漢文世界のいきものたち
宋代の猫
前回は唐代の文学に登場する猫が「不仁」のものとされていたというお話をいたしました。その代表的な作品として韓愈「猫相乳」を紹介したのですが、宋代には司馬光(一〇一九年から一〇八六年)が「猫虪伝」を書いて韓愈「猫相乳」を批判しています。「猫虪伝」とは司馬光の飼っていた虪[しゅく]という猫(恐らく黒猫)の伝記です。虪は他の猫が餌を食べている間は遠慮して後ろで待っていたり、他の猫があまりに多くの子を産んだときには一部を引き取って我が子以上に大切に育てたり、子猫を守ろうとして犬に命がけで戦いを挑んだりと、とても思いやりがあり、献身的に振る舞う賢い猫でした。虪が死ぬと司馬光は大切に埋葬してやり、このように論じます。
昔韓文公作「猫相乳説」、以為北平王之徳感応召致。及余家有虪、乃知物性各於其類、自有善悪。韓子之説、幾於諂耳。嗟乎、人有不知仁義、貪冒争奪、病人以利己者、聞虪所為、得無愧哉。(昔韓文公「猫相乳説」を作り、以為[おもへ]らく北平王の徳感応召致すと。余の家に虪有るに及び、乃ち物性の各の其類に於いて、自ら善悪有れば、韓子の説、諂に幾[ちか]きを知るのみ。嗟乎[ああ]、人に仁義を知らざる有り、貪冒争奪して、人を病みて以て己に利する者は、虪の為す所を聞きて、愧づる無きを得んや。)
かつて韓愈(韓文公)は「猫相乳」の説を書き、北平王の人徳が猫にまでいい影響を及ぼしたと指摘していたが、虪を飼ってみて、善悪などはそれぞれにもとから備わった性質なのだとわかった、というわけです。その上で、韓愈の文章は北平王にこびへつらうものであると批判し、人でありながら仁義のない者は、虪に対して恥ずかしいと思うだろうと述べて虪を称えます。さらに司馬光は、他の人にもらわれた後も司馬光を慕い続けた山賓[さんひん]という別の猫のエピソードも添えて虪の伝記を結んでいます。
先ほど読んだ作品は亡き飼い猫を語る文章でしたが、飼い猫を追悼する詩もあります。川合康三先生の偏愛的漢詩電子帖にも紹介されている、北宋・梅尭臣[ばいぎょうしん](一〇〇二年から一〇六〇年)の「祭猫(猫を祭る)」を見てみましょう。梅尭臣は船で旅をしています。自宅で飼っていた猫(恐らく白猫)の五白[ごはく]もその旅に同行しており、船の中で一緒に暮らしていたのですが、不幸にも死んでしまい、梅尭臣は猫を追悼して「祭猫」詩を作りました。
自有五白猫 五白の猫を有してより
鼠不侵我書 鼠は我が書を侵さず
五白が家に来てから、鼠に本を齧られることがなくなったことから詠い起し、詩人は船旅でも食料を鼠にかじられずに済んだことを五白の功績として称えています。働きがあるのだから鶏や豚よりも優れているけれど、世の人は重たいものを運べる馬や驢馬の方が価値があるなどと言うのだ、と憤りつつ、詩人は亡くなった五白を思ってすすり泣くのです。
この詩の途中に五白の思い出を詠う場面があります。
昔汝噛一鼠 昔 汝[なんぢ] 一鼠を噛み
銜鳴遶庭除 銜へ鳴きて庭除[ていぢょ]を遶[めぐ]る
欲使衆鼠驚 衆鼠をして驚かしめんと欲し
意将清我盧 意は将に我が盧を清めんとするなり
あるとき、お前は一匹の鼠を捕らえ、銜えて鳴きながら庭をぐるりと回っていた、それは鼠たちを恐れさせ、我が家から鼠を追い出してやろうとしたからなのだ、と詩人は詠っているのですが、五白が果たして本当に家中の鼠を脅して追い出してやろうなどと考えていたかはわかりません。いささか五白を人間に都合よく捉えて功績を過大に評価しているようにも見えますが、それは梅尭臣が心から五白を愛していたからでしょう。
追悼の詩だけでなく、生きている猫にプレゼントされた詩もあります。南宋・陸游(一一二五年から一二一〇年)の「贈猫(猫に贈る)」という五言律詩を読んでみましょう。
塩裹聘狸奴 塩裹[えんか]もて狸奴[りど]を聘[へい]し
常看戯座隅 常に座隅に戯るるを看る
時時酔薄荷 時時に薄荷に酔い
夜夜佔氍毹 夜夜に氍毹[くゆ]を佔[し]む
鼠穴功方列 鼠穴[そけつ]の功 方[まさ]に列するに
魚餐賞豈無 魚餐の賞 豈に無からんや
仍当立名字 仍[よ]りて当に名字を立てて
喚作小於菟 喚びて小於菟[しょうおと]と作[な]すべし
陸游はとても長生きかつ多作の詩人で、九千首を超える詩を残しています。彼は憂国の思いを詠う詩歌も多く作りましたが、日常のさりげない一コマを巧みに捉えた詩にも面白い作品が多く、「贈猫」もそのうちの一つです。
陸游はまず猫(狸奴)との出会いを「塩裹」、塩一包みと引き換えにもらってきたのだと振り返り、それ以降いつもその猫が側にいたことを詠います。猫は薄荷(ハッカ)のにおいをかいでは酔っ払い、毎晩じゅうたんを独り占め。日本ではマタタビほど有名ではありませんが、猫を酔わせるキャットニップ(シソ科の多年草)は薄荷の仲間です。そんな気ままで可愛い猫に対し、鼠を撃退した功績が非常に大きいのに、魚さえ満足に食べさせてやれないと陸游は気に病んで、「小於菟」という名前を与えようと詠って詩を結びます。「於菟」とは虎のことですから、「小」を冠するとはいえずいぶんと立派な名前です。
陸游の詩の中には「小於菟」のほか、「雪児」「粉鼻」などという飼い猫の名も登場してきます。「雪児」は雪のように真っ白だったのでしょうか。「粉鼻」はきっとおしろいをはたいたように鼻先が際立って白かったに違いありません。
唐代には鼠を殺すためにか不仁の獣とされていた猫は、宋代にはそれぞれの個性を愛され、鼠を捕ることを功績として称えられ、亡くなると追悼される、家族のような存在となっていました。一匹ずつそれぞれの名前を呼んでそのエピソードを語るところに、宋代の文人たちの猫への愛情の在り方がにじみ出ています。猫を人間のよき友として愛する文化は、現代に限られたことではないようです。
北宋・梅尭臣「祭猫」詩
原文・書き下し文
自有五白猫 五白の猫を有してより
鼠不侵我書 鼠は我が書を侵さず
今朝五白死 今朝 五白死し
祭与飯与魚 祭りて飯と魚とを与ふ
送之于中河 之を中河に送り
呪爾非疎爾 爾を呪するは爾を疎むに非ず
昔汝噛一鼠 昔 汝 一鼠を噛み
銜鳴遶庭除 銜へ鳴きて庭除を遶る
欲使衆鼠驚 衆鼠をして驚かしめんと欲し
意将清我盧 意は将に我が盧を清めんとするなり
一従登舟来 一たび舟に登り来りてより
舟中同屋居 舟中に屋を同じくして居す
糗糧雖甚薄 糗糧[きうりやう] 甚だ薄しと雖も
免食漏窃余 漏窃の余を食らふを免る
是実爾有勤 是れ実に爾の勤有ればなり
有勤勝鶏猪 勤有るは鶏猪に勝る
世人重駆駕 世人は駆駕を重んじ
謂不如馬驢 馬驢に如かずと謂ふ
已矣莫復論 已矣[やんぬるかな] 復た論ずる莫かれ
為爾聊欷歔 爾[なんぢ]が為に聊か欷歔[ききよ]す
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