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『荘子』大きな動物たち

 前回、魚が竜門という激流を登りきると竜になれるという「登竜門」のお話をしました。では、チャレンジしたけれど登り切れなかった魚はどうなるのでしょうか。実は中唐・白居易(七七二年から八四六年)に、竜門で挫折した魚を描く「点額魚」という詩があります。短い作品ですから全文を紹介しましょう。

 竜門点額意何如  竜門 点額 意は何如 
 紅尾青鬐却返初  紅尾青鬐[せいき] 却つて初に返る
 見説在天行雨苦  見説[みるなら]く 天に在りては雨を行ひて苦しと
 為竜未必勝為魚  竜と為るは未だ必ずしも魚と為るに勝らざらん

 竜になろうとチャレンジしてうまくいかず、竜門の石に頭を打ち付けてしまった魚が不憫ですが、実際には赤い尾、青い背びれは今まで通り、何も変わってはおりません。聞くところによれば雨を司る仕事は大変だとのこと、魚であるより竜になった方がいいとは限らないのかしら、という詩です。竜になっても苦労するだけ、魚のままの方がまし、というのは、左遷され、出世街道から外れた白居易の負け惜しみがにじみ出ているようにも思われますが、虎には虎のノルマがあったように(第五回)、竜には竜のノルマがあるというのも、なかなか世知辛いものです。
 ところで魚は竜門を登り切って竜になる以外にも、空に舞い上がるチャンスはあるようです。戦国時代(紀元前四〇三年から紀元前二二一年)の『荘子』逍遙遊篇の冒頭には北冥(北方の海)に住む鯤[こん]という巨大な魚が出てきます。幾千里もの大きさだとありますが、古典世界では千里はおよそ現在の五百キロメートル程度、尋常な大きさではなさそうです。その鯤が変化して鵬[ほう]という鳥になると、やはり幾千里もの大きさで、翼を振るわせて空高く舞い上がれば雲と見まごうほどだとあります。その鵬が北冥から南冥(南方の海)に移動すると、その羽ばたきで水面は三千里も波立ち、鵬は九万里の高さまで舞い上がります。なぜそのように高いところまで行かねばならないかについて、荘子は以下のように説明します。

風之積也不厚、則其負大翼也無力。故九万里、則風斯在下矣、而後乃今培風。背負青天而莫之夭閼者、而後乃今将図南。
風の積もること厚からざれば、則ち其の大翼を負ふに力無し。故に九万里なれば、則ち風斯[ここ]に下に在り、而[しか]る後に乃ち今風に培[の]る。背に青天を負ひて之を夭閼[えうあつ]する者莫し、而る後に乃ち今将に南を図らんとす。

 十分な水がないと大きな舟が浮かべられないように、十分な風がないと大きな鳥は飛べないのです。だから鵬は九万里の高さまで飛んで、遙か南冥に向かおうとします。何とも壮大なお話です。しかし、それを笑う者たちがいます。

蜩与鷽鳩笑之曰、「我決起而飛、搶榆枋。時則不至而控於地而已矣、奚以之九万里而南為。」
蜩[ひぐらし]と鷽鳩[かくきう]と之を笑ひて曰はく、「我は決起して飛び、榆枋を搶[つ]く。時に則ち至らずして地に控[こう]するのみ、奚[なん]ぞ之が九万里を以てして南するを為さん。」と。

 ヒグラシと小さなハト(鷽鳩)は空を飛ぶ小さな生き物の代表としてここに登場しています。彼らは鵬が高く舞い上がる理由も、遠くまで行こうとする志も理解できません。榆[にれ]や枋[まゆみ]の木を突き抜けて舞い上がろうとしても、時には失敗して地面に投げ出されることさえあるのに、どうして九万里も高く飛んで南になど行こうとするのか、意味がわからない、と自分たちの尺度で鵬を笑うのです。
 ヒグラシやハトは生きていくのに必要な距離だけ飛べればいい、と考えています。しかし、荘子は「小知は大知に及ばず(小知不及大知)」、小さな生き物たちの小さな知恵は、全てを超越していく大いなる知恵には及ばないのだと語ります。『荘子』ではここから、世界を遙か高みから見下ろす超越者を論じていきますが、私たちはいったんここで『荘子』を離れ、生き物たちの世界に視点を戻しましょう。
 大きな鳥と小さな鳥の対比という意味で、同じような発想を持つ故事成語に「燕雀安[いづ]くんぞ鴻鵠の志を知らんや(燕雀安知鴻鵠之志哉)」というものがあります。第二回の虎の威を借る狐の話で少し触れた陳勝という人物の言葉です。彼は秦王朝(紀元前二二一年から紀元前二〇六年)滅亡のきっかけとなった大きな反乱(陳勝[ちんしょう]呉広[ごこう]の乱)を起こし、一国の王にまで成り上がった人物として知られていますが、かつては小作農として貧しい生活を送っていました。そんな彼が仕事の休憩中、「もし富貴(金持ちや権力者)になったとしても、忘れないからな」と雇い主に声をかけ、雇い主から「小作人のくせに何が富貴だ」と笑われます。そのとき彼が口にしたのが「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」です。燕雀は文字通りツバメやスズメ、『荘子』におけるヒグラシやハトと同じ、小さな生き物であり、ここでは雇い主の比喩でしょう。そして大きな鳥である鴻鵠は、成り上がるつもりの陳勝自身ということになります。『荘子』の鵬は富や権力からも自由で超越的な存在ですから、陳勝のイメージしていた大物の鴻鵠とは少し異なりますが、小さな生き物が大きな鳥の気持ちを理解できないという対比においてはよく似た発想であると言えるでしょう。

 人として生まれたからには、大きな鳥のように力強く羽ばたいて、高い空から広い視野をもって生きるべきという考え方はよくわかります。確かにそれは魅力的です。しかし燕雀としての生活に馴染んだ私たちの中には、鵬や竜よりも、むしろ茂みを上手く通り抜けられず地面に落ちてしまうヒグラシやハトの気持ち、竜門を登ろうとして石に額をぶつけた魚の気持ちに共感を覚える人も案外多いのではないでしょうか。


『荘子』逍遙遊篇
原文
北冥有魚、其名為鯤。鯤之大、不知其幾千里也。化而為鳥、其名為鵬。鵬之背、不知其幾千里也。怒而飛、其翼若垂天之雲。是鳥也、海運則将徙於南冥。南冥者、天池也。斉諧者、志怪者也。諧之言曰、「鵬之徙於南冥也、水撃三千里、搏扶揺而上者九万里、去以六月息者也。」野馬也、塵埃也、生物之以息相吹也。天之蒼蒼、其正色邪。其遠而無所至極邪。其視下也亦若是則已矣。且夫水之積也不厚、則負大舟也無力。覆杯水於坳堂之上、則芥為之舟、置杯焉則膠、水浅而舟大也。風之積也不厚、則其負大翼也無力。故九万里、則風斯在下矣、而後乃今培風。背負青天而莫之夭閼者、而後乃今将図南。蜩与鷽鳩笑之曰、「我決起而飛、搶榆枋。時則不至而控於地而已矣、奚以之九万里而南為。」

書き下し文
北冥に魚有り、其の名鯤[こん]と為す。鯤の大なること、其の幾千里なるかを知らざるなり。化して鳥と為り、其の名鵬と為す。鵬の背は、其の幾千里なるかを知らざるなり。怒して飛べば、其の翼は垂天の雲の若[ごと]し。是の鳥、海運すれば則ち将に南冥に徙[うつ]らんとす。南冥は、天池なり。斉諧[せいかい]は、怪を志[しる]す者なり。諧の言に曰はく、「鵬の南冥に徙るや、水の撃すること三千里、扶揺に搏[う]ちて上ること九万里、去りて六月を以て息[いこ]ふ者なり。」と。野馬や、塵埃や、生物の息を以て相吹くなり。天の蒼蒼たるは、其れ正色か。其の遠くして至極なる所無きか。其の下を視るや是くの若くして則ち已む。且[か]つ夫[そ]れ水の積むこと厚からざれば、則ち大舟を負ふに力無し。杯水を坳堂[あうだう]の上に覆せば、則ち芥は之[こ]れ舟と為るも、杯を置けば則ち膠[かう]す。水浅くして舟大なればなり。風の積もること厚からざれば、則ち其の大翼を負ふに力無し。故に九万里なれば、則ち風斯[ここ]に下に在り、而[しか]る後に乃ち今風に培[の]る。背に青天を負ひて之を夭閼[えうあつ]する者莫し、而る後に乃ち今将に南を図らんとす。蜩[ひぐらし]と鷽鳩[かくきう]と之を笑ひて曰はく、「我は決起して飛び、榆枋を搶[つ]く。時に則ち至らずして地に控[こう]するのみ、奚[なん]ぞ之が九万里を以てして南するを為さん。」と。

『史記』巻四十八 「陳渉世家」
原文
陳勝者、陽城人也、字渉。呉広者、陽夏人也、字叔。陳渉少時、嘗与人傭耕、輟耕之壟上、悵恨久之、曰、「苟富貴、無相忘。」庸者笑而応曰、「若為庸耕、何富貴也。」陳涉太息曰、「嗟乎、燕雀安知鴻鵠之志哉。」

書き下し文
陳勝は、陽城の人なり、字は渉。呉広は、陽夏の人なり、字は叔。陳渉少[わか]き時、嘗て人の与[ため]に傭耕し、耕を輟[や]め壟上に之[ゆ]き、悵恨すること之を久しくし、曰はく、「苟[いやし]くも富貴となるとも、相忘るる無からん。」と。庸者笑ひて応へて曰はく、「若[なんぢ]庸耕を為す、何ぞ富貴ならん。」と。陳涉太息して曰はく、「嗟乎[ああ]、燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや。」と。

(c)Asako,Takashiba 2022

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