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迢迢たり 牽牛星、皎皎たり 河漢の女       ――「古詩十九首」其の十

 七月七日は月と日に同じ奇数が重なる特別の日、その晚の「七夕(たなばた)」の風習は中国から日本に入ってきたものの一つで、今でも続いている。願い事を記した短冊を笹竹につけて飾るのは、中国の「乞巧」[きっこう]から来たものだろう。婦女が針仕事の上達を願ったものという。庭を掃き清め、七本の縫い針に色鮮やかな糸を通し、酒や果物をお供えしたと、南朝の生活習俗を記した『荊楚歳時記』[けいそさいじき]に見える。(たびたび七という数が登場するが、七が世界各地で聖なる数であったことは、ミルチャ・エリアーデが書いている。)
 乞巧は唐代の宮廷でも行われた。華やかであった頃の宮中のあれこれを記した『開元天宝遺事』にこんな記述がある。

 玄宗皇帝と楊貴妃は、毎年七月七日の夜に華清宮で宴を開いた。宮女たちは庭にご馳走を並べ、牽牛・織女の星にお願いをした。そしてまたクモを小箱のなかに放ち、翌朝に箱を開いて、クモの網がびっしり張っているとお針が上手になる、網が小さければうまくなれないと言われた。

 同じ本のなかには、「乞巧楼」という楼台で、後宮の女たちが上弦の月のもと、九孔の針に五色の糸を通す、それができれば裁縫が上達する、という記述もある。宮女たちが星に祈る光景は、思い描くだに華やぎ、美しい。
 長生きや金持ちになることを願う人たちもいた。西晋・周処『風土記』には、願い事は一つに限られる、いくつも欲張ったら効果は無い、とある。なるほど、さもありなん。
 今の中国・台湾で七夕といえば「七夕情人節」、つまり恋人たちの夜。旧暦七月は「鬼月」――霊界と通行する危うい月のはずなのに、若い人たちはおかまいなしだ。「情人節」は言うまでもなく、牽牛・織女に由来する。
 牽牛・織女の伝承は古い。紀元前六世紀ころに編まれた、中国最古の詩歌集である『詩経』、そのなかの小雅・大東[だいとう]の詩篇のなかに早くも見える。

 空にあるのは天の河、地上を見下ろし光り輝く。
 つま先だった織り姫星(織女)、一日のうちに七回も動く(七襄)。
 七回動いたって、布の模様を織れはしない。
 明るいあの彦星(牽牛)、牛引きなのに箱もない。

 星の名として「織女」「牽牛」が登場する。織女の「襄」という動作が何を意味するするのかわからないが、この詩は牽牛・織女の物語を語るのではなく、名前は織女と言うのに機織りもできやしない、牽牛と言うのに牛車が引く箱もないと、名前が実を伴わないことをからかっている。からかいの対象にしているのは、二つの星にまつわる話がすでに十分に浸透していたであろうことを思わせる。
 編集担当の佐藤悠さんによると、日本では彦星が迎えに行く話が多いという。だとしたら日本の彦星はやさしく、中国の織女のほうはけなげでいじらしいことになる。天の河を渡って行くのは決まって織女のほうなのだから。それは嫁入りの際、新婦が新郎の家に行くことの反映だろうか。織女が河を渡る際にはカササギが橋を作って渡してくれたという話もある。日本のあちこちに「かささぎ橋」という名の橋があるのは、それに由来する。
 伝説はともかく、織女星(こと座の一等星ベガ)が銀河を渡って牽牛星(わし座の一等星アルタイル)のもとへ移動することは、実際にはありえない。「万古 永く相い望むも、七夕 誰か同[とも]にするを見ん」――昔から向き合っていても、一緒になるところは誰も見てはいないと、杜甫の「牽牛織女」の詩にも言う。しかし見られるものなら見てみたいものではある。そして実際に見ようとした人がいた。南朝宋の末期に数年の間帝位についた劉昱[りゅういく](463~477)である。暗愚・残虐な君主に事欠かない歴代帝王のなかでも指折りの一人。数々の行動に見られる非人間性は常軌を逸している。明帝の長子として生まれ、十歳で即位、十五歳の時、家臣にこう命じた。「織女が天の河を渡るのを見たら報告せよ。見えなかったら、お前を殺す」。結果は――彼自身がその夜のうちに家臣の手で殺された。劉昱の死を聞くと、みな一斉に万歳を叫んだという(『宋書』では記述をはばかったのか、『南斉書』高帝紀に見える)。七夕と道教との関わりについては、小南一郎『西王母と七夕伝承』(平凡社、一九九一)に詳しい。
 牽牛・織女の説話は暮らしのなかに伝承されただけでなく、詩のなかにも牽牛・織女は読み込まれている。三国魏の曹植が洛水の女神との交わりを幻想的にうたった「洛神の賦」にも、「牽牛の独り処るを詠ず」と伴侶不在の悲哀を牽牛に托す。白居易の「長恨歌」でも、玄宗と楊貴妃が永遠の愛を誓い合うのは「七月七日 長生殿」であった。七夕そのものをうたった詩も少なくないが、読み返したくなる作には乏しいように思う。たとえば中唐・孟郊の「古意」と題する詩は以下の四句。

 河辺織女星  河辺の織女星
 河畔牽牛郎  河畔の牽牛郎
 未得渡清浅  未だ清浅を渡るを得ず
 相対遥相望  相い対して遥かに相い望む

 これは明らかに次に挙げる「古詩十九首」をなぞっている。しかしなぞったという以上の意味はない。孟郊の詩は、尖った刃物で体をつんざくような鋭さを特徴とするが、この題材では孟郊らしさを発揮するすべはなさそうだ。
 「古詩十九首」の成立については種々意見はあるにしても、五言の楽府、建安の五言詩との親近性から、時期は後漢の後期、詩の歴史のうえでは楽府→古詩十九首→建安詩という展開に位置づけて理解したいと思う。それは集団的抒情性から特定の個人の心情表現へと詩が移っていく途中の段階に当たる。
 『文選』(巻二九)が収める「古詩十九首」は、人間の二つの悲しみをうたうとまとめられよう。一つは人の生のはかなさから生まれる悲哀であり、もう一つは異性との関係がもたらす悲しみである。そして「其の十」は後者を代表する。

 迢迢牽牛星  迢迢[ちょうちょう]たり 牽牛星
 皎皎河漢女  皎皎[こうこう]たり 河漢[かかん]の女
 繊繊擢素手  繊繊として素手を擢[あ]げ
 札札弄機杼  札札[さつさつ]として機杼[きちょ]を弄[ろう]す
 終日不成章  終日 章[あや]を成さず
 泣涕零如雨  泣涕[きゅうてい] 零[お]つること雨の如し
 河漢淸且淺  河漢は清くして且つ浅し
 相去復幾許  相い去ること復た幾許[いくばく]ぞ
 盈盈一水閒  盈盈[えいえい]たる一水の間
 眽眽不得語  眽眽[ばくばく]として語るを得ず

 はるかに遠い牽牛星。白く輝く銀河のむすめ。
 ほっそりと色白の手を振り上げて、サッサッと機[はた]を織る。
 一日たっても模様が織り上がらない。涙がこぼれる、雨のように。
 天の河は水は澄み底は浅い。向こう岸までさして遠くもない。
 なのに水を湛えた一筋の流れに隔てられ、見つめるだけで言葉も交わせない。

 この一首は漢魏六朝の恋の詩としては異色の、そしてまた出色の作ではないだろうか。ほかの情詩がほぼみな閨怨詩のかたちに収まるのに対して、これは恋しながらも近づけないやるせない思いをうたっている。牽牛・織女を下敷きにしてはいるけれども、二人の恋物語を直接語っているのではない。銀河を隔てて会えずにいる一対の男女、その設定を借りて二人を隔てる障害のために結ばれない悲恋を女性の立場からうたう。
 「繊繊」以下の四句は、涙に暮れて機仕事ができないことをいう。『詩経』の織女星は名前に過ぎないから機織りができなかったのだが、ここでは恋の悲しみのためにはかが行かない。
 「河漢」以下の四句は、実際にはたいして隔たっていないのに近づけないという、恋がもたらす主観的な隔絶感をいう。晩唐・李商隠の「無題(相い見る時は難く)」にこんな二句がある。

 蓬山此去無多路  蓬山 此[こ]こより去りて多路無し
 青鳥殷勤為探看  青鳥 殷勤として為に探り看よ

 あの人のいる蓬莱山は、ここからさほどの隔たりはないはず。恋をとりもつ青鳥よ、どうかわたしのために手を尽くして見てきてくださらないかしら。

 東海に浮かぶ、仙人の住まう蓬莱山、それは日常を超えた遠い彼方にある、が同時に実はすぐそこでもある。恋のもたらす距離の二重性については、日本の歌謡曲の例がわかりやすい。

 五番街は近いけれど、とても遠いところ。 (阿久悠「五番街のマリーへ」)

 孟郊の詩では牽牛・織女が互いに見つめ合っているかのようであり、「古詩十九首」もそのように読むことができるけれども、わたしは「眽眽として語るを得」ないのは、織女になぞらえられた女に限ったほうがいいと思う。互いに見つめ合うというのも新鮮ではあるが、ここでは思いを秘めたまま悲しい視線を凝らす女性の姿が思い浮かぶ。


(c)Kawai Kozo, 2021

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