体感!痛感?中国文化
第1回 聞くと見るとは……
「柳絮(りゅうじょ)」というものをご存じの方は多いのではないかと思う。春先に柳(しだれやなぎ)や楊(ポプラ系のやなぎ)がつける、白い綿毛を帯びた種子である。しかし実際に見たことがあるという方は意外に少ないかも知れない。中国でも華北の、それも一年のうちの限られた時期にしか見られないものだから、何回も中国に旅行したことがあるという方でも、ちょうどその季節にそのような場所に行かないと見られない。
柳絮と聞いただけで、なにかロマンチックなものを感じさせるし、実際、「柳絮飛時花満城」(蘇軾)などという詩を読んで、私も「柳絮」というものにどれほどイメージを膨らませたことか分からない。柳の木からでる綿毛のようなものが、空中をふわふわ飛ぶのだ、というような解説を読んだだけでは具体的にどんなものか、分からなかったが、北京の案内書などにもよく「柳絮は北京の風物詩」だの、「柳絮舞う北京」だのと載っていて、一度でいいから見てみたいと思ったものだ。それが北京に日本語教師として行くことになって実現した。
柳絮は年によって飛ぶ量はかなり違うが、時期はだいたい4月下旬から5月の連休のころ。春の短い北京のことで、そのころには気温がすでにかなり高くなり、汗ばむほどの日がある。すると、ちらりちらりと白いものが飛び始めたかと見る間に、ほとんど吹雪のような状態になる。ははあ、これが柳絮か、と感慨にふけっている間もなく、目から鼻から綿毛が入り、口も開けられなくなる。道に溜まった柳絮は風で団子になって転がり、小汚いワタゴミと化す。大学のキャンパスは柳の木も楊の木も多いので、気温が高く、風のある日などは本当に吹雪く。
柳絮の吹雪
初めて柳絮を経験して喜んでいる日本人(喜んでいるのは、文字で知って詩情を感じている日本人だけだろう)を後目(しりめ)に、地元の人たちはマスクをし、ゴーグルをかけて対応する。柳絮とは迷惑千万なシロモノなのだ。ひどい人はアレルギー症状を引き起こしたり、喘息になったりすることさえあるという。まさに、聞くと見るとは大違い、であった。
日本人は、中国と漢字を共有し、古典の知識もかなりあるという利点がある一方、文字から得た知識と実際とがかけ離れていて戸惑うことも、往々にしてある。
さきほどの蘇軾の詩「花満城」にもある「城」の字だが、中国の「城(チョン)」と日本の「城(しろ)」とはちがうものだということは、わりによく知られている。たいていは杜甫の「春望」の詩が引き合いにだされる。
高校の漢文の時間のことだった。先生から、
国破れて山河あり、城春にして草木深し
の「城」は「しろ」のことではなく、街や都市のことだ。だから、ほんとうは「しろ」と訓読みしてはいけないのだ、というようなことを言われた。しかし国(くに)と城(しろ)の対比は、これはこれでよさそうだし、生意気ざかりの高校生のこと、そんなら「国」はなんで「くに」でいいんだろう、などと変な疑問をもっただけで終わった。
のちになって、中国の「城」は、外敵を防ぐために土を盛り上げてめぐらし、街を囲ったもので、都市のまわりを囲んでいる壁(城墻)が原義で、そのことから囲まれている都市や街そのものを「城」というようになったのだ、ということを知った。有名な張継の「楓橋夜泊」の句、「姑蘇城外寒山寺」の城も同じだし、中国の書籍のタイトルなどによく見かける<历史文化名城>というのも、大阪城や姫路城のような「名城」ではなく、名のある古い都市というほどの意味だ。
現代中国語でも<进城买东西>などというが、それは「(郊外から)町に買い物にいく」ことであり、<电子城>も秋葉原のようなパソコンショップがならぶ街という意味だ。
しかし、それらはあくまでも文字上の知識であって、「城」というものが本当に分かったのは、北京に暮らすようになってからだった。といっても北京の城壁は壊されて、東京の山手線みたいな環状の地下鉄になり、修復された門や櫓の部分ぐらいしか残っていない。西安や南京にいくとレンガづくりのかなり立派なものが残ってはいるが、それも一部だったり、修復されてえらく新しいものになっている。
ちなみに、中国の「修復」は、文化財をぴかぴかの立派なものに作りかえることであり、元に復す、つまり本来の姿を残そうとするような日本の修復とは概念がちがう。中国の人は立派になったといって喜んでいるが、たいていの日本人旅行者は失望して帰って来る。
その「修復」もさることながら、最近の中国では経済発展にともなって都市の大規模な再開発が進み、城壁はじゃまなだけ。残っていても街が城壁の外まで広く拡大してしまっていて、なかなか元の「城」のイメージがつかみにくくなっている。したがって、むかし栄えていたが、今は世の中からとりのこされてしまったような地方の小都市のほうに「城」が残っていることが多い。
たとえば河北省の正定県(石家荘の北部)。北京、保定とならんで北方の「三大名城」といわれる歴史の古い町で、唐代の鐘楼を現存している開元寺や隋代創建の隆興寺など、多くの古刹が残っている。私は「邯鄲の夢」で有名な戦国の趙の都・邯鄲に遊びにいった帰りに寄ったのだが、開発の手が入っていない分、伝統的な中国の「城」のイメージの色濃く残ったところだった。
城壁の上からみた正定の街並
規模は大きからず小さからず、四方を城壁に囲まれ、その城壁の上に立つと、内は民家の甍が連なり、外は見渡す限りの畑。この城壁の内側の街が「城」であり、その外がつまり「郊」なのだ。
中国は古い。ある日、戦国の七雄の一つ、「韓」の古城壁がいまも残っていると聞いて出かけた。私が卒論でやった『韓非子』の著者・韓非は、その韓の公子だった。秦の始皇帝は中国を統一する以前に韓非の著作を読み、深く感動して彼を咸陽(今の西安近郊)に呼び寄せた。ところが、ともに荀子の弟子であり今や秦の宰相となっている李斯に嫉まれ毒殺される。韓非死して三年、韓はついに秦の滅ぼすところとなる。
韓の古城壁が残っているのは河南省の新鄭という町。省都・鄭州市から南へ車を飛ばして一時間、行く手の右側に小山が現れる。近づくと「鄭韓故城」とある。
「鄭」は韓の前にこの地にあった国
土を固めて盛り上げる版築という工法でつくったものだろうが、そうとうに高い。ざっと20メートルもあるだろうか。上に亭が建っている。遠くから眺めるとちょっとした丘陵のようで、その規模といい発想といい、日本人の想像を絶するものだ。
私の勤めていた北京の大学の近くにも元代の土城が残っているが、風化したせいか、外敵から守るという機能が不要だったのか、あっけないほど低く、楽に騎馬で越えられる体のものだった。それに対して韓の土城は紀元前のもの、よくぞ残ったものである。
これほどの城壁をめぐらせても、強力な秦の大軍の前に韓はあえなく潰え去った。韓非自身、この土城を毎日のように見て暮らしていたはずである。今ではなんの変哲もない河南省の田舎町で、私は遠く2300年ほども前の時代に思いを馳せながら、一日を過ごした。
(c)Morita Rokuro,2015