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読み物

特別記事

青山学院大学名誉教授の大上正美先生に、『三国志事典』(渡邉義浩 著、2017年)をご紹介いただきました。

 


 十九世紀初頭にはじめての著書を公刊したヘーゲルは、長谷川宏によれば、哲学博士の肩書をあえて「世界知の博士」と記したそうである。専門化が極端に進行した二十一世紀の学問では「体系として総括するには一個人の手にあまる試み」でしかないのは否定しようもないが、しかしながらわたしが本書を前にして圧倒的に印象づけられるのは、三国志を取り巻く渡邉さんの「世界知」である。三国志をめぐる知識の網羅はもちろんだが、何よりも中国古代の社会構造を共時的に通時的に儒教国家を軸として捉え、三国志の世界再構築という形で渡邉さんの古典学が提示されているからである。
 三国志の概観、躍動する群像の解説、厳選された名場面の再現がぬかりなく収められていて、読者は自らの読書体験の多寡に沿って安心して項目を楽しめる、といったよくある事典とそれほど変わりがない組立てともうつる。しかしそのような満足感のずっと彼方に、本書を手にする「啓蒙」の刺激やよろこびがあり、それが渡邉さんの中国学で再構築された三国志の世界知であると評するのがふさわしい。
 ご自身が言うように、渡邉さんの中国学の出発には、多くの三国志愛好家と共有する、いきいきと描かれた英傑像や忘れられない場面の堪能がある。(そのドキドキ体験は名場面を原文とともにとりあげた項目だけでも愛好者の一書となる。)そのおもしろさの成り立ちの歴史的基盤の構造的究明へとのり出す渡邉さんの論理立てが本書のあちこちから手に取るように分かる。三国志世界の再構築の柱としての二、三を示せば、まずは正史『三国志』執筆に見る陳寿の史家としての工夫を凝らした戦略と志である。とりわけ季漢(漢の末)と位置づける蜀出身の彼が、しかもなお魏書に本紀を設けながら同時に、三国の歴史としてたとえば諸葛亮評価などに、魏書に埋没させなかった姿勢を貫くと強調する。
 第二点は、後漢の儒教国家の枠組の系列の中で、後には荆州学に貫かれる名士層と、儒教にとらわれない猛政や文学の賞揚など、曹操という「超世の傑」の出現の意味とを対置する。その枠組は三国の事実上の終結後、名士の存立基盤の九品中正制と結合した西晋初の五等爵制による儒教国家の衣替えとして蘇り、名士が貴族へと変貌すると捉える。さらには儒教一尊から四学三教への六朝時代を見通す視野を示す。そのように「儒教国家」(「名士」の語とともに渡邉さんのキーワードである)を基軸に、三国志の時空の画期としての意味づけが明確に浮き彫りにされている。これは『三国志』と『三国志演義』の比較において、南宋の朱子の大義名分論によって蜀漢を正統とする歴史小説『三国志演義』の出現を迎える、とするところにも一貫されており、単なる伝説の系譜に止まらない物語化の思想的由来が語られるのである。
 第三点は、曹魏と倭国との関係を問題にし、三世紀の国際的緊張関係の見取り図を提示する。蜀漢に対抗する異民族として親魏大月氏王、孫呉に対抗する異民族として親魏倭王の称号を与えるとする、あえてなした東アジア的視野や日本古代の王権を再考する大胆な仮説には、現在の東洋学の学問的有効性を語ろうとする渡邉さんの使命感がうかがえるようだ。
 渡邉さん一個人の試みは途方もなく驚嘆するしかない世界知であるが、専門を異にする者、それも閉じられた狭い文学の価値を問うだけのわたしのような者からの視野では、上記のように、臍の緒からのしかとした世界知の獲得への理の道筋であることが感知できるのが精一杯であるかも知れない。開かれた知と骨太な構想、そして学問的な志が並々ならぬところであり、どんなふうに学問の触手を逞しく伸ばしていくか、その世界知の実現には、知力体力熱力の大才が基盤になっているのはもちろんであろうが、その肯綮は奈辺にあるか。はじめに戻って、わたしは孔明の義と言ってみたい誘惑に駆られるのである。
 「一統を大」にする儒家の真性を体得した渡邉義浩の学的態度には人生的精神が貫かれていると言い切れると思う。真の意味での啓蒙の書であり、そうであるからこそ三国志ファンの垂涎の書として小脇に抱えこまれ続けるであろう。また何かと一言あるであろう専門を同じくする人たち、また専門を異にする者たちにも、それぞれ自身の研究の基本的な立ち位置により意識的にならざるをえないことを強いて止まないものであることは間違いない。

『漢文教室』203号(2017年5月)掲載


『三国志事典』
渡邉義浩 著

ISBN: 978-4-469-23278-3
A5判・388頁
定価: 本体3,600円+税

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