれ、大げさにいえば、中国社会の縮図を見る思いがして、なかなか楽しかった。
 ま、こちらは一介の日本語教師。現代中国の政治や社会を研究する立場でもないので、極めて野次馬的目線から見ていただけだが、それでも目に入ってくるものは、なかなか興味深いものだった。

  最初はママゴン看板から始める。

「ママのいうこと聞いて! まじめに試験を受けるのよ!!」

 これは、試験期間中に第一学食の前に張り出された横断幕。「考試」は「試験」。要するに、カンニングするな、という意味だ。この大学ではカンニングはそれほど多くはないが、すれば単位没収、場合によっては退学となることが「受験上の注意」に書かれている。それにしても、大学が「母親の言葉」を借りて警告しなければならない辺りが中国的ともいえる。日本の大学ではまず見られないものだろう。実際、学生の書いた作文など読んでいても分かるが、中国の家庭における母親の権威はなかなかのものだ。さすが「孟母三遷」の国である。

 もう一つ試験期に張られた横断幕を紹介しよう。


「期末試験はDOTAと違う! 協力は要らない!!」

 DOTAというのは北京の男子学生の間ではやっているチーム・ストラテジー・ゲームの名前。複数の参加者が2つのチームに別れ、それぞれ協力しながら敵地に攻め込んで本拠地を破壊するというものだが、つまりは試験は集団でなく一人で闘うものだといっているわけだ。シャレたキャッチ・コピーにも見えるのだが、しかし、まあ今どきの中国の大学は、カンニングをするなというのに、学生の嗜好に合わせるという涙ぐましい努力までしているということなのだろうか?

 授業を終えて昼どきの学生食堂の前を通りかかると、正面に赤地に黄色い字の、派手な横断幕がかかっている。よくみると、なんと古漢語で
 「民以食为天,食以安为先」(「为」は「爲」の簡体字)
とある。対句になっていて、“天tiān”と“先xiān”が韻を踏んでいるところがミソだが、「民は食をもって天となし、食は安き(=安全)をもって先となす」とでも読むのだろうか。

午前の授業を終えて学食へ午前の授業を終えて学食へ

 宿舎に帰って調べてみると、どうやら「王者以民為天、而民以食為天」(『漢書』「酈食其(れきいき)伝」)が出典のようだ。まず「王は民をもって天となす」は、相変わらず孟子の王道論のような儒教臭がプンプンしているし、「民は食をもって天となす」にいたっては「人民は喰わせてさえおけば、文句いわないだろう」みたいな、何か統治する側の視線、最近の日本語で言えば「上から目線」が感じられてならないのだが、それは私だけだろうか?

 堂々と学生食堂の正面玄関に貼られたこの標語(?)は、しかし、誰がどういう目的のために張り出したものなのか、理解に苦しむところがある。学食のお客たる学生に対して「民は食をもって天となす」というとすれば、ちょっとばかり礼を失した感じがするし、「食は安き(=安全)をもって先となす」ということが言いたいなら、従業員向けに厨房にでも貼っておくべきものだろう。
 どうにも納得がいかず、学生たちに聞いてみると、キョトンとしていて、「それよりか学食、最近味が落ちたよねえ」というような話になってしまった。横断幕になんと書いてあろうと、あまり気にならないらしい。

 この「民以食为天」の句には後日譚がある。ある日、日本からきた友人を案内して、北京の観光地・什刹海のほとりにある有名な羊肉料理の店「烤肉季(カオロウジー)」にいったところ、店内に妙な垂れ幕があることに気がついた。

烤肉季の垂れ幕

  「食以洁为先」(<洁>は「潔」)とあって、ははぁ、これは学食の「食以安为先」のモジリか……。ところがここでは、「食は潔をもって先となす(食べ物は清潔第一)」と漢文でしゃっちょこばっておいて、あとは現代語で「安心して食事なさりたければ華天グループへ」と商売。終わり方がかわいいではないか!

 どうやら中国人のスローガン好きは、学内だけのことではないらしい。それに、この文句を作った人の心の裏に、「どうだ、オレは古典がわかるんだぞ」みたいな、漢文の教養をひけらかしているらしいことが見て取れる。ピシャっと意味が通らない分、よけいそれが感じられるのだ。見る人のほうも、古漢語(=漢文)というだけで深く意味も考えずに感心してしまっている風だ。
 だいたい中国の人は漢文を文字面から見て、なんとなく分かった気になっている人が多いようで、ネット上の古典解釈のページなどをみていても、この人はどういう意味に解釈してんだろうと首をかしげたくなる時がある。もっとも日本人だって、『万葉集』や『源氏物語』の文章をちゃんと解釈できるかと言われれば、下を向くしかないのだが、垂れ幕の文章を作るということになれば、必死で調べるだろう。そこの辺がエエカゲンというか、ま、細かいことはいいじゃんというような雰囲気がある。

 意味がわかっているのかどうかは別として、このような古漢語が、標語またはスローガンに使われるのは、そこに現代語にない簡潔さ、特有のリズム、韻律といったものがあるからだろう。口でいってカッコイイ、耳で聞いて心地いいから使われるのだ。こうした漢文の特色は、訓読して日本語になおしてみても基本的には同じだ。

 義を見てせざるは勇なきなり(論語・為政篇)
 士は己を知るもののために死す(史記・刺客列伝)
 燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや(史記・陳渉世家)

 みなカッコイイ。みじかく、簡潔で、断定的。しかも含蓄がある。中国語で読むとこれに声調がつくのだからたまらない。こうなるともう論理ではない、啖呵を切るような切り口上にシビレてしまうのだ。タテマエがカッコよければいいので、ホンネなんか知ったこっちゃない(だいたい、「義をみて」した人など、そんなにいないだろう)。

  現代語であれ古漢語であれ、どうやら中国語というのは、このように啖呵を切ったり、ヤジを飛ばしたり、シュプレヒコール(そういえばこういう言葉が昔はあった。みんなでスローガンを一斉に叫ぶのだ!)を叫んだりするのに適した言語であるらしい。日本語のように誰が~、何を~、とかベタベタくっつく膠着語とちがい、中国語は格関係を語の位置でみるだけで、動詞と名詞をポンポン吐きだしてゆくような言語だ。しかも、声調があるから抑揚が大きく、主張が激しく聞こえる。場合によってはケンカしているんでは、とさえ思われる時がある。中国語が孤立語と言われるゆえんだ。

 文化大革命の真っ最中、こうした甲高い声の中国語のスローガン、シュプレヒコールが中国全土に満ちあふれ、鳴り響いていた。
 <灵魂深处闹革命!> 魂の奥底で革命をやろう!
 <打倒美帝,打倒苏修,打倒各国反动派!> 打倒アメリカ帝国主義! 打倒ソ連修正主義! 打倒各国の反動派!
 <提高警惕,保卫祖国!!> 警戒心を高めて、祖国を守ろう!!

 私が中国語を学び始めたころは、CDもカセットもなく、生の中国語を聞こうとしてラジオをつけると、決まって聞こえてきたのが上記のようなスローガンだった。私はこのような甲高い声を聞きながら、毛沢東の『为人民服务(人民のために服務する)』を読んで中国語の勉強をした。が、残念ながらというか、当然ながらというか、挫折した。
 次に掲げるのは、私の手元に残っている1973年第5期の雑誌『考古』の第1頁。「人民、ただただ人民だけが、世界の歴史を創造する動力なのだ」とある。毎号必ず、第1頁に「毛沢東語録」が飾られていた。

雑誌『考古』1973年第5期

 このような「毛語録」はそのころの新聞やラジオはもちろん、雑誌、辞書にいたるまで溢れかえっていた。中には、この部分だけ赤字で刷ってあるものもあった。私としては、ただ中国の考古学の情報が知りたかっただけだったのだが、「只有(ただ~だけ)」とか「才是(~こそが)」といった強調語をちりばめたボルテージの高い文章、肉太の明朝体の大きな活字に翻弄され、語学を勉強したり、考古学をかじったりする前に、すでに疲れてしまっていた。

 あれからざっと40年の月日がたった。日本語教師として中国に住むようになった私は、ある日、ふとしたことがきっかけで日本からきた友人たちといっしょに北京西郊のさびれた村に遊びにいった。そこで偶然目にしたものは民家の壁にうっすらと残された文革の名残り……。

川底下村にて

 「全世界のプロレタリアートよ、団結せよ!」。
 30年前まで中国の全土に溢れかえっていたスローガン。このほんの数戸しかない村にまで、文革の高い波が押し寄せていたのだ。しばし足をとめて、時の流れに思いを致さざるをえなかった。

 しかし、それにしても……、私はこうした古い時代のスローガンが残っているのを、ほかの地方に行ったときも、いくつか目にしたことがある。日本人なら、時代が変われば、こういうブッソウな、というか、テレクサイものはすぐ消そうとするだろうが、それがそのまま残っているのも中国らしい。まるでその文字列の内容など関係なく、文字が書かれていれば、賑やかでいいではないかと思っているかのようだ。よく民家の入り口の両側に張られている「対聯(ついれん)」にしても似たようなものだ。なんとなくめでたい文字が並んでいれば、詳しい意味などどうでもいい、というのと似ている。

 時代がどう変わろうと、中国人の文字好き、スローガン好きは基本的に変わらぬもののようだ。北京の街を歩いていると、あちこちに政治的なスローガンをかかげた赤い横断幕をみかける。

三環路のバス停で三環路のバス停で

 「北京精神を実践しよう:愛国 創造 包容 厚徳
 バス停の上の横断歩道に、4つの立派な「北京精神」が掲げられている。具体的には何を言いたいのか分からないが、下のバス停の壁に貼られた映画「黄金大劫案(大盗事件)」のポスターのほうが人目を惹くような気もしないではない。

 大学の前の歩道橋にかかった横断幕にいたっては「社会主義の核心的価値観を育成・実践するのは社会全体の共同責任だ」とある。文字面は大仰だが、これまた、分かったような、分からないような……。

大学の前で大学の前で

 もっとも、街行く人はそんなものには無頓着の様子である。いちいち聞いて歩いたわけではないが、目に入ったとしても、なんとなく「お上がまた何か言っとるわい」と思っている程度ではないかと思われる。北京オリンピックのころはやったポスターのように「みんなで列を作って並びましょう」などというほうがよっぽど分かりやすい。
 どうやら中国人のなかには、何か一席ぶってやろう、カッコイイ文章を作ってやろう、というようなDNAがあるのではないか。一方、聞いている方も、私のようなひ弱な日本人とちがって、それを軽く聞き流す、しぶとい免疫のようなものができあがっているのではないかと思うのだ。

 いまやGDP世界第2位、毎日金儲けに忙しい中国の人々が、そんな垂れ幕などいちいち気にしているとは思えない。北京市内を歩き回り、横断幕やスローガンを写真に撮って喜んでいるのは、モノ好きな日本人くらいなものか。

(c)Morita Rokuro,2015

 

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