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我歌えば月徘徊し、我舞えば影凌乱す         ――李白「月下独酌」

 今年の中秋の月は十月一日。それが旧暦の八月十五日にあたる。秋三か月を孟秋・仲(中)秋・季秋に分けた真ん中の月の十五夜である。「月見る月はこの月の月」と言われたように、この時期になれば暑気はすっかりはらわれ、澄んだ秋の夜空にとりわけさえざえと月が輝く。
 わたしが小さいころには、中秋の夜には縁側にススキやお団子をそなえる習慣がまだのこっていたが、このごろではお月見の行事はすっかり廃れてしまった。逆にヴァレンタインとかハロウィンとか、昔はなかった節日が、若い人たちに人気がある。中国伝来のお月見が忘れられ、西洋の行事が本場以上ににぎにぎしい。生活や文化の転換はここにもあらわれている。
 しかし中国では今でも中秋節は季節の節目を示す大事な節句として生きている。中秋節が近づいてくると、街には月餅の箱をクリスマスケーキのように抱えた人が行き交う。月餅は真ん丸い満月をかたどり、一家の団円をあらわす。日本では「いざよいの月」「たちまちの月」などと名を付けて、月齢ごとの月をそれぞれに愛玩するのと異なり、中国の「月」はほぼいつでも満月。完全無欠の団円が中国では好まれる。

 月を詠じない詩人はないだろうが、とりわけ月を好み、独特の月をうたっているのは李白をおいてない。その一つ、「月下独酌」を読んでみよう。ただしこれは春の月である。

 「独酌」――一人で酒を酌む、何気なく読み過ごしてしまうけれども、飲酒はもともと人と一緒に楽しむものだった。自分一人で酒を飲むのは、ふつうでないことだったのである。この詩題にすでにこの詩のテーマがあらわれている。ともに杯を交わす人がいない李白は、やむなく一人飲みながら月と向かい合う。

 花間一壺酒  花間[かかん] 一壺[いっこ]の酒[さけ]
 獨酌無相親  独[ひと]り酌[く]みて相[あ]い親[した]しむ無[な]し

 咲き誇る花々。その間に置かれた酒壺。好ましい道具立てはそろっているのに、一緒に楽しむ人がいない。詩はひとりぼっちの空しさから始まる。

 擧杯邀明月  杯を挙げて明月を邀[むか]え
 對影成三人  影に対して三人を成す

 李白は友の代わりに月を迎え入れる。すると自分の影と合わせて、そこに三人の飲み仲間ができあがる。これで独酌しなくてすむことになった。ところが、

 月既不解飲  月は既に飲むを解せず
 影徒隨我身  影は徒[いたず]らに我が身に随う

 擬人化してみたところで、月は酒を飲む意味がわかっていない。影法師はただわたしの動きにつれて動くだけ、一人前の人ではない。せっかく仲間ができたと思ったのに、たちまち期待は失望に変わる。この詩は期待と失望が繰り返される転折ばかりだ。

 暫伴月將影  暫[しばら]く月と影とを伴う
 行樂須及春  行楽 須[すべから]く春に及ぶべし

 でもとりあえずは月と影を引き連れることにしよう。「人生は行楽のみ」(漢・楊惲[よううん]の言葉)というではないか。ならば今この春のうちにこそ楽しまねば。

 我歌月徘徊  我歌えば 月徘徊し
 我舞影凌亂  我舞えば 影凌乱す

 わたしが歌えば、月もそれに合わせてゆらゆら。わたしが舞えば、影もともにふらふら。「徘徊」という畳韻の語、「凌乱」という双声の語を使って、月と影が李白と一緒に体を動かす様子をあらわす。なんともぎこちない動きではあるけれども、とりあえずは三人の饗宴ができた。

 醒時同交歡  醒むる時は 同[とも]に交歓するも
 醉後各分散  酔いて後は 各[おの]おの分散す

とはいっても、しらふの時は仲良く楽しむ三人、酔いが回るとそれぞればらばら。三人の饗宴もはやり一時[いっとき]のものでしかない。すぐに元の分散状態に戻ってしまう。それでも結局この連中のほかに自分の友はいない。

 永結無情遊  永く無情の遊を結び
 相期邈雲漢  相い期す 雲漢邈[はる]かなるに

 月や影のように「無情」、人の心をもたないもの、彼らと永久の契りを結び、天の川の遥かかなたで会うことにしよう。

 このように二句ずつ区切って読んでみると、二句の単位がいつも「しかし」という逆接の関係で繋がっていることがわかる。この詩はジグザグを繰り返して続く。ともに酒を飲む相手がいないので月と自分の影を仲間に引き込んでみた。しかし三人の宴会がすんなり進むわけではない。しかしそこはがまんして、こいつらと飲むほかない……逆接ばかりが続くのは、ひとりぼっちでいるという現実、月と影を仲間にするという夢想――現実と夢想の間で李白自身がぎくしゃくと揺れ動くからだ。
 そして最後の二句に至って、揺らぎから離れ、月と影との三人で「永遠の友情」を結ぼうと言う。永遠の友情を分かち合う相手は「無情」の月と影である。人としての情感、こころをもっていない彼らと友情を結ぶしかないのは、「有情」の存在である人との間に友情を結べないからだ。李白は絶対的な孤独のなかにいる。無情の月と影こそが我がとわの友、というのは、なんとも寂しい。
 無情の友人と交歓する場はこの世にはない。遥かなる雲漢の果て、地上を離れた遠い宇宙空間でしか、我々の友情は実現しない。この詩には李白以外に人間が一人も登場しない。この世に酒杯を交わす友もなく、居場所もない詩人は、宇宙の果てで無情のものとの交友を期するほかないのである。
 李白は決して人間嫌いで、世間を嫌悪するタイプの人ではなかったと思う。むしろ人が好きだったであろうに、心から親しめる人がいない、この世のなかに自分のいる場所がない。人を愛する人であったからこそ、このうえない孤独を覚え、現世を遠く離れた、銀漢の果てでの交友を夢想したのだろう。

 自分の影が登場するといえば、中国の文学のなかで名高いのは、陶淵明の「形影神」の詩である。それは自分という一人の人格を、形(肉体)・影・神[しん](精神)の三者に分けて、それぞれが生死の問題について論を展開する。議論は最後に登場する「神」の意見に帰着するのだが、架空の三者が議論を繰り広げる体裁は漢代の賦に傚ったものである。
 李白の詩にも自分、影、月の三人が登場するが、しかし三者は対等の関係ではない。影は自分に付きまとうだけ、月もこの詩では添え物に過ぎない。李白の別の詩、「酒をと把りて月に問う」では、月に対して正面から向かい合い、月に問い掛ける。李白の詩のなかで、月は様々なかたちでうたわれているが、今回取り上げたのは、ほんとうは地上の人を求め、地上の事物を愛しながら、しかし地上に居場所を得られない李白が、天空の果てにおける交友を夢想した詩である。

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