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『漢文教室』77号(1966年6月発行)掲載

李白詩の奇想性


   (一)
 宝応元年(七六二)十一月、李白は、安徽省南部の当塗において、その地の県令である族叔の李陽冰の家で没した。享年六十二。李華の「故翰林学士李君墓誌序」によれば、死に臨んで「臨終歌」を作ったという。李太白文集に載せられている「臨歌」がそれであろうと考えられている。その「臨路歌」にいう、

  大鵬飛びて 八裔に振るふ
  中天に摧かれて 力済(すく)ひえず
  余風は 万世に激し
  扶桑に遊びて 左袂を掛く
  後人 之を得て此を伝へん
  仲尼亡(し)すとも 誰か為に涕(なみだ)を出ださん
   大鵬飛兮振八裔  中天摧兮力不濟
   餘風激兮萬世   遊扶桑兮掛左袂
   後人得之傳此   仲尼亡兮誰爲出涕
 「大鵬」とは、いうまでもなく荘子・逍遙遊に出てくる大鵬、李白はかつて北海に遊んだとき、北海の太守李邕に向かって自己紹介する詩にも、
  大鵬 一日 風と同(とも)に起ち
  扶揺に直上すること九万里(「上李邕」)
とうたった。若い時期の作品に「大鵬賦」というのもある。死に臨んで、それらの思い出がふたたびよみがえったのであろうか、またもやみずからを大鵬になぞらえた。厳忌の「哀時命」に、「左挂於搏桑」とある。「遊扶桑兮掛左袂」は、それを意識しているであろう。これまた、スケールの大きい表現である。そしてさらに、みずからを孔子になぞらえようとする。
 李白がみずからを孔子になぞらえようとする姿勢は、この詩にのみに示されるのではない。李白の「古風」第一首においても、
  大雅 久しく作(をこ)らず
  吾 衰へなば 竟(つひ)に誰か陳(の)べん
と、文学者としての自己の自覚を胸はってのべる詩の終わりに、
  我が志は 刪述に在り
  輝(ひかり)を垂れて 千春を映(て)らさん
  聖を希(こひねが)ひて如(も)し立つ有らば
  筆を 獲麟に絶たん
とのべる。これまた、みずからを孔子に比定する。また、「讒(そしり)を雪(そそ)ぐの詩、友人に贈る」は、黄錫珪は四十三歳の作とし、詹鍈は五十歳の作と考えるものであるが、そこにおいてもいう、
  人の生(いのち)は 実に難し
  此の織羅に逢ひぬ(織羅は、無実の罪を作りあげられること)
  毀(そしり)を積まば金をも銷かす
  沈き憂ひもて 歌を作る
  (されど)天の未だ文を喪ぼさざる
  其れ予(われ)を如何(いかん)せん
   人生實難 逢此織羅
   積毀銷金 沈憂作歌
   天未喪文 其如予何
 「人生実難」とは、陶淵明の「自祭文」のことばである。詩経・王風・「兎爰」に、「逢此百罹」(此の百(くさぐさ)の罹(うれひ)に逢ひね)という。国語・周語下に、「諺に曰く、衆心城を成し、衆口金を鑠(と)かす」とあり、曹植、当牆欲高行に、「衆口以て金をも鑠かす可し、讒言三たび至らば、慈母も親とせず」とある。「天未喪文、其如予何」は、論語・子罕、孔子が匡で囲まれたときのことば、
  文王既に没するも、文茲(ここ)に在らずや(乎)。
 天の将に斯文を喪ぼさんとするや、後死の者は斯文に与(あづか)るを得ず(也)。天の未だ斯文を喪ぼさざるや、匡人 与を如何せん。
をふまえる。ここにおいても李白は、みずからを孔子になぞらえる。
 文学における自己の位置を孔子になぞらえるというのは、一見まことに傲慢である。しかしその傲慢さが、みずからの自信において、堂々と、無邪気に語られているところに、李白の面目がある。

   (二)
 李白はスケールの大きいことが好きであった。
○白髪三千丈
  愁に縁りて箇(かく)の似(ごと)く長し(秋浦歌其十五)
○燕山の雪花 大なること席(むしろ)の如し
  片片 吹き落つ軒轅の台に(北風行)
  「軒轅」とは、黄帝である。
○黄河も土を捧(すく)はば 尚ほ塞ぐ可きも
  北風雨雪 恨み裁(た)ち難し(北風行)
○飛文の何ぞ灑落する
  万象 之が為に摧(くだ)く(陪族叔當塗宰、遊化城寺升公清風亭)
 いずれも余人の追随を許さぬ大きなスケールの表現である。逆にまた、大きなスケールのなかに極微のものを写し出す作品もある。たとえば「観放白鷹」の詩にいう
  八月 辺風高し
  胡鷹 白錦の毛
  孤(ひと)り飛ぶ 一片の雪
  百里 秋毫の見ゆ
   八月邊風高 胡鷹白錦毛
   孤飛一片雪 百里見秋毫
そこには、論理を無視した奔放さがある。たとえば「白鷺鷥」(しらさぎ)を詠ずる次の句も、またそうである。
  白鷺 秋水に下る
  孤飛 墜(お)つる霜の如し
   白鷺下秋水 孤飛如墜霜
 総じて李白は、論理を超脱した直感を、しばしば駆使する。たとえば有名な「贈汪倫」の詩にいう、
  李白 舟に乗りて将に行かんとすれば
  忽ち聞こゆ 岸上 踏歌の声を
  桃花潭の水 深さ千尺
  及ばず汪倫の 我を送るの情に
   李白乗舟将欲行  忽聞岸上踏歌聲
   桃花潭水深千尺  不及汪倫送我情
これは送別の詩であるが、ふつう送別の詩は、留まる者がたち去る相手にむけてうたうものが多いのに、この作品では、送られて舟中にある李白が、見送る汪倫なる人物によびかけている。しかもおもしろいことは、千尺の水の深さも、汪倫が自分を送ってくれる心情の深さには及ばないとして、水の深さを心の深さにきりかえているところで、そこには論理を無視した、人をおどろかせる奇想がある。頻用するとそれはだじゃれに堕するが、この場合は奇想のおもしろさを、まことに効果的に、即興をもって示している。その技法は、また次の詩にも見られる。
   金陵酒肆にての留別
  風は柳花を吹いて 満店香し
  呉姫酒を圧(しぼ)りて 客を喚(よ)びて嘗(な)めしむ
  金陵の子弟 来りて相送り
  行かんと欲して行かず 各 觴を尽くす
  請ふ君 試みに問へ 東流の水に
  別意 これと 誰か短長なる
    金陵酒肆留別
   風吹柳花滿店香  呉姫壓酒喚客嘗
   金陵子弟來相送  欲行不行各盡觴
   請君試問東流水  別意與之誰短長
 東流の水の長さと、別意の「短長」とを比較するという発想は、これまた奇、思いもかけない奔放な即興といえよう。
 李白の論理を無視したおもしろさのひとつは、常識をはずし、視点をかえたところにおいて、直感的なひらめきを、大胆におし出すことにある。
  功名富貴 若(も)し長(とこしへ)に在らば
  漢水も 亦 応に西北に流るるべし(江上吟)
   功名富貴若長在  漢水亦應西北流
「蜀道難」の詩において、「連峰 天を去ること尺に盈(み)たず」といういいかたがある。常識の域においてものをいうならば、せいぜい想を飛躍させても、連峰は天に近づくかに思われる、といったていどの表現しか思いうかばないのであるが、この場合李白は、連峰、これは天から離れること尺にみたないとして、視点を天におき、天からの距離をものいおうとする。山から天へのへだたりでなく、天から山までのへだたりにおいて、この場合連峰の高さをとらえている。「烏棲曲」に、「青山銜(ふく)まんと欲す半辺の日」という。太陽が山の端に沈もうとする状景を、山が、半分の日輪をくわえこもうとするというつかまえかたにおいて、とらえている。それはいうなれば、視点の転移によるおもしろさをねらうものともいえるのであるが、李白の場合にあっては、技巧を求めてのくふうというよりはむしろ、生得のひらめきといったものを感じさせる。たしかに李白は、どこか常人とちがったもののみかた、感じかたを、生来、本質的に持っていた詩人であったように思われる。有名な「登金陵鳳凰臺」の詩中の句、「三山 半ば落つ青天の外」も、いわば視点の転移ともいうべき発想の連似例として、理解することができよう。中空高くそびえる三山が、雲でたちきられて中腹以下しか見えない状態を、頂上から半分までが、青天の外におちてしまったと直覚したものと考えるが、そびえたつという、いわばプラスの方向の現象を、落ちる、おちこむという、マイナスの現象を示すことばで逆に表出するその才能は、異常であり、奇想である。「半ば落つ青天の外」といういいかたは、李白は別の詩においても利用している。それは「贈従弟宣州長史昭」と題される詩で、自分が淮南から江南の地まで、なかば青天の外と思われるところへ、出かけたという内容のことを、「半ば落つ青天の外」と表現する。「登金陵鳳凰臺」の「半ば落つ青天の外」が、立体空間についての説明であろうとするのに対して、この場は平面空間についての説明であり、平面空間の説明としての「半ば落つ青天の外」は、比較的わかりやすく、かくべつ異常というひらめきを感じさせるものではないが、同じ句を、平面空間においても立体空間においてもつかいこなすその才能は、やはり凡常ではない。そこにはおのずからなる、視点の転移がある。李白はそうした視点の転移を、直感的に、奔放にやってのける一種の芸術的ひらめきを、鋭角的に持っていた詩人なのである。彼の詩に時に見る論理を無視した非論理のおもしろさ、常識を逸脱させたところに生ずるおもしろさ、そうしたおもしろさは、やはりかれが生得にもっていた「視点転移」の能力と、根底においてつらなるものである。

   (三)
 李白は、画家的才能の持ち主でもある。もしまた写真芸術家にしたならば、これまた異常なひらめきを示したであろう。デッサンの描写、あるいは造型性という点では、杜甫の方があるいはより的確であるかもしれない。しかし一方李白は、美へのあざやかなひらめきがある。画家ならば、色彩の思いももうけぬ効果を発揮したかもしれない。写真家ならば、アングルの奇絶さ、光線のつかまえ方などに、常人にないひらめきを示したであろう。そうした才能の片鱗を示すものとして、たとえば次の作品をとりあげることができる。
   姪の良 二妓を携へて会稽に赴くを送り、
   戯れに此の贈有り
  妓を携へて 東山に去(ゆ)く
  春光は 半道に催(うな)がす
  遙かに看れば 桃李の若(ごと)し
  双(ふた)りながら、鏡中に入りて開く
    送姪良携二妓赴会稽、戯有此贈
   携妓東山去 春光半道催
   遙看若桃李 双入鏡中開
 「東山」とは、晋の謝安が俗塵を避けて隠棲したというゆかりの地で、今の浙江省、そこには謝安が妓女をつれて遊んだという薔薇洞の遺跡もあった。いま姪の良がゆく会稽も、また浙江省、同方向の地である。そこで李白は、謝安の故事を思いうかべる。かつての謝安がそうであったように、春の光が目的地へ人をおいたてるふぜいだ。そして両手に花ともいうべき良のうしろ姿を見たてて、桃李のような美妓が、さながら今日の三面鏡にうつし出したようにパッと輝やかに見える、とうたったもののように感ぜられる。あざやかな光線、あざやかな色彩、そして奇想をうかがうことができる。
「越女詞」〈其五〉、
  鏡湖 水は月の如し
  耶渓 女は雪の如し
  新粧 新波に蕩(ゆらめ)き
  光景 両(ふた)つながら奇絶
     越女湖 其五
   鏡湖水如月  耶渓女如雪
   新粧蕩新波  光景兩奇絶
もまた、あざやかな一幅の絵、ないしは写真である。浙江省にある鏡湖、会稽から鏡湖に流れこむ若耶渓、この二つの越の代表的地名をとりあつかいながら、美女の新粧と新波とが、照映するさまを的確にとらえて、短いことばで「奇絶」と説明したその発想ないし着眼は、またまた「奇絶」である。「友人の蜀に入るを送る」の詩の、
  山は 人面より起り
  雲は 馬頭に傍(そ)ひて生ず
   山從人面起  雲傍馬頭生
この二句からは、アングルの鋭さを感ぜしめる。
 李白は、六朝の詩人中、とくに謝朓(四六四─四九九)にきわだった関心と尊敬とを示した。李白は五十歳をすぎて、一時宣城に滞在するのであるが、それも謝朓をしたってのことであった。次の詩がそれを示す。
  我は家す 敬亭の下に
  輒ち継がん 謝公の作を
  相去ること 数百年なるも
  風期は宛(さなが)ら 昨(きのふ)の如し(遊敬亭寄崔侍御)
 謝朓は、梁の鐘嶸(しょうこう)の詩品において「奇章秀句、往往にして警逎」と評された詩人であるが、巧みな対句の技巧を駆使して、景物をあざやかに写し出した詩人である。「余霞 散じて綺(あや)を成し、澄江 静かなること練の如し」は謝朓の代表的対句として世に知られている。李白自身、この句が好きであった。李白の詩のなかに、「水は一疋の練(ねりぎぬ)の如し」(秋浦吟)「解(よ)くぞ遂(い)ひたり澄江浄きこと練の如しと、人をして長(とは)に謝玄暉を憶(おも)はしむ。」(金陵城西楼月下吟)などの句を見る。また、謝朓の「朔風は飛雨を吹き、蕭条たり江上の原に」(観朝雨)を思いおこして李白は、「我は吟ず 謝朓の詩上の語を、朔風颯颯飛雨を吹く」(酬殷明佐見贈五雲裘歌)ともうたう。李白はなぜ、謝朓をとくに好んだのか、漢の賦、建安の詩、謝朓、この三者をくるめて評して李白は、「倶に逸興を懐きて壮思を飛ばす」(宣州謝朓楼、餞別校書叔雲、「倶懐逸興壮思飛」)といっているが、謝朓の詩にしばしば示された「逸興」的ひらめきをもった対象措写の切れ味、それを好むところが一面にたしかにあったにちがいない。
 李白の詩は、ダイナミックでスケールが大きいために、とかく部分的な対句の美しさがスケールにのまれて目だたないのであるが、細かく観察してみると、しばしばなかなかすぐれた対句表現を用いる。
  天は長くして 落日は遠く
  水は浄くして 寒波は流る
   天長落日遠 水浄寒波流(登二新平棲一)
  雨洗(そそ)ぎて 秋山は浄(きよ)く
  林光(て)りて 澹碧滋(ふか)し
   雨洗秋山浄  林光澹碧滋
  (與賈至舎人、於龍興寺剪落梧桐枝、望*湖)*は氵+邕
  野竹は 青靄を分かち
  飛泉は 碧峰に挂(かか)る
   野竹分青靄  飛泉挂碧峰(訪戴天山道士不遇)
は、みな李白の詩中の対句であるが、これをたとえば謝朓の次の対句などの中にまぜたとき、謝朓と李白との感覚のちがいを、どこに発見することができるであろうか、まことに両者の感覚は、あるときには期せずして共通するものがある。
  雲は去る 蒼梧の野に
  水は還(めぐ)り 江漢は流る
   雲去蒼梧野  水還江漢流(謝朓、新亭渚別范零陵詩)
  日出てて 衆鳥散じ
  山瞑(く)れて 孤猿吟(さけ)ぶ
   日出衆鳥散 山瞑孤猿吟(謝朓、郡内高斎間坐答呂法曹)
  日華 川上に動き
  風光 草際に浮かぶ
   日華川上動  風光草際浮(謝朓、和徐都曹)
  花叢 数蝶乱れ
  風簾 双燕入る
   花叢亂數蝶  風簾入雙燕(謝朓、和王主簿怨情)
 李白の詩人的感覚は、美しいもののとらえ方の好みにおいて、謝朓のそれとにかようものが多分にある。李白が謝朓を好んだのは、謝朓の「奇章秀句」のなかに、しばしば李白自身の眼と同質のものを感じとったからであろう。李白は、謝朓のきめの細かいひらめきを共感をもってキャッチすることができる天分ゆたかな芸術家であった。
 李白は、対象の描出において、ひらめきをことのほかに好んだらしい。そのことを端的に示すものは、「逸興」ということばの愛用である。すでにのべたように、謝朓を含めての評価において「逸興」ということばを使用していたが、そのほか、かくべつの親愛の情を友人に示す場合に、みずからが好む「逸興」ということばを用いる。たとえばいう
  張公 逸興多し(泛沔州城南郎官湖)
  陶公 逸興多し(登単父陶少府半月台)
風景がみごとな場合、また「逸興」ということばを用いる。
  逸興 呉雲に満つ(送王屋山人魏万還王屋)
  此の中 逸興多し(送友人尋越中山水)
 かくべつの詩情をもよおすとき、また「逸興」ということばを用いる。
  狂客の帰舟 逸興多し(送賀賓客帰越)
  三山 逸興を動かす(與従姪杭州刺史良遊天竺寺)
  茫然として逸興起こる(尋魯城北范居士失道落蒼耳中、見范置酒摘蒼耳作)
 その他李白の詩には「逸気」「逸韻」「逸趣」「逸藻」などの用語例を見るのであるが、それらはいずれも李白が「逸─」ということばをかくべつに好んだものらしいことを示す。「逸興」とは何であろうか。それは、詩的感興の「奇」であるといえよう。李白は、「逸興」をこそよしとし、「逸興」にもとづいた詩的発想、「逸興」を示す詩的表現を、実のところは好んだといってよい。「逸興」に、芸術家の生命をかけていたということができる。明の胡応麟は、詩藪においていう、「太白(李白)の幻語は、長吉(李賀)の濫觴(さきがけ)たり(内編三、古体下、七言)、宋、張表臣の珊瑚鉤詩話にいう、
  李唐の群英、唯だ韓文公(韓愈)の文、李太白の詩は、務めて陳言を去り、多く新意を出だす。
 これらのことばは、李白の詩がもつ感覚の新鮮さときれあじとに注意をむけるものである。

   (四)
 李白はこれまで、幻想的詩人として主として説かれてきた。李白の幻想性については、中国詩人選集「李白」の吉川幸次郎教授の跋文にすぐれた叙実がある。もとよりわたくしも、李白の詩がもつ幻想性を否定しない。しかし反面李白の詩には、なかなかに現実精神、いわゆるリアリズムの精神が横溢するものもある。李白のリアリズム的精神と、空想性とがたくみにマッチした作品としては、「行路難」「蜀道難」「望廬山瀑布」などの長編の詩があげられる。そこにおいて李白は、遺憾なくその傑出する才能を、縦横に奔放に噴出させる。李白の現実感覚を、比較的まともに示すものは、「古風」五十九首の連作、とくにそのうちの〈其六〉〈其十四〉〈其三十四〉などである。そのうち〈其三十四〉についてはすでに前号で紹介した。〈其十四〉は、玄宗が辺地に兵力を使用し、そのために士卒が苦しんでいることをうたうものであるが、そこにおいていう、
  荒城 大漠に空しく
  辺邑 遺れる堵(かき)無し
  白骨は 千霜に横たはり
  嵯峨として 榛莾を蔽ふ
以下その叙述は、杜甫の「兵車行」にもかようものがある。
 李白はたしかに、道教に強い傾斜を示す茫漠とした空想性ゆたかな詩人であるが、雲のきれめに霊峰のきびしい山肌をのぞかせるに似て、時たま、はげしい現実意識を露呈させる。美的感覚においてもきれあじを愛するごとく、李白は、現実感覚においても、うもれてきびしいものがある。その現実感覚は、李白とほぼ同年の高適とともに、杜甫の師となりうるところがある。高適については、いずれ回を改めてのべるであろう。
 もし李白の、絵画性、芸術性のみを問題にするならば、李白は孟浩然の門弟になるであろう(漢文教室七十六号参照)。しかしまた同時に、李白の秘められた現実意識、そして造型性を問題にしたときは、李白は杜甫の師たりうる。李白はまことに、完成させず、十分に開花せざる、偉大な才能を、茫漠たる膜の中に秘めたる、巨人である。

   (五)
 李白の「逸興」は、論理の無視、視点の転移、芸術感覚、現実精神などの諸部面において、ゆくとして佳ならざるところなく、随時随処に発揮される。しかし一面、この過剰な自信家において、時にさびしさの感情をもらすことがある。どこにかれは、人生の悲哀を感じていたのであろうか。かれはそれを「悲歌行」においてうたう。「悲歌行」はかれの別の作品「笑歌行」と対するもので、遊びの文芸としての性格をもつものであるが、その前半においては比較的きまじめに、李白の心の片鱗をのぞかせる。第一に李白は、天地の空間において真の知己を得ない孤独感をつらねる。
  悲しみ来れるかな 悲しみ来れるかな
  主人酒有りとも 且(しばら)く斟(く)む莫かれ
  我が一曲の悲来の吟を聴け
  悲しみ来りて吟ぜず還(ま)た笑はず
  天下 人の我が心を知るもの無し。
  (後略)
  悲來乎 悲來乎
  主人有酒且莫斟  聽我一曲悲來吟
  悲來不吟還不笑  天下無人知我心
 次には、悠遠なる時間に対する須臾なる人生の無常感、そしてそれにともなうわびしさをつらねる。
  悲しみ来れるかな 悲しみ来れるかな
  天は長しと雖も 地は久しと雖も
  金玉堂に満つとも 応(まさ)に守られざるべし
  富貴百年なりとも 能く幾何(いくばく)ぞ
  死生一度は 人皆有り
  孤猿 坐して啼く墳(はか)の上の月に
  且(しばら)く須らく一たび杯中の酒を尽くすべし(後略)
   悲來乎 悲來乎
   天雖長 地雖久  金玉滿堂應不守
   富貴百年能幾何  死生一度人皆有
   孤猿坐啼墳上月  且須一盡杯中酒
 次にはいう、今は澆季の世界、「鳳凰至らず河に図無し」、古の聖王のことは、ただ昔話しとして残るのみ。忠義の人は放逐される。そして、この世においては、たとえば漢書にいう卜式が、無学で一経すら治めぬのに財産があったために立身したごとく、功名をとるのがよい、というデカタンスの感情をもって終りを結ぶ、
  還(ま)た須らく黒頭もて方伯を取るべし
  謾(みだり)に白首にて儒生と為る莫かれ
 第三の悲しみとして李白がのべるものは、現実の政治の問題、また人間の誠実さがしばしば裏ぎられる悲しみである。李白が時おり、孤独の感情を詩にもらすのは、興味あることである。それはたとえば、「月下独酌」や「把酒問月」など、月を相手にした場合、特に顕著に示される。孤独をいやすものは、月、酒、そして詩であった。ただし李白の孤独感には、じめじめしたところはない。孤独感の表白においても、李白はまた豪にして逸である。
 無常感を主題にするものは、さらに「古風」の中に見られる。〈其九〉〈其十一〉〈其三十九〉などがそれである。これは、阮籍の「詠懐詩」に類するもので、発言としてとくにうんぬんすべき新しいものはないが、やはり李白の深層感情の断面を示すものではある。無常感のなぐさめは、観念としては遊仙の志に赴くのであるが、いまここで、李白詩の遊仙への趣向をとりあげるのはさけよう。
 李白の詩情の基底においては、実は底のぬけた無常感が横たわっていたといってよい。そしてその無常感が、とりもなおさず、李白のリリシズムのエネルギー源になっているのだと理解することができる。それは詩人の心につねに横たわりやどるものではあるが、李白の場合は、大きな振幅をもって一段とはげしくゆれる。そこに李白文学の強烈な性格の因由を求めることができる。悲哀の変形が、開放感の発散となり、時に、現実社会からの韜晦となり、時にはユーモアともなるのである。
 唐詩において、個人の悲哀感に発する悲哀の大きな振幅は、李白において始めて顕著に示されると考えられる。王維は、李白より二年年長であったと考えられるが、王維の悲哀感は、なまの感情がおしころされ、自然の叙景に吸収される。李白の場合は、悲哀感が開放的に発散され、それがまた新たなファンタジーの世界を生む。そして李白に示された悲哀感の大きな振幅は、これまた杜甫の文学にうけつがれるもののように考えられる。
 李白の詩には、放逸さ、豪邁さにおいて、人々がかくもありたいとひそかに思う、その人々の願いの心を、代表してうたうといった性格がある。李白の詩に具現された振幅の大きい放逸さは、盛唐の時代精神でもあった。それゆえに李白の詩は、革命後の中国の李白研究家が指摘するごとく、盛唐の豪放な時代思潮を、民衆にかわってうたうものでもある、とする評価も可能である。李白の詩は、当時の人々に、大いに歓迎されたものであったらしい。とくに、ダイナミックな情感を横溢させた歌行体の詩がそうであった。杜甫は、即興の酔歌がうまかった友人の薛華を評して、「近来海内にて長句を為(つく)る、汝と山東の李白と好し」とのべているが(蘇端・薛復筵簡薛華酔歌)、杜甫がいう「長句」とは、初唐以後引き続いて流行していた七言の歌行体の作品をさしていうものと考えられる。七言歌行体において、李白は当代の達人であった。その作品は、作られるとたちまち、人々の口から口へと、うたわれ、朗誦され、語りつがれていったものであろう。それゆえ李白の詩には、しばしば伝誦の過程に生じた異本が生まれた。そのことについてはすでに、「李白詩の伝承に関する一考察」(東京教育大学漢文学会々報二二号)において詳述したので、改めて説くのをさけるが、人々の伝達による異本が生まれるほど、李白の詩は、当時の人々にもてはやされたのであった。しかしまた反面、そうして人々にもてはやされ、伝承の過程における異本も生まれたがために、ときにしばしば粗雑な感じをまぬがれない作品も李太白全集の中には、含まれている。李白自身にも、本来、豪逸さの反面にともなう粗放さが事実あった。しかしまた、作品が有名になり、人の口から口へと伝えられる過程にあって、いよいよ粗放になってゆくことも、一面にはあったであろう。それは、多くの人に愛されるがための、やむをえない趨勢でもあった。しかしさればといって、李白の詩を、本来荒っぽいものとして考える見方には、わたくしは賛成しない。李白の詩人的性格は、大きな感情の振幅の中に鋭いきれあじがあり、余人の考え及ばないひらめきがあり、着眼にこまやかさもあり、底がない悲哀もある。総じていえば奇想と逸興、それこそ李白の真骨頂であり、李白が天賦の芸術家たるゆえんである。

(C) Suzuki Emiko, 2016

   

当連載について

『漢文教室』は、1952(昭和27)年5月に創刊されました。
 漢文教育振興の気運が高まっていた当時、小社では諸橋轍次先生を編集顧問に、中西清・鎌田正・大木春基・鈴木修次・小林信明・尾関富太郎・牛島徳次の先生方を編集委員とした検定教科書『高等漢文』を発行、雑誌『漢文教室』もこの機に創刊されました。
 漢文教育のありかたについて、また発行教科書について、「理論と実際の両面から活発なる研究を試み、漢文教育の真のありかたを研究する」(諸橋轍次先生「発刊の辞」)ことを目的としてスタートしたこの雑誌は、以来、多くの先生方のご指導・ご支援により、漢文教育界の動向及び最新の教材研究、授業実践等を、全国の先生方にお届けしております。
 当「漢字文化資料館」の「『漢文教室』クラシックス」では、現代の読者の皆様には目に触れる機会の少ない『漢文教室』の古い号から、掲載論考を再掲してご紹介します。

 *各論考は原則として掲載当時の原文に変更を加えずに掲載します。ただし、インターネット上で示しにくい漢字等は、適宜、別字体にするなどの変更をします。図版類についても、適宜、割愛します。
 *論考内で使用されている語や言及されている事実関係については、現在では用いられない表現、現在とは異なる事実等がありますが、各論考の執筆時期をご考慮の上、ご覧ください。
 *「漢文教室」は主に高等学校国語科の先生方にお届けしている雑誌です。(197号以降の号は、大修館書店のサイト「Web国語教室」にて、ご覧いただけます。)

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『漢文教室』クラシックス