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 毎日操作するスマホ、ネットサーフィンをたのしむタブレットPC。そこにはいろいろな画像・動画が見られます。そこには文字もたくさん出てきます。アルファベットや絵文字、ひらがな・カタカナ、そして漢字も使われています。IT機器がとても身近になった昨今、文字は、特に漢字と接する機会は、手書きが主流だった時よりも増えているような感じさえ受けます。
 そんなふだん見慣れた漢字は中国に起源があります。宇宙の始まりはどんなだったか興味を持つ人はたくさんいるようですが、“漢字のはじめ”も気になりませんか。
 そもそもの“漢字のはじめ”はどういったモノだったのか、その後どのように変化してきたのか、この連載でたどっていきたいと思います。
 ご執筆をいただくのは、新潟県立大学・高久由美先生、東京大学・大西克也先生のお二人です。高久先生には甲骨文字、金文から篆文へと、時代の流れに沿って解説いただきます。また、大西先生には、文字の定義や個別の漢字にまつわるお話など、トピック的にご執筆をいただきます。
 きっと、ふ~んそんなだったのか、と思っていただけると思います。
         *        *        *    
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 まずは、古代中国の漢字のはじまりからお楽しみください。
                                 ——編集部  


 

 

◇PartⅠ 最古の漢字の出現と研究の始まり

高久由美  

 

〈亀卜とは〉

 古代中国においては、支配層が建国に際して神の意向に従うと称し、卜[ぼく]・筮[ぜい](うらない)によって事の吉凶を占い、政[まつりごと]についての決定をする慣行があった。中国で、実在の確認される最初の王朝である殷の王室においても、亀の甲や牛の骨を用いた占いが頻繁に行なわれたが、その実物が三千年以上の時を経て、19世紀最末期に初めて世に出現した。そこには占いの内容や結果が、当時の文字によって刻されていたため、多くの場合、甲骨文字と呼ばれ、漢字の最古の形態を示すものとして、注目されることとなった。
 亀の骨格は、「背甲[はいこう]」と呼ばれる背の部分と「腹甲[ふくこう]」と呼ばれる腹の部分が「甲橋[こうきょう]」と呼ばれる部分で繋がっていて、この甲橋部分を刃物で切断して背甲と腹甲に分けて亀卜に用いた。占いの記録には主として腹甲が用いられ、背甲は稀である(図①)。腹甲、背甲ともまずその内側(裏面)に、焼灼[しょうしゃく]時に表面に亀裂を誘導するために、鑿[さく](アーモンド形の深い凹み)と鑽[さん](円形の浅い凹み)と呼ばれる深さと形の異なる二種の凹みをうがつ(図②)。そしてこの部分を焼灼し,その結果表面に出現する卜字型の亀裂によって、吉凶を判定した(図③)。

図①-1 亀の腹甲

図①-2 亀の背甲

図② 亀の腹甲の内側(裏面)に穿たれた鑚と鑿

図③-1 亀の腹甲 外側(表面)    図③-2 亀の腹甲 内側(裏面)

 

〈甲骨の発見〉

 甲骨発見の年とされる1899年、北京にて山東商人からもちこまれた甲骨を前に、史書の「灼亀観兆[しゃくきかんちょう](亀を灼[や]き兆[ちょう]を観[み]る)」(『史記』亀策列伝[きさくれつでん])の実物をはじめて目の当たりにした劉鶚[りゅうがく 1857?~1909]と王懿榮[おういえい 1845~1900]が、どれほど興奮を覚えたかは想像に難くない。刀刻された文字は、文献に伝わるのみで誰も目にしたことがなかった漢字の最古の形態であることを直ちに悟ったためである。古文字に造詣の深かった彼らは、記された十干の人名と『史記』殷本紀との共通性に気付き、これらが殷代の所産であると推定した。
 王懿榮はその直後の1900年に義和団事件の責めを負って自死するが、彼らが財力の及ぶ限り収集整理した結果は、早くも1903年に拓本集『鉄雲蔵亀』[てつうんぞうき]として上梓された(図④)。新世紀の学問の始まりであり、この少し前の清朝中後期から金文研究が盛んになっていたことと相俟って、その後次々と競い合うように甲骨著録書や研究書の刊行が始まったことは甲骨学史上よく知られることである。なかでも、羅振玉[らしんぎょく 1866~1940]は、古器物学者として甲骨の収集と著録の刊行に努める一方、甲骨の正確な出土地点の解明に努め、当初は河南省湯陰県から出たと言われたが、実際はこれよりさらに北の安陽市近郊を流れる洹河[えんが]の南岸にある小屯村[しょうとんそん]であることを明らかにした。そしてこの場所こそ『史記』項羽本紀でかつての殷の都跡と伝えられる「殷墟」に相違ない、と考えられるようになった。

図④『鉄雲蔵亀』

 

〈殷墟の考古発掘〉

 1928年秋に至って小屯村において国立中央研究院歴史語言研究所による第1次殷墟発掘が行なわれ、正式な出土記録をもった大量の甲骨が発掘されるようになった。なかでも1936年春の第13次発掘では、YH127坑から発見された亀甲のうち、破砕されずほぼ完全な形をとどめた亀版三百枚近くが出土、小片を合せると「1万7096片」という空前の一大収穫であった。発掘調査はほぼ毎年春と秋の2度実施され、甲骨以外にも様々な出土遺物、大型建築址や墓葬も数多く見つかったが、1937年春の第15次発掘を最後に、それ以降の発掘は中止となり、戦後1950年に再開されるまで中断された。それに先立つ1949年、5年に及ぶ内戦の末に中国共産党による中華人民共和国が成立、それにともない中央研究院歴史語言研究所は国民党とともに台湾に遷り、過去15回に及ぶ殷墟発掘による大量の甲骨は、他の多くの出土遺物と共に現在、台北市南港の同研究所に保管され、大部の発掘報告書として刊行されつつある。20世紀前半の甲骨学史は東アジア史と密接に関わりながら展開してきたといえる。
 戦後の殷墟発掘は、中国科学院考古研究所が引き続き実施し、1973年には小屯南地で解放後最多といわれた5千片を超す甲骨片が出土した。また、1976年には殷墟婦好墓[ふこうぼ]が未盗掘で発見され、被葬者の婦好が甲骨文に登場する人物であるだけに、考古学者のみならず甲骨学者の注目を集めた。
 甲骨の発見は河南省の安陽殷墟だけにとどまらなかった。1952年には河南省鄭州二里岡遺址、1977年には陝西[せんせい]省岐山[きざん]県鳳雛宮殿[ほうすうきゅうでん]遺址の地から、次々と甲骨発見が報じられた。特に後者は文字の刻まれた細かな甲骨片が数百あり、殷末から周初の産物であったため周原甲骨と呼ばれ、殷墟甲骨と並んで重要な新発見史料とされている。

 

備考:図版出典
 図① 陳夢家『殷虚卜辭綜述』科学出版社、1956年
 図③ 『小屯・殷虚文字乙編』6668・6669を元に作製
 図④ 『鉄雲蔵亀』

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